心の色彩

 1


「俺さ、昔、さやかのこと好きだったんだよ」


 安価な焼肉屋でビール片手に俺は、さやかに言った。

「へぇ」さやかは興味無さそうだ。

「人気あったんだぞ?お前」琢磨も言う。

「そうなんだ」と照れもせず、喜ぶ素振りも全く無い。完全な感情のない棒読みのような返事だ。

 ぐーっとビールを呑み干し、「すいませーん!」と店員を呼んでいる。


 良い呑みっぷりだなと眺めつつ、小学校の頃に男子たちの注目を浴びていた、あどけない可愛らしさはどこへ行ったんだ。一つ目の不思議。


 俺は、離婚を経験して今はフリー。親権が取られてしまった娘の為に、養育費を稼ぐ日々。でも仕事仲間にも恵まれ、楽しくやっている。

 琢磨は、彼女もなく未婚。パチスロや株で生活して、合間には祖母の介護をしている。無職なのが不思議なくらいの勉強家でもある。

 だけど俺にとって、琢磨がさやかにしょっちゅう会えるのに口説かないことが、二つ目の不思議だった……


 さやかのことは、彼女が地元の中学ではなく、私立の女子校へ進学することを機会に、あの時の恋心は自然と消えてしまっていた。今はいい友人関係だと思う。


 さやかは、確か、一年前に離婚したはずだ。


 2


 結婚相手は俺と琢磨と、もちろんさやかと同じクラスのヤツだった。

 友達期間もたいそう長かったようで、ヤツが仕事でやらかして左遷まがいの人事異動で鬱状態になった際には、友人という距離を保ち献身的にさやかが支えたようだ。


 結婚したきっかけは……

「30歳過ぎて、お互い独身だったら、結婚しようか」と、大学時代にさやかが冗談で言った一言をヤツが本気にしたことと、そして、ヤツが「小学校の頃から、さやかのことが大好きだった」ということだった。


 ところがヤツは、一年も絶たずに勝手に出ていっていた。理由は「自分の時間が足りない」だ。そう言っていたらしい。


 ──なんだそりゃ。


 さやかは、忙しいながらも食事や家事をこなし、不必要にヤツのテリトリーを荒らさないように気を遣っていたようだった。

「自分の時間が足りない」のは、さやかだったんじゃないか?


 本当は何があったのか、詳しくはわからないが……


 よほど、さやかの方が大変だったんじゃないか?

 性格や考えの不一致を理由に、離婚した俺が思うのもなんだが……「自分の時間が足りない」なんて理由は、結婚生活をしていて微塵も感じなかった。ヤツとは絶対に違うと確信がある。


 けれどさ、ヤツの「大好き」「愛してる」ってシャボン玉のように、とんでもなく軽くてすぐ消えるものだったんだな。


 今またふらりと集まることになり数年振りに再会した、さやか。


 小学校の頃の面影を少し残しつつ、ちょっと男勝りだけれど、綺麗になったと思った。

 ふわふわ揺れる掴み所がない雰囲気ではなく、凛として真っ直ぐ伸びた茎の先に優しい色をした花のような雰囲気だ。


 さやかは仕事に熱心で、チームリーダーや新人育成などを任されていたが、悩みはつきないらしく、ビジネス本を常に持ち歩いて主要なところをメモしていた。

「モレスキンのノートがお気に入りなの」と大事そうに抱える。


 なんだっけ。あの、魚とじいさんの話を書いた……

 あの人が愛用してたんじゃなかったか。


 あ、ヘミングウェイだ。


 3


「ふふっ!私はねぇ~、橋本くんが好きだったんだよなぁ~あ」


 さやかは酔っぱらって、『やっと』小学校の頃のことを口にした。

 ここまで口を開かせるのに、何杯呑ませたことか……


『やっと』と言うのは、さやかは「昔のことはほぼ覚えてない」そうで、頑なに話そうとしないことが多いからだ。というか、話さない。


「あんなこともあったよなー!」と俺と琢磨が盛り上がる横で「そうだっけ……」とさやかは思い出そうとしているのか、話を聞いているだけなのか、静かに呟いてつまみを口に運ぶのであった。


 だから、小学校の頃のことを口にするさやかは、非常に珍しく、俺も琢磨も軽く相づちを打って聞き出す姿勢に入る。


「橋本って、隣のクラスだっけ?」

「そうそう~あのねぇ~……すごくお習字が綺麗な~……」

「あぁ、絶対校内で賞とか取ってたよな!」

「なんでかなぁ。すごい心を揺さぶられたっていうかぁ~。んん~?何言ってんだぁ~?私~」


 さやかは酔っぱらって、うっとりと思い出に浸りつつ、ふわふわとした話し方になり、昔のさやかに戻ったようだ。触ろうとすると、ふわっと揺れて離れてしまう。


 ヤツがまだ側にいたなら、こんな様子の彼女の姿を見て……どうしたろうか。

 話の内容はともかく、昔の同級生たちなら、このふわふわと穏やかな雰囲気をもっと感じたいと思って。それから、そっと両手で蝶を捕まえようとするように触れたいと思うんじゃないか。


 もったいないことしたな。

 逃した魚はでかいぞ。

 あの有名な話のじいさんとは違って、お前はもう魚と向き合うこともないだろうがな。

 せいぜい後悔しろ!

 幸運、使い果たしたと思っちまえ!

 ……ヤツの話をしてもカラリと気にしないさやか。

 絶対に、お前の敗けだからな!


 さやかが何も言わないから、俺が心の中で叫ぶよ。


 俺だって、俺なりに、子供にも定期的に会わせてもらえて幸せなんだよ。

 でも、さやかは子供がいないひとりぼっちなんだ。


 頼むから、何かしらの幸せっていうものを……

 誰か、さやかにやってくれよ!


 4


 琢磨は、ふわふわふわふわ思い出話を口にする、さやかを珍しいなと見ていた。


 陽介は隣の県にいるから中々会えないが、俺とさやかは家も比較的近くて、陽介よりは食事の機会が多い。

 それでも、やはり、昔の話をしようとすると、さやかは「記憶にないのよね……」と少し考え込むも、「ま、いっか!」と笑って、結局話を変えることになるわけで。


 琢磨は、さやかを『女性として見たことはない』

 これは、さやか本人にも言った。俺は男女の友情は成立しないと考えているから、さやかのことは女性として見ない、と。


 男勝りな一面はあっても、さやかはとても女性らしく繊細だから、非難轟々かと思ったが。

「そうなの?けど仲良くしてくれてありがとう!」そう、あっけらかんと言ったのだった。


 にしても、橋本が好きだったとは意外だ。

 学年でもっと人気があった奴らはいたし、陽介も人気があった。むしろ陽介は学年で一番人気があったんじゃないか。


 ということは、結婚したヤツのことは、どう想っていたのだろうか。

 俺は、常に中立を決め込んでいた。


 ヤツに少しさやかのことを聞いてみたくもなったが、ヤツは自分の利益になる話が好きだから、ろくに話さないだろう。もうさやかに興味もないだろう。自分の利益しか考えない。


 別に嫌いな考えではない。俺は30歳過ぎても無職なものだから、一人で生きていく覚悟はできていたし。利益は確かに大事だ。


 ただ……さやかが昔のことを話すことがほぼない、それには理由があったのではないかと思ったこともある。


 あ。


 橋本……突然、引っ越したんだった。


 俺は、記憶力には自信がある。小学校の頃のことも鮮明に思い出せる。

 橋本のことは、隣のクラスだからさほど気にしなかったけれど、クラス共同の授業なんかもあったから覚えてる。

 ただ、隣のクラスだから急に引っ越した詳しい事情は知らなかった。


 ──さやかは、もしかして……


 5


 私ね、やっと見つけたのよ。


 あの頃、あなたが突然いなくなってしまって、住所もわからず手紙も書けなくて、家では泣いてしまう毎日でね。


 そうしたら、世界が突然グレーになったのよ。本当よ。モノクロの景色が広がった。


 中学生になったら、フルカラーの世界になると思っの。少し色は取り戻したけれど、少しなの。


 高校生になったら、フルカラーの世界になると思ったの。もう少し色は取り戻したけど、足りないの。


 大学生になって、社会人になったら、否が応でもフルカラーの世界を見なくてはいけなくて。

 あまり周りを見ないように駆け抜けてたの。そんな風にしていたら、記憶までも曖昧になってしまって。色んなことが、思い出せなくなってしまった。


 それなりに恋というものをしてみたけれど、ずっと「私は離婚を経験するだろうな」と何故だか確信していたのよ。


 現実になったけれど、確信してたから後悔はしてないし。だから、あの時のように、世界はグレーにはならなかったのよ。この先、一人で生きていくのかな、なんて少し不安も感じていたりはしたけれど。


 だけどね、やっとやっと見つけたの。

 思いもよらない再会だったけれど。


 私の名前は、彩加さやか


「ずっと好きだったんだよ!」


 想いが通じたからね、私はね……


 あなたの世界に、彩りを加えるの。


 離れていた間に、あなたの世界もグレーになってしまったのね。でも、私があなたの世界に彩りを加えるわ。あなたに寄り添って、離れないわ。絶対に、モノクロの世界を、フルカラーの世界に変えてみせる。


 ひとりぼっちになんて、させないわ。

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