梅雨明けサンダー

源 侑司

第1話

 急いで帰ろうと、靴を履きかえて校舎の外に一歩出た瞬間、足を止めた。


 土砂降りだ。ついさっき、教室の窓からぽつりと細かい雨が降り出したのが見えて、走れば何とかあまり濡れずに帰れるかと賭けてみたが、始まる前から勝負がついてしまった。


 まさか教室からここまでの数十秒で、こんなに雨の勢いが変わるとは予想外だ。バケツをひっくり返したようなとか、シャワーを浴びるような雨って、こういうことか。


 雨に濡れないよう屋根のあるところで様子を見ていたけれど、状況はすぐには変わらなさそうだった。この梅雨の時期に傘を持ってこなかった自分を愚かと呪いたい。


 そのうち、地面に跳ねた雨がズボンの裾を濡らすほどに勢いが増してきて、仕方なく帰宅を諦めて校舎の中に舞い戻った。出入口の分厚い扉を閉じると、激しい雨音だけはフェードアウトするように静かになっていく。代わりに、薄暗い校舎の静けさがやけに目立って聞こえる。


 その時、階段の上の方からぱたぱたと、上履きの跳ねる軽い音が鳴った。その音はどんどん近づいてきて、俺の横を通り過ぎたと思ったら、出入口の扉のガラスに激突しそうな勢いで張り付く。


「あぁー、もう、最悪!」

 外の豪雨を見ては絶望に近い声を上げて、音の主が膝から崩れ落ちていた。


「はぁ……どうやって帰ろう。傘持ってくればよかったなぁ」

 がっくりと肩を落として独り言のように、彼女がつぶやく。


「綾香。お前も傘忘れたの?」

 彼女はひとつ下の学年の飯森綾香。先月の体育祭で一緒に実行委員をやって以来、仲良くなった。


 呼ばれてようやく俺がいることに気づいたのか、驚いたように綾香が顔を上げる。


「あ、先輩。やだ、何でいるんですか」

 綾香が恥ずかしそうに立ち上がって、膝をはたく。いや、そんないたら悪いみたい

な言い方されても。


「俺も傘忘れたんだよ。急いで帰ろうと思ったけど無理だった」

「やっぱ無理ですよね。朝降ってなかったから持ってこなかったんですけど、お母さんの言うこと聞いとけばよかった」


 綾香が、俺にも聞こえるぐらい深いため息をつく。


「何だよ、忘れたんじゃなくてわざと持ってこなかったの?」

「だって、雨降らなかったら邪魔じゃないですか」

 当然のことのように言っているけど、ある意味勇気のいる行動だと思った。いや、綾香の場合短絡的すぎるだけかもしれない。


 一緒に体育祭の仕事をしている時も感じていたことだけど、彼女の場合考えてから行動に移すまでがとにかく早い。そのフットワークの軽さは見習いたいぐらいだったけど、残念な結果に終わることも多かった。


「うーん……」

 綾香が何やら外をじっと見つめながら、うなっている。何か考え込んでいる様子だった。


「どうした?」

「いや、もう濡れるの構わず走って帰ろうかなって」

 さらっと言い放った彼女を、慌てて引き止める。


「馬鹿、やめとけって。さすがに風邪ひくぞ」

「私けっこう身体丈夫ですし、行ける気がします」

 根拠のなさそうな自信を掲げて、綾香は決意を固めたようだった。靴を履き替え、バッグがしっかり閉じていることを確認し、走りやすいようにするためか、制服のスカートの腰部分をまくり上げていく。


「本気?」

 俺も外をもう一度確認してみたが、状況は一ミリもよくなっていない。ガラス越しではあるものの、景色が白んでしまうほどの大きい雨粒が、隙間なく降り続いている。しかし綾香はすでに決意を固めた顔をしていた。


「はい。じゃあ先輩も気をつけて」

 そう言って、綾香が出入口の扉を開く。


 と、その瞬間、薄暗い雲を裂くように閃光が走った。


 視界に残像を残していくような、強い光。


「うわっ、光った」

 反射的に声を上げる。稲妻だ。


 やっぱり今帰るのはやめといた方がいいんじゃないかと、綾香へ声をかけようとすると、強張った顔して全身固まってしまった彼女がいた。さきほどの勇ましい表情とはまったく別物だ。


「綾香?」

 呼ばれて、綾香はその硬い表情をこちらに向ける。


「えっと、やっぱり今は……」

 綾香が言いかけた時、先ほどの光に遅れること数秒、爆弾を落っことしたようなものすごい落雷の破裂音が鳴った。


 その音のすさまじさに、反動で自分の身体がほんの少し浮かび上がるかと思った。


「きゃあっ!」

 綾香が悲鳴を上げながら、その場にうずくまる。


「おい、大丈夫か?」

「無理、やっぱ無理です。避難しましょう、避難」

 鬼気迫る表情で、涙ながらに訴えてくる。こんなに雷が苦手だとは知らなかった。


「じゃあ、教室戻って雨宿りするか」

「そうですね……どこの教室に行きます?」

 とにかく外に近いこの場所から一刻も早く離れたいんだろう。制服を袖を引っ張りながら、早く行こうと促してくる。


「うちの教室、もう誰もいないはずだけど」

 そう提案すると、綾香は睨み付けるような目をこちらに向ける。


「正気ですか? 先輩の教室、最上階じゃないですか、雷落ちますよ!」

「落ちないだろ、平気だよ」

「何を根拠に言ってるんですか?」

 綾香が今度は幻滅したような視線を投げてきた。正直お前に言われたくないと思ったけど、それはぐっと飲み込んだ。


「私の教室にしましょう。うちも私が最後だったので、誰もいないはずです」

 まぁいいか、とうなずく前に綾香は歩き出していた。強い力で引かれて、思わずよろけそうになる。何とか踏ん張って体勢を立て直し、急ぎ足で進む綾香に歩を合わせた。


 違う学年の教室に行くのはちょっと落ち着かないけど、誰もいないなら大丈夫か。そもそも同じ場所で雨宿りする必要あるのかと疑問に思ったが、雷に怯える後輩を放っておくわけにもいかない。


 二階の教室に行くと綾香は窓際からできるだけ遠く、廊下側の席へ座った。そして頭を抱え込むようにして、机に突っ伏すような姿勢を保っている。俺は綾香の前の席に座った。


「……先輩は怖くないんですか」

 恨み言でも言うように、低くくぐもった声で綾香がつぶやく。


「まぁ、そんなには」

「ずるい」

 そう言うと、綾香は石のように固まって動かなくなってしまった。


 薄暗い教室の中で、ゴロゴロという音と窓に打ち付ける雨音が聞こえる。突然降り出したこの雨のせいか、気温も急激に下がった気がする。ひんやりと、そしてじめっとした空気が教室に漂っていた。


 今年の梅雨は長い。天気予報には傘や雲のマークが並び、もうずいぶん太陽を見ていない気がする。明ければ夏はもう目の前なのに、早くからっと晴れてほしいともどかしい気持ちが募る。


 そういえば、とふと思い出した。


「梅雨の時期の雷ってさ、もうすぐ梅雨が明ける合図なんだってさ」

「へー」

 いかにも興味がなさそうに、綾香が生返事をする。


「ひょっとしたらこの雷が、そうなのかもな」

「だとしても雷は嫌です」

 顔を上げる様子はなく、雷に心を開く気も一切ないらしい。少しでも怖さが和らげばと思ったけど、目論見は外れた。


 しかたがないので、次の話題に移る。


「雷って、花火と似てると思わない? ほら、ぱっと空が光って、でっかい音がして」

「そんなわけないじゃないですか、全然きれいじゃないし!」

 苛立ったように、綾香が顔を勢いよく上げて、机をばん、と叩く。


 と、その時。


 またドカン、と近くに雷が落ちる音がした。


「ひぃっ!」

「危なっ!」

 不意を突かれた格好で、椅子ごと後ろに倒れてしまいそうな勢いで綾香がのけぞるのを、間一髪、彼女の腕をつかんで引っ張り戻した。


「先輩のせいですよ!」

 つかまれた手を振りほどきながら綾香が叫び、また突っ伏す形でふさぎ込む。助けたつもりだったのに、怒鳴られてしまった。


「ごめん、悪気はないんだよ」

 何とか釈明は試みたが、綾香は首を振り続けるばかりで取りつく島もない。これはさすがに、打つ手がなさそうだ。


「まぁ、すぐ止むよ。雷なんてそんなもんだって」

 気休め程度のその言葉が聞こえているのかどうかはわからないけど、綾香は耳を塞いで子犬のようにぷるぷると震えていて、思わずくすりと笑ってしまった。


 それからしばらくすると、教室の中に光が差してきた。ゆっくりと、夜が明けるように窓から光が広がっていく。さっきまで外に足を踏み出すことすらためらうほどだったのに、今はまるで出ておいでと手招きされているようだ。


「ほら、綾香」

 もう大丈夫だよと、肩を叩いて綾香の顔を上げさせる。おそるおそるといった様子だったが、顔を伏せている間に百八十度変わっていた世界に、驚いて呆然としていた。


「言ったとおりだろ。外、見てみなよ」

 窓際まで歩み寄り、窓から顔を覗かせて空を見上げる。視線の先には校舎のてっぺんが立ちふさがっているけれど、その校舎越しに見える空は、少しオレンジがかった夏色の空だった。


「すごい、きれい……!」

 隣に駆け寄ってきた綾香が、陽光に瞳をかがやかせながら感嘆したようにつぶやく。確かに、ずっと機嫌の悪い空を見ていたせいか、よくある夕空のはずなのにどこか魅入ってしまうような景色だった。


 そして輝く笑顔そのままに、綾香がこちらを振り返る。


「何か、花火の話したから花火見たくなっちゃいました!」

 すっかり元気を取り戻した綾香がわくわくした様子で声を弾ませる。


「花火大会はまだ先だよ」

 彼女とは対照的に、落ち着いて忠告するように言ったけれど、その程度で綾香の勢いは止まらない。


「じゃあ手持ち花火でもいいです、やりましょうよ、これから」

 気持ちいいぐらいに、思い立ったら即行動。とはいえ、それに付き合うのも悪くないと思っている。


「まぁ、それぐらいなら」

 そう答えると、綾香は飛び跳ねて嬉しさを表現し、そのまま俺の手をつかんで駆け出す。


 どこにいるのか知らないけれど、蝉の声が聞こえる。


 ほら、言ったとおり、雷は梅雨明けと夏の訪れを知らせる合図だ。夏の音が、確かに近づいている。


 この時期でももう花火は売っているかなと考えながら、手を引く綾香と一緒に走った。


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梅雨明けサンダー 源 侑司 @koro-house

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