第三話 アーティファクト#2


「そなたの危惧はわからんでもないがな」

 クロエさんの言葉に、アイカさんが軽く手を叩く。

「取り敢えず、ここで結界について論議をしても何も話は進まぬ……誰かが入り込んでおったかも知れぬが、その者が今も居るとは限らぬ故」

「先に進むにしても、さしあたっては結界をどうにかしなければならないわけですが」

 レティシアさんがアイカさんの言葉に続ける。

「誠に申し訳ないのですが、これほど大規模な結界となると私一人の力でどうこうすることは出来ません。相応の時間をかけて研究すれば、なんとかなるかも知れませんが」

「そんな悠長に待っていられる仕事じゃない」

 クロエさんが首を振る。

「歯が立たないなら、結局このまま引き上げるしかない」

「だから、お主はことあるごとに帰ろうとするでない」

 アイカさんが自分のこめかみを右人差し指で抑える。

「一応、これはお主のペナルティを兼ねておるのだ。ただでさえどん底寸前になっておる評価が、取り返しのつかないことになっても知らんぞ……」

「魔族に心配されることじゃない」

 フンと鼻息も荒くクロエさんが横を向く。

 うーん。再会してから少し気になっているんだけど、クロエさんってこんな無感情な喋り方をする人だったかな? 確かに感情の起伏は薄い人だった記憶はあるけど、もう少し普通な喋り方をしていた記憶があるけど……う~ん。

 ま、まぁ。大分昔の話だし、色々あって変わってしまったのかも知れないし。そこまで気にするようなことでもないか。

「そこで、事態を打開するために、エリザさんに是非ともご協力をお願いしたいのですが」

 え? わたし? 

「わたしにできることなら、喜んで協力しますけど」

 まったく予想外の展開に少し焦る。結界がどうこうというのは、明らかにわたしの専門外だと思うのだけど……。

「おそらく、ですが。エリザさんは魔力の流れが見えるのでは?」

 レティシアさんの口から放たれたのは、特大の爆弾だった。

「………!」

「え? いや、まぁ……その。なぜそう思われたのでしょう?」

 アイカさんが咄嗟にこちらを向き、わたしは思わず声が裏返りそうになる。

 レティシアさんの指摘は合ってるけど、そのことについて彼女に話したことは無いはず。なのに能力を把握されているというのは、あまり気分の良いものではないかなぁ……。

「私『賢者』が持つ固有スキル『スキエンティア』は、観察時間に応じて周囲や他者のことを高い水準で推察し、知ることができる能力です」

 わたしの微妙な表情に気づいたのか、レティシアさんが種明かしを口にする。

「それがどういう技能なのかまではわかりませんが、おそらくエリザさんは魔力を感知し、その先を見ることができるのではないかと、私は考えているのですが」

「………」

 えー。なにそのズルいスキル。

 いえ、限定的とは言え似たようなスキルを持つわたしが言えたことではないかも知れないけど……それでもズルいものはズルい!

 ようするに相手にそれと気付かれるコトなく、その能力を丸裸にできるってこと。つまりレティシアさん相手に隠し事は出来ない――。

「『スキエンティア』は、そこまで強力なスキルではありませんよ」

 わたしの表情を読んだのか、レティシアさんが言葉を続ける。

「本人が絶対に隠したいことを明らかにすることまではできませんから……ご先祖みたいに『アカシック・リンカー』スキル保有者でしたら、文字通り相手のすべてを曝け出せたでしょうけど」

 非才の身では、先祖に追いつけませんでしたからね。彼女にしては珍しい自虐的な光が、一瞬だけ瞬いたのをわたしは見逃さなかった。

 卓越した実力があっても、『賢者』などという大仰な肩書があっても、彼女とて一人の人間に過ぎない。

「確かにわたしは魔力とその流れを見ることができますけど……」

 今更隠すことでもないし、知られて困ることでもないから別にいいのだけど、魔力が見えたからってどうにかなるのだろうか?

「まずは目的のものが見えないと、そもそも話が始まりませんから」

 なるほど。先に進むにはまず結界そのものを確認する必要があると。そこでわたしの能力が役に立つって話なのか。

「でも、それって探索系魔法でもなんとかなるものなのでは?」

 レティシアさんの言いたいことはわかったけど、それでも疑問は残る。

 ぶっちゃけた話、レティシアさんがこうバーっと魔法を使えば結界ぐらい探知できるんじゃないかと思う。少なくともわたしのスキルよりは強力だと思うのだけどなぁ。

「以前も申し上げましたが、魔法というのは意外と不便なものでして」

 キョトンとするわたしの疑問に、レティシアさんは苦笑で答える。

「私では、結界を解くことはできません。術者の技量差が大きすぎて、まるで歯が立たないのです」

 流石のレティシアさんでも、神代の時代の術者には及ばないのかぁ……まぁ、そもそもスケールが違うもんね。

「ですが、少なくともここ数日以内に、理由はともかく結界は一度解かれました」

 その結果、開拓村の人が遺跡を目撃するという出来事が起きた。そしてどちらにせよ結界が操作されたのなら、必ず魔力の動きがあったハズ。

「その痕跡さえわかれば、結界そのものをどうこうすることは出来なくとも、多少の干渉を行うことはできます」

「なるほど」

 わたしよりも先にアイカさんが大きな声を出した。

「つまり鼠が忍び込む穴ぐらいは開けれるというワケだな」

「身も蓋もない言い方をすれば、まさにそのとおりですね」

 少々乱暴な物言いだけど、レティシアさんはあっさりと頷く。

「なにしろ私達は、あちらにとって『招かざる客』ですから」

 招かれないなら招かれないなりに、こっそりと。うん。そういうのはわたしの得意分野。



   *   *   *



 私が『魔力感知』スキルを駆使して結界の綻びを見つけ出し、そこを起点としてレティシアさんが通り抜けられる程度の『穴』を作り出す。

 もう少し手を加えれば、結界そのものを崩壊させる──針の一突きらしい──けれど、今の所は結界があった方が都合が良いので出入り口を作るにとどめておく。

 そして、その出入り口から一歩踏み込んだ瞬間、目前の景色が一変した。


「ふむ。確かに建造物があるな」

 遺跡……と言えば、遺跡なのかなぁ……。

「とはいえ、遺跡と呼ぶにはちょっと違うような気がするのだが?」

 わたし達の感想を、アイカさんが代弁してくれる。

 結界を越えたその先にあったのは、綺麗な花の咲く整えられた花壇と、その中央で鐘塔を持った教会堂を彷彿とさせる、こじんまりとした建物だった。人の気配もなく物音すらしないけれど、建物自身はしっかりと建っており崩れた場所は一箇所もない。

 外側の覆われた木々は全く見えず、代わりに地平線まで青空が広がっている。

「些か想像とは違うモノが出てきましたねぇ」

 レティシアさんの声に困惑の響きが混じるのも仕方ない。まるで観光名所にでも来たような気持ちになってしまう。

「ここまで何をしに来たのか、一瞬忘れてしまいそうです」

「同感だな。こう、弁当片手にゴロンと寝転がってみたいモノだ」

 アイカさんもウンウンと頷いている。

「……先程まで人に散々真面目にやれと言ってたワリに、随分と緩い反応をする」

 こんな景色の下でも、クロエさんの不機嫌は変わらない。

「腑抜けたなら、ここで遊んで帰ってもいい」

「やることを済ませれば、そうするのも悪くないな」

 案の定というべきか、クロエさんの嫌味はアイカさんにはまったく効果がない。

「なに、適度な休息こそ効率を最大化する秘訣故にな」

「………」

 クロエさんが無言で頭を振る。うん。理屈でアイカさんに絡むのはやめたほうが良いと思うよ。

 良くも悪くもアイカさんは自分流の理屈で動いていて、それを曲げることはない――んだけど、時と場合によっては大きく解釈を変えたりするので、うん。その。タチが悪いというか……真面目な人とは、あまり合わない面がある。

「危険の類はないようですし、とりあえず近づいてみましょう」

 慎重に建物へと近づき、外見を観察する。話に聞いた通りに真っ白な壁で、継ぎ目らしきものは全く見えない。その一点だけでもこの建物が人の手によるものじゃないとわかる。

 とりあえずぐるりと建物を一周してみたけれど、謎の建材以外に不審点はなかった。いくつか窓から中を覗いてみたけどやはり人影──というか、生活感そのものがまったくない。ただ部屋があるだけで、家具の類は一切見当たらなかった。結局入口前に戻って来たのの、状況は何一つ変わらなかった。

「……これ以上は、中に入るしかない」

 クロエさんが決断する。

「では、余が先陣を切ろうではないか」

 そう口にするやいなや、アイカさんが思いっきり玄関の扉を蹴り飛ばした。

「あ、ちょ、ちょっと!」

 あまりに躊躇いの無い行動に、引き止めるのが遅れる。

「鍵はともかく、トラップも調べてないっ……?!」

 まず鍵の有無すら確認していないし、万が一にもトラップの類が仕掛けられていたら大変なことになっちゃう。

「ふん」

 わたしの言葉に、アイカさんは笑い返す。

「この先、奥底までは知らぬが、少なくともこの正面玄関にトラップなどはなかろうよ」

 そう言いつつも、更に二度三度扉に蹴りを入れるアイカさん。随分と頑丈そうに見える扉が、ミシミシと嫌な音を立ててる。

「周囲を見ればわかる。この建物の持ち主は、随分と美意識が高いと見えるからな。自らの手で外見を壊すことをよしとはするまいよ」

 言いたいことはなんとなくわかるけど、根拠ってものが! 慌ててレティシアさんとクロエさんの方に視線を向けたけど、二人ともやれやれといわんばかりに肩をすくめるだけ。

「なに、心配するでない! 余の勘は、滅多に外れぬ故な!」

 それってつまり、たまには外れるってことじゃないですか!!

 言葉にならない悲鳴を上げるわたしの目の前で、扉はアイカさんの蹴りに屈し、轟音を立てて後ろに吹き飛んで行った。そして、間をおかずそのまま中に入ってゆく。

「面倒が無くていい。魔族もたまには役に立つ」

 吹き飛んだ扉から左右を覗き込みながらクロエさんが言った。

「あの手の勘は、それなりに当たるから」

 こちらもスタスタと中に入ってゆく。実際問題として何もなかったから別にいいのだけど、なんだか釈然としない。

「……まぁ、ああいうタイプの人もいるってことで」

 なぜかレティシアさんに同情的な言葉を掛けられつつ、わたしもため息をついてからアイカさん達の後を追った。



 結局建築物の中は本当になにもなく、見つかったのはなんの言語で書かれてるのかもはっきりとしないスクロールが一つ。レティシアさんでも読めないっていうのだから、余程のもの。

 それ以外はゴミひとつ見つからない。あまりに何もなさすぎて探索に困るほど。

 それ以外の発見は、この白い壁自身が魔力を帯びて発光し、照明の役を果たしているということぐらい。

「はてさて、流石にこの有様であれば、『何もありませんでした!』とこのまま帰って良い気もするが」

 アイカさんが思案げに言う。

「てっきり下へ降りる階段でもあるのかと思ったが、その痕跡さえ見付からぬ」

 わたしも建物中を探せば地下に降りる階段か、転移陣でもあるんじゃないかと思っていたのだけど、見事なら空振り。

 今の所、事実だけを突き合わせれば『きれいな花壇と建物を、わざわざ結界を張って隠していました』ってことにしかならないのだけど、いくらなんでもおかしな話。

 建物自体は、まぁ、誰かの別荘だとでも思えばまだ理解できる。だけど、それをこんな辺鄙な場所にこんな強力な結界まで作って隠す意味がわからない。

(なにか見落としているんだろうけれど……)

 なんの進展もないまま、一番奥の部屋までたどり着く。調べてはみたものの、やはりなにも見つかるモノはない。これはいよいよ手ぶらで引き返すことに現実味が。

「なんだろ……」

 部屋の中をもう一度ぐるりと見回す。他と比べれば若干広いその部屋は、やはり内装はなにもなくチリ一つ落ちてはいない。だけど。

 何かが引っかかる。見たとおり何もない部屋なんだけど、なにか違和感がある。

「……どうかしました?」

 わたしが首をひねっているのを見たレティシアさんがわたしに尋ねる。

「うーん、なんというか……この部屋、なんとなく狭くありませんか?」

 はっきりと測ったワケじゃないから言い切るのは難しいけれど、周囲を一周した時に感じた大きさから逆算すると、この部屋はもう少し大きいんじゃないかと思う。壁が白一色なので、広さが掴みづらく断言は出来ないけど。

 もちろん壁は隅々まで調べたし、レティシアさんの探知魔法でも特に何かが隠されている反応は無かった。そこまでして何もないのだから、あくまでも単なる感覚の問題になるのだけど。

「……まさか」

 だけどわたしの言葉に、レティシアさんはなにか気づいたことがあったらしい。

「エリザさん、周囲の魔力を『視て』貰えませんか?」

「は、はい。わかりました」

 レティシアさんに言われて、わたしは周囲の魔力を観察する。さきほど使ったばかりということもあり、頭と目に鈍い痛みが走る。

(……っ!)

 負荷の高いこのスキルは連続使用には向いていないけど、レティシアさんの表情を見るに、ここは踏ん張りどころだろう。気合を入れて、懸命に目を凝らす。

(……魔力が壁のように、垂直に……?)

 見開いた視線の数メートル前に、まるで壁のように立ち上る魔力がうっすらと見える。部屋の奥へ行けないように立ちはだかる魔力の壁――つまり、結界。

「この先に……結界があります」

「ディテクト・オーラ……フルドライブ! 」

 わたしの言葉と同時に、レティシアさんが魔法を発動させる。ガラスが砕けるような音が複数回響き、彼女の足元に幾つもの砕けた魔力結晶が散らばり落ちた。

「隠されしものよ、その姿を曝け出せ!」

 一瞬遅れて周囲がぐにゃりと歪み、見えなかった本当の姿がわたし達の前に現れる。

 広い部屋の中、わたし達が立っている場所周辺に、小規模な結界が張られていた。

 その向こうに下に向かう階段が見えている。あの階段の存在をくらますために、わざわざ結界を用意していたってことらしい。

「……私としたことが、先入観で見誤っていました。エリザさんが居てくれて助かりましたよ」

 はぁーっと息を吐きつつレティシアさんが言葉を続ける。

「まさか部屋の中にまで結界を張っているとは……しかも視覚と魔法から姿を隠すためのものです」

 視覚を遮ると同時に、探知魔法を無効化する結界。魔法じゃなくてスキルだからこそ、辛うじて見えたんだと思う。

 だから結界があると言われたレティシアさんは、無効化を打ち破るために魔力を上乗せしたんだ。あの魔力結晶の大きさと数からみて、尋常じゃない量の魔力を使ったんだと思う。わたしだったら、途中で倒れてそう。

「効果はともかく、強度としては外のものほど強力ではないので、私でも解除できます」

「ふむ。これで手ぶらで帰るという醜態は避けられそうだな」

 結界の向こうに見える階段を眺めながらアイカさんが口を開く。

「こうやって邪魔立てするぐらいだからな、さぞかし見せたくないものがあるのだろう」

 行く手を阻む結界をレティシアさんが解除し、わたし達は慎重に階段を降りて行った。



   *   *   *



 階段を降りた先で『空間認識』を使って把握した遺跡の構造は、なんとも奇妙なものだった。

 一階層に同じ大きさの立方体状に作られた小部屋が規則正しく配置され、それぞれが四方を細長い通路で接続されている。全部同じ形をしている部屋の連続なんて、下手な迷宮よりも難易度が高いと思う。

 なんというか、如何にも特別な目的があって作りましたといわんばかりの構造。

「建築物が絡むダンジョン――遺跡ではそんなに珍しいことじゃない」

 わたしの報告を聞いて、クロエさんが口を開く。

「つまり上モノは入り口で、本命は地下にあるってパターン」

 あぁ、確かにありがちな話。地上に大規模な箱物を作ると目立って仕方ないから、地下に作っちゃう。その方がなにかあった時の隠蔽もやりやすい。予め物資を貯めておけば、最悪立て籠もるのも簡単。

 地上にある物を薙ぎ払うのは簡単だけど、地下にあるものを潰すのは容易じゃないし。

「それにしても、面倒な構造だな」

 こちらはアイカさん。本当に面倒くさそうな表情と口調で言う。

「これを虱潰しに見てゆくとなると、一体どれだけの手間がかかるのか、想像するのも面倒だぞ」

 そのとおり。わたしが把握できているのはまだ全体じゃない。この先どれほど広く続くのかは想像もつかない。

「だからと言って、発見した以上は探索する必要がある」

 アイカさんの言葉に、クロエさんがぴしゃりと言う。

「魔族が一人で帰るというなら止めはしない」

 いつの間にか立場が逆転しているような気がする。先ほどまでは、どちらかと言えばクロエさんが帰りたがっていたような気がするんだけど……やっぱり探索する遺跡が目前にあるとスイッチが入っちゃったりするのかな? 流石は『金』級。



 最初の部屋から移動を始め、幾つかの部屋の調査が空振りに終わったあと、わたしはなんとも言えぬため息を漏らした。

 空間認識である程度わかっていたけど、今の所すべての部屋が同じ構造をしている。

 部屋は完全な立方体で、床中央だけが少し窪んでいる。それ以外の内装らしきモノは一切ない。もちろん生物の姿など影も形もなかった。

 通路に続く扉は外から施錠できるようになっており、内側からは開られないようになっている。

 それぞれの扉には大きなのぞき穴が作られており、頑丈なシャッターで閉めることができるように作られていた。なんというか、まるで何かの観察場みたいな構造だ。照明に関しては上の建物と同じく壁そのものが光っている。

「ここも、なにもなし……っと」

 改めて新しい通路に足を踏み入れ、次の部屋に移動を始める。何かあるにせよ無いにせよ、ともかく先に進むしかない。発見がない代わりに障害も無いのは有り難いけど。

 通路に入ってから数歩、ふとわたしは足を止めた。

「………?!」

 その瞬間、ピリっとした違和感が脳裏を走る。

 殺意でもなければ悪意でもない──強いて言うなら、こちらをじっと見ている視線。

(……なにか、いる?)

 先頭を歩いていたわたしは、足を止めてゆっくりと左右に視線を巡らせた。

 古びてはいるものの傷んではいない通路と壁、そして天井。なんの変哲もない廊下。

 その古ぼけぶりから長いこと誰も使っていないだろうということははっきりと分かるのに、埃一つも汚れもない廊下。典型的な『遺跡』。

 視線を上に向ければ、廊下の天上にやや大きな水の染みが見える。その上に水たまりでもあって、そこから染み出しているのだろうか?

「……ふむ」

 それ自身は別に珍しいことではない。長年人の手が入ってない場所ならどこからともなく滲み出た水が滴り落ちるのはわりとある景色だし。

「どうかしたのか?」

 アイカさんが尋ねてきたけど、人差し指を口に当てて、シーっと。

「………」

 それを見たアイカさんが両手で自分の口を押さえる。別にそこまでしてくれなくとも良いんだけど……。

 それよりなに? このかわいい生き物。おっと、そんなことより。

 じっと前方を見続け、そのまま数十秒が経過。

「そこそこ待ったが」

 流石にポーズに飽きたのか、アイカさんがそっと小声で聞いてくる。

「なにも起きないではないか?」

「起きませんね」

 アイカさんの言葉を肯定する。

「それが問題なんですけど」

 そう何も起きない。だからわたしは確信した。

「?」

 わたしの返事にアイカさんが首を傾げる。美人さんのこういう意図せぬ仕草って、本当に反則的に可愛いと思う。

 っと、それはともかく。

「………」

 わたしは無言で天上の水染みを指差す。なんの変哲もないただの染みた水――間違いない。これこそがわたしの違和感の正体だ。

「あぁ、なるほど」

 わたしの考えを察したのか。レティシアさんが頷く。

「確かにこれは、問題ですね」

 天井に貼り付いていて微動だにしない水の塊なんて不自然にも程があるし、地面に水たまりからの水滴が落ちる気配もない。自然の水なら、ポタポタ垂れるはず。

 つまり、あれは断じて自然の水ではない。それ以外の何か。

「スライム……」

 クロエさんが短く呟いた。ここに来て、ようやく遺跡らしくなってきた。

 スライム――それは、ダンジョンや遺跡といった入り組んだ場所にのみ生息する粘液状の特殊な魔物。

 松明でも押し付けてやれば簡単に燃え上がるし、透明な身体のなかにとてもわかりやすく『核』がぷかりと浮いているので、後はそれを一突きでも両断でもすれば好きなまま。移動力も遅くて、歩いても追いつかれる心配はないから、戦わずに回避するのも簡単。

 それぐらい脆弱な魔物であるにも関わらず、探索者の間ではとんでもなく脅威度の高い存在だと認識されている。

 理由は簡単。実に高い擬態能力を持つ魔物だから。

 とはいえ、見た目が変化したりするワケじゃなく、あくまでも大きな粘液のままでその形状を自由に変えることができるだけ。それも平たく伸びたり接している地面の形に合わせたりといった程度の。

 だけど、たったそれだけのことがダンジョンでは脅威になる。

 例えば床の上に水溜りがあったとして、それを脅威に感じる? 殆どの探索者は気にしないと思う。

 そりゃ、乾燥してカラカラのダンジョンに水溜りがあれば誰だって怪しいと思うだろうけれど、そうではない多くの湿ったダンジョンなら多少の水溜りなんて気にしてられない。

 全部の水溜りやぬかるみ、壁や岩肌に滲み出ている水全てを疑ってかかっては、集中力がいくらあっても足りない。

 スライムが擬態した水溜りに足を突っ込んだり、天井に張り付いているその下を通り過ぎようとしたり──油断したその瞬間、この魔物は牙を剥く。

 獲物が掛かった瞬間、スライムは獲物の全身を自分の粘液で覆い、穴という穴から体内へと侵入して瞬く間に溺死させてしまう。

 そしてそれほどの時間をおかずして獲物を消化し吸収してしまうのだ。数ある死に方の中でも、トップクラスに嫌な方法。

 仲間がいても助け出すのが難しいってのがまたいやらしいポイント。

 スライムは火を付けると一瞬で燃え上がるほど可燃性が高い。さて、人を取り込んでいるスライムに炎を近づけたらどうなるでしょう?

 答えは、スライムと一緒に焼死。

 『核』を狙うにしても、スライム内に取り込まれた人を避けて狙うのは難しすぎる。よほどの腕前がなければまず無理。

 運良くそれだけの腕前をもつ人がいてスライムを倒せたとしても、体内に侵入したスライムに中身を溶かされた人が助かる可能性はほとんどない。

 高位の神聖魔術を使える人がすぐに魔法処置を施せば、命だけは助かるかもしれない。ただ、まともな身体には戻れないけれど。つまり、スライムに捕まれば、その時点でオシマイってこと。

 魔物探知の魔道具や魔法を用いて警戒するのが一番だけど、魔道具はコストが掛かるし、魔法を唱え続けるのは効率が悪い。スライムがいるかどうかなんて、結局は運次第だから、最大の対策は『諦める』ことになってしまう。

 幸いにしてスライムは本当に珍しい魔物で、遭遇することは滅多にない。そんな希少例のために神経を使うぐらいなら、出くわした時は運が悪かったと諦める──それが最適解になってる。命には代えられないとはいえ、探索者のリソースは限られているのだから、どこかで危険を飲み込むしかない。

 その意味で、わたしの直感にスライムが掛かったのは本当に運が良かった。普段より神経を張り詰めていた甲斐があったってもの。

「ファイアボルト」

 レティシアさんが炎の魔法を発動させ、スライムを焼き払う。悲鳴すら上げることなく、蒸発するかのように死骸も残さず消え去った。

「流石はエリザだ!」

 何故かドヤ顔で自慢気に口を開くアイカさん。

「そなたが居れば、大抵の危機は未然に防ぐことができるな」

「なぜ魔族が偉そうにする」

 アイカさんのドヤ顔に、クロエさんがツッコミを入れる。

「凄いのはエリザであって魔族じゃない」

「余が認めた優秀な人材だからな! 余の見る目が証明されたと言っても過言ではあるまい」

 いや、それはおかしい。大分、過言だと思う。認めて貰えるのは嬉しけど……。

「それを言うなら、私はもっと以前からエリザを認めている」

「だが、先にエリザと仲間になったのは余であるからな」

 フフンと得意げな表情を浮かべるアイカさん。

 えーっと……いつの間にか、話が変な方向にズレて来たような気がするんですが?

「如何な理由があろうとも、結果だけがすべてだ」

「チッ!」

 心底悔しそうな舌打ち。クロエさん、アイカさん相手にはホント口が悪いなぁ。

 いやまぁ、その口の悪さもちょっとカッコよく見えたり見えなかったりするから、自分のことながらナンだかなぁ……と思わなくもない。

 そんな二人の言い合いを背に、わたし達は探索を再開した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る