心の共鳴
1
仕事を終えて「お先に失礼します」と声をかけてオフィスを出る。そのままオフィスがあるフロアのトイレに向かい、身だしなみを整える。
「よし……!」
気合いをいれる。俺にとって、今日は一世一代の持ち得る限りの勇気を振り絞る日だ。
あれから、さやちゃんとは仲良く、たまにちょっとしたケンカをしながら過ごしてきた。鬱病と、自分自身と戦うのは本当に辛かった。やっぱりもういいやと諦めそうにもなった。足掻くだけ無駄だと何度も諦めかけた。
だけど、彼女は腫れ物扱いするでもなく、ごく普通に接してくれた。何かを心得ているような雰囲気もあったが、彼女がいなければ間違いなく今の俺はいない。
無職期間が長くて、就職には苦労したが、毎日出勤してきちんと仕事ができる。『毎日出勤する』ことや『きちんと仕事ができる』ことは、普通のことなのかもしれない。ただ、鬱病で苦しみ続けた俺は、この『普通』がとても大切に思えたし、過去の俺のように苦しむ人がたくさんいるんだろうとも考えられるようになっていた。
さやちゃんが、いてくれたから。
さやちゃんが、笑っていてくれたから。
2
さやちゃんは、俺のことをずっと「橋本くん」と呼ぶ。大抵の人たちは、下の名前で呼び合うのだろうけど。だからといって、いつまでも「橋本くん」と呼ぶ、彼女との間に距離感は感じなかったし、いつでも幼い頃を思い出せた。
彼女のことが純粋に好きだった、初恋のような無邪気な日々を思い出させる。
小学校の頃、俺が賞をもらった習字の作品が張り出されていた。その作品をじっと眺めていた横顔。親に習わされていただけで、自分ではあんな模範的な文字を書けば賞を取れることが不思議だった。
でも、彼女は誰かに呼ばれるまで、じっと俺の作品の前から動かなかった。ずっと作品を見ているのが印象的で、その横顔は何かを考えているようでもあったけれど、ただ眺めていただけかもしれなかった。
俺は隣のクラスだから、声はかけなかった。あの頃、その姿が真っ直ぐに伸びて淡い色をした一輪の花に見えて、彼女を好きになった。
3
さやちゃんとは付き合ってすぐに、同棲することになった。働けない俺は家にずっといるのに、食事もろくに作れないし、掃除も最低限しかできない。早々に、見限られてしまうと不安しかなかった。
けれど、彼女は毎日仕事をしながら、家事もちゃんとこなす。おそらく俺を一人にしたくなかったんだろう。
「掃除しておいてくれて助かる!ありがとう!」全部を掃除しきれていない、とりあえずゴミ箱にゴミを入れただけの誤魔化したような俺の掃除でもお礼を言う。
週末に一緒にスーパーに行って、俺は袋いっぱいになった食材を持つ。
帰ってくると、彼女は作り置きできる料理をいくつか作って、タッパーに入れる。下ごしらえしたものをビニールに浸けておく。
まだ、仕事ができる状態ではない俺は、家事の手伝いしかできない。それでも少しずつ気力を取り戻し、彼女が日中仕事に出ている間、資格の勉強をすることにした。簿記一級まで取れた。
そして、やっと働けるようにまで回復した。
パソコンは使えるが、敢えて履歴書は手書きで書いた。字を書くことには自信があった。面接まで辿り着くには、履歴書を見て興味を持ってもらわなければと考えた。
簿記一級のお陰で、なんとか採用してもらえることができた。グループ会社間で連結決算があるからと、経理経験の長い人材か、簿記二級以上に相当する知識を持つ人材を求めていたようだった。連結決算は、少し前までは簿記一級レベルだったが、今は簿記二級レベルになったのに未経験ながら採用された。
「文字を見るとさ、少なからず人柄が見えるんだよね。君の履歴書の字は、几帳面そうで、何か信念のような心があるように見えたよ。それが面接した時も同じ印象でね」
採用を決めてくれたくれた上司の、人柄や性格を見抜く能力に驚いた。同時に感謝した。
彼女は、資格が取れた時も就職が決まった時も、自分のことのように喜んでくれた。居酒屋で「今日は祝い酒よ~!」と言いながら浴びるようにビールや焼酎を呑む姿は、普段のお洒落で淑やかさを持つ彼女の姿とギャップありすぎた。豪快で面白くて、いつも俺は笑った。いつも笑顔をくれる存在だった。
4
さやちゃんのお陰で、ここまで立ち直ることができた。
後は、また精神が壊れないように気をつけて、仕事をする。運良く職場環境にも恵まれて、繁忙期はさすがに残業も多かったが、その分早く帰れる日はきちんと帰るように指示されていたから余計なことをせずに帰る。
今日が特別な日でもなんでもない。彼女と出会って三年位は経ったけれど、お互いの誕生日はもちろん特別な記念日だった。
付き合った記念日とか再会した記念日は、お互い記念日として思わなかった。理由は一つだけ。でも、それはお互い口にしない。
何でもない日に、新しい記念日を作りたかった。たくさんの特別な記念日を共有したかったが、そんな願望は不要だと気付かされた。
「素敵な記念日になりますように」
ジュエリー店員は、彼女に似た清潔感のある桜色のネイルと細い指先で、願いを込めて丁寧に指輪を磨いてくれた。
彼女のジュエリーボックスから、右手の薬指に着けていたことがある指輪を拝借して、彼女に似合う指輪を探した。
それなりにどんなものが似合うか探しにふらりふらりとしていると、どの店の店員も爪がギラギラしていて、指輪の良し悪しがわからなかった。ただでさえ、わからないのに。
でもこの店員の指先を見た時、この人に相談しようと決めた。彼女にどことなく似ていた。
「お待たせ致しました」
きっちりと包装されて、くりんとリボンが可愛く結んであった。
「記念日も大切ですけど……女性は、気持ちをそのまま言葉にして欲しいって願望があるかもしれないですね」
店員は微笑んだ。それを聞いて、店を出てから少し歩いて立ち止まる。丁寧に包装されていたリボンをほどいてしっかりした箱から取り出した。
指輪だけがセッティングされた小さな小さな箱の状態にした。俺は、それをジャケットのポケットに入れた。
あの店員が彼女に似ていたのか、すんなり心に言葉が落ちてきた。だから、記念日になんてならなくても、彼女に気持ちを伝えたいと思った。家に帰ったら、言おう。
「話があるんだ」
家について、先に帰って夕食を作っていた彼女に声をかけた。「ただいま」も言わず、真面目な面持ちで話しかけた俺に、少し驚いて「おかえり」と言ってすぐに彼女は調理中の手を止めて、コンロの火を消した。
着替えもせずにそのまま食卓で向かい合う。
5
「俺と、結婚してください!」
誠心誠意、ありったけの勇気に、彼女を大切に想う気持ちを全部全部込めた短い一言。ジャケットのポケットから小さな小さな箱を出して、差し出した。
でも、彼女の顔が見れない。
あと一歩の勇気があれば、彼女を見つめて伝えられたのに。悔しい。悔しいのに、彼女を見ることができない。
「橋本くん?」
彼女が、俺に声をかける。小さな小さな箱は、俺の手から離れない。受け取ってもらえない……
「橋本くん」
もう一度、彼女は俺の名前を呼んだ。やっとの思いで、顔をゆっくり上げる。
彼女は、じっと俺を見た。あの時、再会した時のように、真っ直ぐに俺の目を見つめた。でも、あの時と違ったことが一つだけあった。
俺を見つめる彼女は、涙目だ。
──この、泣きそうな表情の意味はなんだ?
「さやちゃん……」
なんで、泣きそうなのか聞きたかった。なんで、受け取ってくれないのか聞きたかった。この、箱に納められた、指輪を。それなのに、言葉がでない。情けなくも、彼女を見つめ返すことが精一杯だ。
その時、ゆっくり自分の涙が頬に流れる前に指先で目元をぬぐって。彼女は、あの時のように、はにかんで笑った。
俺の手から小さな小さな箱を取り上げて、
彼女は、昔と変わらない独特な鼻にかかった声と穏やかな笑顔でキザに言った。
「俺と、結婚してくれないか?」
やっぱり、どちらがどっちか男かわからないではないか。思わず、笑った。買ったのは俺なのにさ!
いつだって、彼女が背中を優しく押すんだよな。
そして、指輪を手に取って。そっと、彼女が差し出した左手の、薬指に指輪をはめた。
君が立ち止まりそうになったら、俺が背中を押せるようになるよ。いつかきっと。今はまだ、君が俺の背中を押しているけれど。そう、決めたよ。
「愛してるよ」
俺の心を溢れる程に満たした言葉を口にする。彼女は見たことのない、いつまでも見ていたいと思う、潤んだ瞳で見惚れる程の笑顔を俺に向けた。
そして、綺麗な一瞬きらりと光る涙を、ぽろっと落とした。
俺の選んだ指輪に嵌め込まれたダイヤモンドよりも、世界に溢れる何もかもよりも、眩しくて綺麗だったから。目に焼き付けるように、一生忘れないように、目の奥で何度もシャッターをきった。
さやちゃんが、手を伸ばして俺の頬を触って言った。
「愛してるよ」
俺の頬に流れる涙を、そっと撫でた。
優しく、大切なものに触れるように。
その手に自分の手を重ねて、俺の頬から手を離させてから、彼女の華奢な指先に唇で触れた。細くて長い指。いつでも俺の背中を押してくれた、この手が……彼女の全てが、どうしようもなく、愛おしかった。
俺は、絶対に離れない。
君の手を、絶対に離さない。
ひとりぼっちになんか、させないよ。
心の行方 まゆし @mayu75
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