第11話
この旅館の浴場にはまだ足を踏み入れていなかったが、女湯と男湯にたいした差は見つけられなかった。
「一日おきに女湯と男湯を切り替えているのです」
今日、女湯の場所も、明日になれば男湯になっている。よくよく考えてみれば、今まで利用してきた多くの旅館がそのシステムだ。棚の向きとか、そう言った差異はあれど、大きな違いはほとんどない。
むしろ、感心しているのはボーさんのほうで「何のためにそんなことを?」と質問してくる。この人、旅館に泊まるのは初めてだって言ってたしな。
「詳しいことは知らないですけど」
前置きしつつ。
「露天風呂から見える景色が変わるからです」
「どっちのほうがいいとかあるの?」
「さあ?」
旅館によっては、片方は壁や建物に邪魔されて景色などほとんど見えないところもある。だけど、ここのは一回も入っていないし、見ていないので答えられない。
「見る景色は毎回新鮮なほうがいいでしょ?」
「それもそうか」
脱衣場に入るなり、ボーさんが俺に指示したのはとにかく写真を撮りまくることだった。
警察の方々は方々で俺たちのやることを見守ってくれるらしい。いや、仕事しろよ。
入ってすぐ、下駄箱の中。
スリッパが四足。二人分。
「中にいたのは二人だけらしい」
「いたら助けているでしょうしね」
のぼせて死にかけている人がいれば、まさか放っておくこともしないだろう。もし、亡くなった二人のうちどちらかが酒を飲んでいなければ。死にかけるのは一人だけで、もう一人が湯から引っ張り上げて死ぬこともなかったんじゃないか。
「おい、考えても無駄なことは考えるな」
「わかってますよ」
わかっている。過去は変えられない。今まで幾千回も呟かれてきた、安物の励ましだ。だから、今の俺はスマホの画面越しに前を向いて、シャッターを切っていく。
下駄箱。
下駄箱から続く、突きあたるまでの人一人が通れるだけの廊下。
廊下をつきあたり、直角に曲がれば脱衣場が広がる。
外装は歴史のある旅館だが、脱衣所の設備はスーパー銭湯なんかの浴場施設の趣がある。ロッカーはすべて木目柄に塗装されたコインロッカーだ。高校の教室二つ分ぐらいの広さに、ロッカーは列を三つ作っている。一列に、三段ずつ。ボーさんはそれだけ確認し、写真に収めるよう指示する。どうやら、総数は気にしなくていいらしい。
他にあるものは洗面台に、その上にはカミソリやドライヤーなどのノベルティ。女湯のここも、男湯にあるものと変わりない。
あと、浴場への入り口近くにウォーターサーバーが一台。
「まずは──あった」
ボーさんは一列ずつ、ロッカーを見て回り、やがて浴場入り口に一番近い列の、壁際にそれを見つける。
鍵のかけられた、二つのロッカー。
このコインロッカーは、百円を投入すれば刺さった鍵を抜きとれるタイプだ。
緑色のタグと鼠色のバンドに囲まれた中で、露出した銀色の鍵穴が二つ。
ロッカーの扉を一枚ずつ、アップで撮る。その次に、少し引いて、一列の半分ほどが収まるように撮影。
ノブに手をかけて二度三度押し引いてみるが、もちろん開きやしない。ガチャガチャと虚しい音が響くだけだ。
「これを」
大宮さんが鍵を二つ持ってくる。
「ああ、どうも」
思わず受け取ってしまったが、これ、さっきまで死体についていたやつだったんだよな。触ることに抵抗はないけど、受け取る前に手ぐらい合わせればよかったかもしれない。
バンドに残る温もりを、大宮さんから移ってきたものだと思えないまま、俺は二つをそれぞれの鍵穴に差し込む。
抵抗なく、すんなり入り込む。
開ける。
中に入っていたのは、特筆することがないものばかりだ。
浴衣。下着。タオル。スマートフォン。部屋の鍵。財布。
特徴があるとすれば、片方は綺麗に畳まれていたり、整理されているが、もう片方は乱雑に突っ込まれているだけなことぐらい。
どちらも、また一度袖を通すことを想定しているんだろうな。
身体を拭くためのタオルは一番上に。そのすぐ下には下着だ。片方は乱雑だけど、そういう意図は見て取れる。
肺の奥に半固形のもやが溜まっていく。
ロッカーの中の状況を作ったのは生きた人間だ。今はもう死んでしまっているけど、また一度開くために作られている。虚しい音や音色がフワフワと漂ってきそうだ。この中に手を入れてもいいものだろうか。
「下着物色する前に写真な」
「しませんよそんなこと」
手を入れるって、もちろん調査のためだよ。誰に言い訳するわけでも無いけど、一応弁解しておく。ボーさんはなんで俺が手を出していいか悩んでいるかわかったんだよ。同類だからか。よく言われるよ。まったく嬉しくないけど。
だけど、ロッカーの中を様々な角度から撮っていると、自分に自信がなくなっていく。隅から隅、映し漏れが無いようになんて考えていると、どんどんシャッターボタンに力が入る。これで、興奮するかしないかは、人の死が関わっていると知っているからだな。もし、今撮った写真を、深夜のネット徘徊で見つけているだけだったら欲っぽい熱が昇ってきていたかもしれない。
一通り撮り終え、ボーさんに確認する。
彼は俺のスマホを手に取り、何枚かスクロールする。
「お前、才能無いな。盗撮は得意なのに」
「それはあんたでしょ」
しかし、ロッカーの状況に重要な手がかりを求めていないらしく、撮影は次の場所に移る。
「どうせ後で全部出すからな。だいたい、俺はまだ事故だと思っている」
だから、何を調べても出てこないはず。出るとすれば、事故の原因だけ。それも、今のところはアルコールのせいが有力だ。
「だったら、調べるべきは遺体の体内だろ。仏さんがどんだけ酔っぱらった状態だったのかなんて、探偵である俺は調べられない。それこそ警察病院の仕事だよ」
「じゃあ、無駄働きですね」
「金が貰えなかったらキレてやる」
浴場へ向かっていくボーさんを追いかけ、扉横に置かれているウォーターサーバーと、ゴミ箱の中を撮影。ゴミ箱の中には紙コップが二つだけ捨てられている。飲んだのは二人。酔った状態でやってきて、少しでも酔いを冷まそうと冷水を求めた。その心掛けは、しかし足りなかったわけだ。
「入るぞ」
一枚目のドアを開けて、浴場へと続く畳一畳分の廊下に足を踏み入れる。
そして、すぐに二枚目のドアを開ける。一枚目と比べ、中の温かい空気を逃さぬために重厚な扉だ。
浴場の中は、いたって普通。
かけ湯用の壺があり、シャワーが壁際に並んでいる。入り口から壁伝いに右手へ移動すればサウナがあり、水風呂がある。もちろん、大浴槽もある。
少しだけ薫る硫黄のにおいは、これは天然の温泉ならではだろう。経験のないボーさんは顔をしかめている。
「亡くなっていたのはここです」
大宮さんが示すのは、大浴槽の縁。腰を落ち着かせられる段がある場所だ。
お湯は止められているようで、排出口は静かで、薄緑色の水面には波一つない。さっきまで憶さんと見ていた海原とは大違いだ。あそこにはいくつもの生が潜んでいて、ここにはさっきまで死が浮かんでいたのだ。そう考えると、この違いは当たり前のことのように思える。
「ここに仰ぐようにお二人とも」
「うつ伏せではないのか」
「だったらどうなんです?」
「うつ伏せだったら、死因が溺死の可能性もあっただろ?」
「なるほど」
だけど、とボーさんは続ける。
「だけど、死んだことには変わりない。酒が身体に回ったせいで、脳貧血か不整脈か、まあそれ以外かで死んだことと。酔っぱらって眠って、お湯に顔面突っ込んでそのまま溺れ死んだことと、その両方に違いはない」
「そんなもんですかね?」
だって、人の人生が終わる理由だろ。そんな簡単に纏めてしまって、良いものだろうか。もっと、意味のある、死、なんて一文字だけで完結してしまわないような輝きじみた響きを用意してあげるべきなんじゃないか。
「そんなもんだよ。死に方に拘るのは、それこそ殺人の手段と凶器を調べなきゃいけないときだけだ。今回みたいな事故死の理由を調べなきゃいけないのは、事故現場の責任者と、使っていた道具があったならそこの製造元だわな。再発防止に努めなきゃいけないから。だから、今の俺が死因を調べる理由は無い。探偵は、依頼されたことだけやればいい」
誰かがしなきゃいけないときの理由と状況は分かった。だけど、探偵が死因を調べない理由はいまいち腑に落ちなかった。一片の闇を払おうとしているなら、全て払えばいいのに。わざわざ、不明の真実を残しておく意味もわからない。
「て言うか、今って何か依頼されていましたっけ……?」
大宮さんに聞こえぬよう、小さな声で訊く。これは、あまり訊かれちゃいけない気がした。だって、大宮さん親子、俺たちのこと期待した目で見てくるんだもの。ここでボーさんが、何もされていないから捜査をやめようなんて言い出したら申し訳ないことになる。
「されていない。だから適当にやって適当に終わるぞ」
ボーさんも小声で返してきた。
どうやら、大宮さんたちを失望させないようにしたい気持ちはあるらしい。回り回って自分のためだろうけど。それでも、俺を心理的に苦労させぬことになるなら、それでいい。
「あっちは?」
ボーさんが浴場の壁際に取り付けられた扉を指し示す。
「露天風呂です」
大宮さんが答えてくれる。
「ロテンブロ?あ、あー、露天ね」
まさか、初の温泉体験が事故現場の検証になるとは。ボーさんもついていないな。まさか、人が死んだ翌日に浴場を解放できるわけもないし。
俺のありがたい憐れみにも気づかず、彼はそそくさと露天風呂への扉を開ける。
たいがい、屋内の浴場から露天へと出るときは、温度差に身を縮めるものだが、湯に入っていないし服も着ているのでそんなことにはならなかった。
「うわ、本当に外なんだな」
ボーさんが驚くのも無理はない。
扉を開けて出れば、一面に広がるのは松などが植えられた庭園だ。方角的に山に面しているところだが、その気配を残しつつ、観賞芸術の雰囲気を醸し出している。日本庭園の美しさなんて、その見た目の落ち着き程度しかわからないけど。それでもただの山肌を見せられるより嬉しい。温かいお湯に浸かって、ただボーっと眺めるだけ。目の前の庭園はそんな一時を邪魔しない。いいなあ、うるさすぎず、静かすぎもせず。飽きもせず眺められそうな気がする。庭園の向こうには林が広がっているが、それすらも演出のための背景のようだ。
そんな感慨にふけっているのは俺だけのようで、ボーさんは辺りを見回すとすぐに返っていってしまった。
俺は急いで写真を何枚か撮影。庭園。浴槽。それと、一応右、左、後ろの壁。浴場とここを繋ぐのは扉だけではなく、通気口のような窓が三つ備え付けられていて、わずかに開いていた。それも、写真に収める。
浴場を突きぬけ、脱衣場に戻ってきたボーさんにそれとなく訊いてみる。
「もういいんですか?」
もちろん、大宮さんたちに対して、仕事をしたことを証明できるかどうかである。
「ああ。何も調べることがないことはわかった」
ボーさんがそう言えば、恐らくここに集まった人たちはやはりただの不幸な事故だと片づけるだろう。酒を飲んだ状態で温泉に入ってはいけません。そんな教訓を伝える一件として、語り継がれてゆくのかもしれない。
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