第2話


「うおっ」


 大波が発生したのか船体が大きく揺れるように暴れる。


「いや、違うな」


 ボーさんは放り出されぬよう、錆だらけの灰皿にしがみつく。その姿はまるで情けないヤニ中のそれだ。ボキッと折れて灰皿もろとも転がっていかないかな。


 もちろん、灰皿が根元から折れる音が聞こえることなく、その代わり別の音が鼓膜を揺らす。


 海の底から巨大な怪獣が身を起こすかのような重低音。波を生み出しているのは間違いなくこいつだ。地の底と底がこすり合って、俺たちの立っている場所を揺らすもの。


「地震だ!」


 誰かが叫ぶ。その声は俺だったかもしれない。だけど、扉の向こうからも同じ響きの言葉や悲鳴が飛び出してきている。


「ボーさん!」


 とにかく、と言った体で同行人の名を叫ぶ。

 しかし、彼はもうそこにいなかった。あるのは、円形に抉れた甲板。


「おおおおお⁉」


 奇妙な叫び声とともに、灰皿を抱えたボーさんが甲板を転がってゆく。跡をつけるように落ちていく吸殻と灰を見て、校庭に引かれた白線みたいだなと思ってしまった。


 かなりの勢いで転がっていくので、そのまま海原に放り出されそうだったが、上手いこと壁を蹴り、扉を破るようにして船内へ入っていく。


「きゃーっ!」「うわぁあ!」


 突然の自然災害に怯えていた人たちは、灰皿人間の登場に驚愕の悲鳴をあげる。そりゃあ驚くよな。意味わかんねえもん。


「ボーさん、大丈夫ですか」


 揺れも小さくなったころを見計らって船内へ入ると、若かりし頃のジョニー・デップ似のドイツ人ハーフの男は客席の真ん中で正座させられていた。


「いや、あの、すみません……。ただ、その、外にしがみつける物がこれしかなくて……」


 そう言って彼は錆だらけの灰皿を赤ん坊のように抱いて見せていた。

 ああ、と俺は思い出す。

 あの灰皿の役目を、だ。

 あの灰皿は観賞用ではない。

 錆だらけになりながらも、吸殻と灰を集めるために存在している。

 だけど、今ここにもう二つの存在理由が誕生した。


 一つは、船外へ放り出されぬためにしがみ付く柱として。これはもう、折れてしまって役目を終えているけれど。


 もう一つは、ボーさんの奇怪な行動を正当化するための弁護士、ないし物的証拠として。どこまで乗客たちに信じてもらえるかわからないけれど、無いよりはマシだろう。どんな人間にも味方は必要なのだ。


 とりあえず、散らばった吸殻の片づけを命じられた男の名はアッテンボロー・タンテボー。何の因果か、俺たちとそこそこ深い繋がりを持つ探偵事務所のメンバーで、一番の変人奇人。


「おい、城・如月!手伝え!ここ片づけないと俺たち、船原に落とされるらしい!お前が黄色い潜水艦呼んでくれるならいいけど、そう言う訳にもいかないだろ!」


 ボーさんが俺の名前を叫び、手伝いを乞う。


 城・如月。


 その名の響きに、似た名前の人物を思い出した乗客の何人かが噴き出しかけている。いや、もう慣れましたけどね?ふざけた名前つけやがってとは未だに両親を恨みますけど。


 俺はボーさんと二人で、少しだけ棘のある視線に晒されながら吸殻を集める。


「あー、ツイてないなー」


 ボーさんがボヤく。本当に。楽しい旅行がどうしてこうなった。せめて、目的地に辿り着いたら楽しくなってくれたらいいけれど。


 こんなことを願う時、だいたいは叶わない。悲しいことに、今回もそうだった。


 俺とボーさんは巻き込まれていく。運命とは奇妙だ。もしかしたら、俺たち以外の誰か一人でもインフルエンザに罹らず、この場にいたら。あるいは地震が起きなかったら。違ったのかもしれない。だけど、それは結果論で。もしもがあれば、俺は違う体験をし、違う答を出したかもしれない。いや、答を出すこともなかったかもしれない。考えず、いつも通りバカをやって、誤魔化して。


 俺とボーさんしかいなかったからこそ、俺は向き合うことができた。出会いに感謝などと言うつもりはない。だけど、少しだけ。ほんの一歩だけ、踏み出すことができた。大学二回と三回の間の春休み。俺はその三日間で、小さな一歩を踏み出した。これは楽しくもない、旅の記録だ。

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