第8話
そうして、彼女が案内してくれた先にあったのは神社だった。
道中、飲料水としても利用しているらしい湧き水でのどを潤しながら休息をしたが、ここに来るまでほぼノンストップだ。憶さんも疲れたのか、息を整えながらその鳥居を眺める。
今度の鳥居は俺のよく知る朱色の一般的なもの。他の地域が観光名所とするような立派なものでもなく、大きさも普通だ。
見たところ、ここにも観光客らしき人影は見えない。しかし、どうやら人々に忘れ去られた気配もなく、階段の手すりや参道は舗装されている。
しかし、社務所など、本来誰かいるべき場所には人の影はなく、風にざわめく森の気配だけだ。
鳥居をくぐり、参道をまっすぐ歩き、境内にお参りをするのかと思えば、憶さんは境内を素通り。脇にある、明らかにその先への侵入を禁止する太い縄の前で立ち止まった。
こういうのは黄色と黒のテープじゃないんだな。そこは雰囲気重視か。格好もつかないしな。ここでテープだと、この先にあるのは単純にゴミ捨て場とか、関係者たちのたまり場とか大した危険のない場所だと考えてしまいそうだけど。こんなに厳かに遮られてしまうと、オカルト的な危険を感じてしまう。怪我は治るけど、幽霊に憑りつかれたらどうしようもないし。除霊に保険は適用されない。
ここは帰ろう。
「憶さん、その先は──」どうやら行けないみたいです。帰りましょう──
「えいっ」
──言うが早いか、憶さんは太縄をくぐった。
「ほら、城さんも早く!」
「いや、どう見たって立ち入り禁止だよ?」
その先に何があるか知らないが、この手のものは黙って従えとボーさんたちはよく言う。虎の穴に突っ込むやつはバカだ、と。
「意外と真面目なんですね」
「常識があるんだよ!」
「それなら大丈夫です」
縄を挟んだ向こう側。憶さんはそれまでの人懐っこい笑みを消して、能面のような無表情を纏う。
「この神社を管理しているのは私の家ですから」
つまり、
「つまり、この神社の常識は私たちが決めています」
「そんな無茶苦茶な」
「無茶苦茶ついでにもう一つ。この島の神事関係は全て、私たちの家がやっています」
「はあ、それは……」
なんだかすごい家の娘さんと知り合いになってしまったぞ。失礼なことしたら海に沈められるんじゃないか。
「だから、この島の神様に失礼をはたらいた人には容赦しません」
「ちなみにどのようなことを……」
思わず敬語になって訊いてしまう。
「心当たりがおありで?」
「いや、参考までに」
本当はあります。一つだけですが、大きいのが。ことと次第によっては裁判沙汰だと思っていたが、まさか神罰まで下るのは勘弁したい。
「一生かけて償ってもらいます。この島に住んで、毎朝お参りしてもらうとか」
「意外と軽いような、それでも少し重たいような」
ここまでの山道は大変だったけど、散歩と言えばそれまでの難易度だ。朝、少し早起きして行うのならば、良い運動にもなろう。
「冗談ですがね」
そこまで言って、憶さんはもとの笑顔に戻る。
「城さんが真剣な顔をするものですから、思わずこちらもノッてしまいました」
「憶さんのほうこそ迫真の演技だったよ」
「半分は、本当でしたから」
「え?」
どのあたりが?あ、移住しなきゃいけないあたりか。このツアーの目的が俺を移住させることだし。「性急すぎました。まだ出会って半日なのに」と憶さんは呟いているけど、俺もその通りだと思う。
「城さんのほうこそ、本当なのは半分だけですよね!心当たりがあるっていうのは!」
俺が返答に窮していると、縄の向こうから憶さんが俺の手を掴む。
「とにかく、付いてきてください!見せたいものがあるんです!」
彼女はそのまま手を引っ張り、俺は慌てて縄をくぐる。
地面も空気も、全て同じはずなのに、くぐり、顔を上げた瞬間、鼻に入り込む空気が変わった。土や木の匂いは漂白されたように消え去り、無味無臭の一歩手前が喉の奥に突き抜けてゆく。
境内の脇を通り抜け、ちょうど裏に回ると一本の道が出てくる。
飛び石が配置された、誰かによって作られた道だ。
「こっちです」
道は上り坂。登ってきて、また登らされる。
境内の中も人の気配が無かった。だけど、手入れされている様子はあった。定期的に訪れる人がいるのだろう。それも、一人二人ではなく、大人数。それは先導している憶さんに訊けばよいのだけど、彼女はもう先に先に行ってしまっている。
足取りは軽やかだ。
さっきまでの山道より細く、土が深いのでかなり歩きにくい。この道にも手すりが付いていたり、急こう配なところにはロープがかけられていることから、人が進むことを想定されているのだろう。だけど、それらのほとんどは老朽化できれっぱしが残っているだけで、その残滓を伺えるのみだ。
立ち入り禁止なだけに、ここは補強や修理の目から外れ続けているのか。
坂道を上り、左右から遮るように伸びる茂みを払いのけ、やがて、開けた場所に辿り着く。
そこは畳三畳分の空間だった。
あるのは、今来た道と、空間を挟んで向かい側に続く、これまた多い茂った草に隠された道。右側に茶色い山肌。そして、左手に──
「これが、見せたかったものです」
憶さんの横顔を夕日が濃くする。
彼女が見ているのは、水平線の向こう側、輪郭が曖昧な太陽が朱色になって消えて
いく光景だった。
穏やかな海面に二つ目の朱色の太陽が映し出されている。おぼろげな太陽とおぼろげな太陽。揺蕩う涙目みたいに、俺たちを見つめる。あと、一言、何か声をかけたらぽろぽろと雫になって消えてしまいそうだった。
「不思議ですよね」
「なにが?」
「二つとも、形が不安定だけど、その理由は違います」
「海に写っているのは波のせい。空の太陽は空気の揺らぎのせいで形が不安定です。理由は違うのに、二つは同じ姿をしている。単純な鏡合わせじゃないんです」
本当にそうなのか。空気によって揺らいでいる太陽を海が映し出しているだけで、実は理由は一緒なのではないか。真実は空に浮かんだ太陽だけで、他はそれの真似をしているだけ。
「きっと、城さんは難しく考えて、私とは違う思いを抱くのでしょうね」
「いや、俺も同じこと思ったよ」
俺の嘘など見抜いてしまっているのか、憶さんは小さく笑って、首を振る。
「どちらでもいいじゃないですか。城さんはこの光景を見て、どう感じました?」
「綺麗だなって」
「それこそが真実です」
不安定な形の太陽。空の向こう、オゾン層を越えて、暗闇に浮かぶ光球を俺たちは見ている。だけど、その姿を錯覚していないなんて俺たちは証明できない。衛星写真を持ってきても、それはレンズとフィルムによって加工された姿だ。
「真実は私たちが見ているものが全てです。そうでしょう?」
「それは、そうかも……」
でも、どうしてその話を俺に?
「私はこの島が好きです。目に見えるものや、聞こえる音のほとんどが美しくて、楽しくて」
でも、
「でも、時々馬鹿らしくもなってしまうんです」好きなはずのこの島が馬鹿らしく。
「馬鹿らしく?」
「ええ、城さん、港に着いたとき、二人の女性を助けられましたよね?」
「助けた?いつ?」
「港に着いたとき、女性が一人、キャリーケースをぶつけて鳥居を壊してしまったで
しょう?」
「あー、あったね。簡単に壊れるんだって驚いた」
「そのとき、どうしていいかわからないその方たちを助けたじゃありませんか」
「そんなことしてないよ。ちょうどお土産に鳥居が欲しかったときに、倒れてた鳥居があったから、持って帰ろうとしただけで」
持ち上げようとしたら力が足りず、おっとこして粉々に砕いてしまったけど。
「けど、城さん以外、誰も声をかけようとしませんでした。他の観光客の方は仕方ないにしても、周りの島の人間の誰も」
「あんなこと、どうしていいかなんて誰もわからないでしょ」
「本当にそうでしょうか」
水平線の向こう側に浮かんでいた太陽は姿を隠し、代わりに宵闇を連れてきている。茜色の陰りを帯びていた憶さんの横顔に、また別の影を落とす。
「私には違う真実が見えていました。鳥居が壊されて、誰も、助けられなかったのだと。神様が大事にしているものが壊されて、怖くて、祟りがあるんじゃないかと」
「そんなオカルトな」
俺もさっき太縄をくぐることを躊躇ってしまった手前、オカルトを強く否定できない。
「俺は無宗教だけど、ちょっとだけ神様とか幽霊とか信じてるよ」
「どうしてですか?」
「信じたいからじゃないかな」
この問いには即答できた。何度か、考えて、出してきた答えだ。
良くも悪くも、神様とか、俺たちの与り知らないところで現実に干渉してくる奴ら
を信じたくなることもある。明日、雨が降るのは神様が決めたこと。今日、誰かが死んだことは神様が事前に決めていたこと。俺が不幸な思いをしたのは神様が定めたこと。そんな風に押し付けたら、気分が楽になることを知っている。
「誰かのせいにしたら楽になるのを知っているから」
女の子にこんなこと言うのは情けない話だ。辛いも悲しいも、押し付けて忘れようだなんて。人生の先輩として、恥ずかしい。だけど、これが俺の処世術。情けないと思うなら言わなきゃいいのに。適当に話を合わせて、憶さんの言い分を聞いて、頷けばいいのに。
「ごめん、こんなこと」
君に話すべきとことじゃない。
「いいですよ。それに、城さんの考え方も間違っていません」
目に見えていることが真実ならば、心の中で個人が抱く風景は偽物なのだろうか。
「信じたいものを信じる。それもいいじゃないですか。私が馬鹿らしくなってしまうのは、信じるもののせいで真実を見逃してしまうことです」
空と海から茜は消え去り、宵が覆いかぶさる。波のさざめきが俺と憶さんの沈黙を埋めていく。
「この風景も、私と、城さん以外誰も知りません。みんな、あの立ち入り禁止の太縄を厳かなものだと信じ込んで、ここまでやってこないのです。あんなの、私の先祖がかけた、ただの縄なのに。でも、私の家柄に騙されて、信じて、こんなに綺麗なものを見逃してしまう。勿体ないでしょう?」
「俺も少し、騙されていたからな……」
「でも、付いてきてくれました」
「それは、憶さんだから。信じる、信じないの話になれば、俺は憶さんを信じたよ」
あのとき、手を引いてくれたのが憶さんだから信じたのだろう。この島の神事関係
を憶さんの家がやっていることを知っていなくとも、付いてきただろう。
「城さんの憤りを私には押し付けられるってことですか?」
「え?」
このとき、ここに来て初めて憶さんと目があった。日も落ちて、歩いてきた熱も潮
風によってとっくに冷めたと思ったのに、彼女の顔はまだ上気しているかのように紅い。
心臓が跳ねる。
息が止まる。
落ち着け。落ち着け。
俺は、彼女がいるんだ。最近会えていないけど、おかげでバカもやれていないけ
ど。それでも大事な彼女がいる。だから、浮かれるな。落ち着け。
「えっと、」
と、自分を誤魔化せる言葉を探す。今の高ぶりは、俺だけのものだ。目に見えてい
る物だけが真実。この言葉を借りるならば、目の前では何も特別なことは起きていな
い。耳に入ってくる情報も同じだ。だから、これは俺だけのもの。
「初対面の女の子に悩み相談してもらうのは情けない、かな……?」
ようやく言えたのも、芸がない一言だけだった。
彼女はまだ何か言いたげだったけど、遮ったのは鼻先に落ちてきた一つの雨粒だった。
降り落ちる雨粒がまばらだったのは最初の数秒だけで、すぐさま凄まじい勢いの大雨となっていく。
この場にいては仕方がない。俺たちはすぐさま、元来た道を引きかえし、途中の神社の本殿で雨宿りをすることも考えたが、しばらく止みそうにないのでできるだけ早く帰るべき場所に帰ることを選んだ。
山の中を走っている間は、木々の葉が屋根となって思っていたより濡れなかった。むしろ、山を抜けた後は遮ってくれるものがほとんどなく、銀線が視界を埋め尽くし、俺たちを濡れ水漬くにしていく。二人とも傘も持っていない。せめて、憶さんに俺のコートでもかけようか考えたけど、既にびしょびしょのものを渡しても、重たくて冷たい荷物が増えるだけだ。せめてもと、荷物を預かり、宿を目指す。
このとき、俺は気にもとめていなかった。彼女が帰る場所を。ただ、最初の食堂で説明してくれた地理通りなら、宿場街を過ぎた先にあるのだろう、それなら俺の宿も通り道だと、その程度に考えていた。
男が初対面の女性を連れ出しているこの状況。本来なら、しっかり聞いておくべきだった。もし仮に、彼女の家が住宅街にあったとすれば、そこまで送るのにどれだけの時間がかかり、何時ごろに帰路に着くべきか考えられたし。
まあ、それも必要なかったのだけど。
彼女の家は、俺の帰るべき場所と同じだった。
つまり、俺とボーさんが御世話になる旅館。
そこが、彼女の実家だった。
豪華な旅館の娘で、島の神事関係を司っていて、といつもなら大いに驚いたのだけど。今回はそうもいかなかった。
もっと、驚くべきことが俺たちを待ち受けていたから。
結局、彼女が俺を、この移住誘致ツアーに誘ってくれた理由も聞けなかった。明日も会えるとは限らないのに。聞けたとしてもしっかり返事できるとは限らないのに。明後日には、今日のことを俺は大事に抱えることになるのに。今はただ、雨からできるだけ早く逃れることだけを考えていた。
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