第15話
玄関を出ると、雨は止んでいた。雨上がりの冷風が意味も無く俺を襲う。悪い酔いを冷ますためには、孤独なほうが良い。
どこかに腰を下ろせる場所が欲しい。そう思っていたが、先に見つけたのは、向こうがわから歩いてくる人影。
「あ」
どちらともなく声が出る。
憶さんだ。
紙を下ろし、厚いピンクのカーディガンを羽織った姿で、こちらに門から帰ってきている最中だった。
車のエンジン音が遠ざかっていく。
「こんばんは」
「こんばんは。どうかしましたか、こんな時間に」
こんな時間……。そうか、もう夜中の十一時か。満さんとボーさんの話が濃密すぎて、時間の感覚が薄れていた。そう言えばまともに飯も食ってないな。空腹感はないけど。
「俺は、ちょっと酔いを冷ましに」
「さすが。大人ですね」
なにが「さすが」なのか。むしろ、外の風に当たってまで冷まさなきゃいけないほど酔っぱらうやつは大人じゃない。酒を憶えたての、情けない大学生だ。
こんなことを憶さんに言ったってしょうがないので俺は曖昧に笑う。
「憶さんこそどうしたの?」
「私は妹を送っていました」
「妹?」
「はい。四つになる妹がいまして」
そこから先の言葉を、憶さんはなかなか口にしなかった。
言いたくないのなら言わなくていいのに。だったら、俺が立ち去ればいいのか。だけど、外に出てきていきなり帰っていくのも逆に気を遣わせそうだ。
冷たい風が吹いた。遠くのほうの木々を揺らし、俺たちまでやってくる。「くしゅんっ」と、目の前の彼女がかわいらしくくしゃみをする。思いの外、大きい音だった。風のざわめきよりもはっきりとして、静かな夜空に響いて。
沈黙と、気まずそうな顔。
「とりあえず、中に入ろうか」
「はい……」
少し鼻と頬を赤くした憶さんと一緒に旅館の中へと入っていく。
受付時間は終了していて、ロビーは薄暗い。
「あの、付いてきてください」
調子を取り戻した憶さんは俺の左手を取り、地下への階段を降りていく。
ロビーと同じ絨毯が敷かれた階段は俺たちの足音を消してくれる。暗がりの中、踏むべき段を見失わないでいられるのは絨毯が赤色と非常灯のおかげだ。赤と緑色が不揃いな輝きで足元を照らしてくれている。
階段を降りきって、地下一階。
少し廊下を歩き、右に現れた最初の部屋に入る。
そこは、ゲームセンターだった。旅館にあるこういった部屋はゲームルームと言えば正しいのかもしれない。だけど、部屋に入ってはじめに目に付く壁には、【ゲームセンター】と書かれているので、それに倣っておく。
置かれている筐体はどれも古臭い。五色の絵の具で彩色されたような画面。表現の乏しい効果音。色あせた説明ボード。太鼓の達人の目玉楽曲は夏祭りのままだ。温泉宿が置いているゲーセンってだいたいこんなもんだ。むしろ、それが楽しみで寄るところもある。ただ、人気はないのかだいたいガラガラだけど。
憶さんはストリートファイターの前に置かれた椅子に座る。
「ええっと、好きなの?ゲーム」
いきなり連れてこられたし。対戦相手が欲しかったとか?
「いえ、別にそこまでは……。古臭いですし」
こいつらに青春を燃やした人たちとレトロゲーマニアに謝れ。
「私が子どものころからありますけど、人気ないんですよね。正直、電気の無駄かなとも思っちゃいます」
「やめてあげて。好きな人もいるから……」
そう言えば、なんでこんなところは残っているのか知らないけど。
憶さんがここへやってきたのはゲームがしたいからじゃないのか。
「だったら、なんでこんなところに?」
「それは、その、」
憶さんは、俯いたり天井を仰いだり、あちこち見渡したうえで息を吸って、ようやく最適な言葉を見つけたようで、
「城さんと話がしたいな思いまして……」
「俺に……?」胸が軋む。
「ご迷惑ですか……?」
「そんなことないよ。大丈夫」完全に大丈夫ではない。青く透明な感情を、受け止められる状態じゃない。
ああ、己惚れるな俺。そんなの、まだ決まったわけじゃないだろ。
「さっきの妹さんの話?」だけど、そう言った方向に話題が進むのが怖くて、俺は話を逸らす。
「はい。先ほど、妹──千景というのですが──を町長さんのおうちに預かってもらいまして。といっても、迎えに来ていただいたんですけどね」
「町長さん?この島って町なの?」
「籠目島の名前がそのまま町の名前です。籠目町。これが正式な住所になります。あ、けど、郵便や配達の宛先に籠目島と書いても届くそうですよ」
「あー、憶えておくよ。実際に届け物があるかわからないけど」
「そ、そうですね。城さんたちは、地震でたまたまここへやって来ただけですもん
ね。それなのに、今日は私の我儘に付き合ってくださってありがとうございます」
憶さんの声が上ずって、だんだんと萎んでいく。こんなにわかりやすいことある?そんなに送る物も無いだろ。別に俺の地元には名物なんてないし。手紙だって、このご時世送らないし。だいたい、
「やり取りなら、LINEでもいいだろ。わざわざ手紙なんて書かなくても」また、胸が軋む。
「それ、人によっては落ち込みますよ」かなり、胸が軋む。落ち込んだままだったのかな。
俺たちはスマートフォンを出し合って、連絡先を交換する。彼女のアイコンは、友人と撮った笑顔の写真だった。背景から見るに大学の校門前っぽい。【──南大学】と大学名がわずかに見えている。基本知り合いにしか教えないアカウントだ。こんなところまでネットリテラシーを気にするわけにもいかないか。写っているみんなが笑顔の、いい写真だし。
「住所も送っておきますね。待っていますから」
「あ、手紙送るのは確定?」
「城さんが住んでいるところの絵葉書を送ってください。私も、私の住んでいる場所の絵葉書を送りますから」
それなら、意味がありますよね?
ただの葉書や手紙を送るよりかは、頷ける理由だった。むき出しのまま送るから内容が配達員に内容が読まれてしまうのが少しネックだけど。大したことを書かなければいいのか。
俺も、彼女に住所を送っておく。
「妹さんは、どうして町長の家に?」
沈黙を作りたくなくて、話題を無理やり戻す。
「やっぱり、こんなことがありましたから」
「ああ……」
聞いたことを後悔する。
そうだよな。家の敷地で人が死んだのだ。しかも、商売をやっているところで、だ。しばらくは色々な人間が出入りするだろう。
いや、籠目島の人たちはもう、調べる気ないだろ。だって、彼らは、ブコウとかいう神様がやったことだと思っているんだから。
「父が、城さんのお部屋にお邪魔しましたよね?」
「うん……」
信じていないのは、この娘たちの父親であり、この旅館の当主。そして、ブコウに一番近い存在の人間が、収まった騒ぎを大きくしようとしている。
「ボーさん、俺と一緒に来ている探偵に調査を依頼しに来た」
「父はまだ調べてもらうつもりですから。もし、タンテボーさんがお断りになっても、本土から警察や専門の方も呼んで」調べてもらうことは決定事項。だから、島の人間にその気はなくとも、別の地域の人間が険しい顔をして敷地に出入りするので、妹さんは彼らを見ないところまで疎開させた。
部屋での満さんを思い出す。あの気迫は、普通じゃなかった。俺が気圧されていたのは三十万円の札束じゃない。
「あのさ、なんでそんなに神様が何もしていないことにしたいの?」
満さん本人にはビビって訊くことができなかったけど、憶さんには訊ける。理由を素直に述べるなら、年下で女の子だから。とにかく俺は小心者である。こういう娘には強気に出られるのだ。
「神様のせいならさ、そのままでいいじゃん」
これはボーさんも言っていたことだ。彼の言動は八割ぐらい理解不能だが、二割ぐらいは理解できる。
「亡くなった人には申し訳ないけどさ」
可哀想、なんて感想を得るのは生者のエゴか。申し訳ないと謝罪の意思を口にすることも、誰にも必要とされないエゴだ。だけど、俺は他の言葉を持ち合わせていない。それに、俺たちは生きている。生きているから、生者の都合を考えてしまう。
「神様のせいにすれば、誰も調べようとしないまま、事故ってことで終わって──」
──今回の事故の原因はお酒を呑んでの入浴ということになっている──
「──脱衣所に【酔っぱらっての入浴はご遠慮ください】って張り紙でも貼っておけば解決じゃないの?そうしたら、」
言おうかどうか悩んで、口を閉ざす。
この先は、俺が言えたことじゃない。
不幸な事故の不幸を被るのは、当人たちだけじゃない。いやおうなく繋がっている俺たちだ。一人の不幸が何人もの人間の人生を蝕んでいくことだってある。胸の軋みはその証拠だ。有刺鉄線が心臓に巻き付いている。誰も俺を狙ったわけじゃないのに。
「そうしたら?」
「なんでもない。ごめん、忘れて」
今度こそ、沈黙が俺たちの間を流れる。
背後ではストリートファイターの誰かが断末魔をあげてやられた。
ゲームのキャラが死んでも、せいぜい感傷にふけるぐらいなのに。なんで、現実の人間となるとこんなに苦しまなくてはならないんだろう。
「この島は、目に見えないものを信じすぎています」
それは、二人で夕日を見ていたときに憶さんが言っていたことだ。
「ブコウという神様もそのうちの一つです」
彼女は首を小さく横に振る。
「神様ということも、もしかしたら違うかもしれません」
「どうして?」
そうですね、と憶さんは息を吐いた。
「せっかくですし、お話ししましょう。この島の歴史と、私の一族について」
引きずり少年と悪態探偵の神の不在証明 白夏緑自 @kinpatu-osi
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