第13話

「夜分遅くに申し訳ありません。私、当旅館を経営する、芥川でございます」


 ご丁寧に名刺を渡してくれる。書かれている名前は芥川・満。その下に旅館の住所と電話番号。さらにその下には、満さんの個人の携帯番号。


 俺は大学のキャリア授業を思い出し、両手で受け取る。裏面まで見るのは失礼な気がしたので、そのまま右手に収める。名刺入れを持っていないので、剥き出しのままが少し申し訳ない。


「アッテンボロー・タンテボー様はお休みで御座いましょうか?」


 そんなふざけた名前のやつ、俺の知り合いにいたっけ?口に馴染みはないが、そこそこなじみ深い知り合いにいた気もする……。


 今度はすぐに掘り起こせた。


 ボーさんだ。普段の呼び方で、彼のフルネームを忘れていた。なんだタンテボーって。回るのか?


 満さんの訊く「お休みになっているのか」は寝ているかどうかだろう。そう言う意味では、彼は酒を飲んでテレビを見ているが、目は覚めているので休みではない。


「大丈夫ですよ。ここに呼んで参りましょうか」


「いえ、たいへん申し訳ないのですが、お部屋に上がらせていただいてもよろしいでしょうか?」


 別に大丈夫だけど、これは、その。こんなことを頼み立ててくるときは、人に訊かれたくない話をするときだ。


 まあ、いいか。ボーさんを訪ねてきたってことは俺には関係のないことだろうし。面倒くさいことになるのもボーさんだけ。


「どうぞ、お酒を呑んでしまっていますが、まともに会話はできると思います」


 満さんを招き入れて、机のところまで案内する。と言っても、ここは彼の旅館だ。お邪魔しているのは俺たちのほうになるが、向こうが突然やってきた客人として振る舞うので、こちらもそれに合わせて、それらしく振る舞う。


 座布団をボーさんの向かい側に置く。


「これはありがとうございます」


「いえ、」


 満さんは腰を下ろし、姿勢の良い星座でボーさんに向かい合うと、深々とお辞儀をした。


「夜分遅く、お休みのところ申し訳ありません」


「いや、いいよ」


 ボーさんも、自分より年上──探偵事務所の所長ぐらいの年齢──の男から、これほど畏まれたことにたじろいで、目を見開いている。


「俺のほうこそ、変に騒ぎを大きくしちまって悪かった」


 俺はボーさんの謝罪にそうだそうだと、心の中で千回ぐらい頷く。あんたが探偵だって名乗らなかったらもっとスムーズだったろうよ。ていうかあんた、そんなに素直に謝れるのかよ。ちょっと驚いてしまったじゃないか。


「それはよいのです。むしろ、タンテボー様が探偵だと知れてよかった」


 探偵だと知れてよかった?


 満さんは、鞄を開き、中身を机の上に積み上げる。


 それは、現金だった。


 薄い黄金の、欲望の色の長方形。


 恐らく、十万円の束が三つ。


 三十万円。


 ドラマだと、もっとど派手に詰み上がりそうなものだが、それでも酒の缶とつまみが広げられたなかでの三十万円は異質さを放っている。そこだけ酒気が払われているみたいだ。


「これは今回の御礼金で御座います」


「お礼されるようなことはしてないよ」


 俺はまた千回ぐらい頷く。ボーさんは何もしていない。むしろ、やったのは俺。盗撮予備軍だ覗き予備軍だとされながら仕事をしたのは俺だ。


「いえ、一度でも手を差し伸べていただいたのは確か。それに応えぬは不義理でございます」


 ドアを開けて見たときは、物腰柔らかなオッサンみたいだったけど。今はやくざの雰囲気だ。目は笑っているけど、ボーさんが何を言おうともこの三十万円を受け取らせようと言う気合いを感じる。


 当然、正面から顔を合わせているボーさんも気づいているだろう。だけど、彼はまだ頷かない。受け取ったら、面倒事が降ってくる。それに彼は気づいている。


 受け取っても面倒、受け取らぬも面倒。


「いいよロハで──、と言いたいところだが、俺もボーナスが入るなら欲しい」


「それでは、」


 満さんが三十万円をボーさんのほうに押し出そうとするのを、ボーさんは掌で制する。


「その前に訊きたい。追加の仕事に何を頼む気だ?」


 一瞬、満さんの目が刀のように細められ、空間を薙いだ。テレビを切っておくべきだった。タレントの笑い声が、逆に雰囲気を険しくしている。


 俺が唾で三回喉を鳴らして、やっと、満さんの目がもとの大きさに戻る。


「お見通しでしたか。さすがは探偵どの」


「いきなり金を持ってこられるときはロクな時じゃないからな」


 もう俺は二人の顔を見ることができず、机の上の三十万円に視線を逃がすことに必

死だった。もっと考えれば、机の真ん中の灰皿でも見ておけばよかった。これではまるで、俺がめちゃくちゃ欲しいみたいじゃないか。


「それで、俺は何をすればいい?」


 沈黙が、タレントの声を上書きする。


 満さんは言い淀んでいるわけではない。迷っているわけでもない。言葉を探しているわけでもない。


 覚悟を決めている。


 心に秘めていたことを、解き放つ直前。


 その緊張感が、沈黙を作っている。


 うるさいタレントの声が途切れ、CMが始まる。


 満さんが、ようやく口を開く。


「今回の一件が神の怒りではないことを証明していただきたい」

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