万華の鏡を覗き見る

藤井 三打

ある青年たちの記録

 私は、喫茶店を経営している。店名はつけていない。どうせ周りになにもない以上、喫茶店で通じる。

 営業時間は早朝六時から夕方五時まで。山は朝も夜も早い。

 メニューは山水で淹れたコーヒーと、トーストにカレーやナポリタンといった軽食。それなりに上手く作れている自信はあるが、最寄りの無人駅まで車で三時間かかるような場所にわざわざ来て食べたいかと問われれば、作った私でも迷う。他人ならば、愛想笑いと共にNOと言うだろう。

 客は一日に一組くれば上等。山登りのシーズンでも、満席になることはない。

 こんな場所で、なぜ喫茶店を経営しているのか。正確には、出来ているのか。

 それは私に副業があるからだ。


               ◇


 午後一時。ピピピと、警告音が鳴る。昔はもっとビービー!と鳴るようなブザーを使っていたが、うるさいしびっくりするので大人しいブザーに買い替えた。もっともその代わり、静かなブザーを聞き逃さないようにしなければならないという手間が増えたが。

 私はコンロの火を止めると、腰に携帯型の蚊取り線香をつけて外に出る。

 歩いて10分、山道の奥に見慣れない車を発見する。

 車の近くでは、若い男女四人が立入禁止の看板をスマホで撮っていた。

 あのわざとおどろおどろしく書いた看板は、私の自信作だ。

 意味がありそうな記号やかすれた絵を描くことで、人の興味を惹き足止めする。

 こんな山奥にまで、興味本位でやってくる相手には効果的なトラップである。

 私はいつもどおり、彼らに問いかける。


「こんな山奥にまで、何をしに?」


「探検……です」


 精悍そうな顔をした男が答える。きっと彼が、この探検隊のリーダーなのだろう。

 あとはたくましい男に小柄な女に黒髪の女。全員が、いぶかしげにしている。

 こんな山奥の奇人を見て、ちゃんと話してくれる相手がいるのはありがたい。

 私は彼と会話を続ける。


「なるほど。君たちは、学校のお友達でしょうか?」


「ええ。大学のサークルのものです。この先に珍しい場所があると聞き、ちょっとやってきたんですが」


 ちょっとやってきたわりには、本格的なカメラや調査道具を用意しているじゃないか。今、後ろ手に隠したそれだよそれ。あと、ドローンというのですか、それは。少し興味があるので、見せてくれませんか。

 意地の悪いことを言おうとして、ギリギリのところで止める。

 山歩きに適した格好に、素人っぽさ。おそらくマスコミなどではないだろう。ちゃんとした格好で山に来た辺り、育ちの良さを感じさせる。持っているカメラや道具の良さから見て、何処かの大学や専門機関の一員であることは間違いない。

 だがどうにも、こちらを出し抜いてやろうという欲も見え隠れしている。四人から感じられる、私を値踏みしている視線。そしてコイツなら平気だろうという侮り。

 いたくこちらを傷つける態度だが、もうこういうのには慣れている。彼らは行動や嘲笑に出ない以上、マシな部類だ。


「この先に、変わった岩があると聞いてきたのでしょう。あの木の上に見える、尖った石、あれが君たちが見たいと思っていた万華岩の一部です。これで満足して、山を降りていただければ幸いです」


 私はそれだけ言って、若者たちに背を向ける。

 万華岩。いつからこの山にあったのかわからない、巨岩である。

 のっぺりとした石灰石のような岩肌を持つ、ビルなら三階相当の高さを持つ巨岩。

 大自然の美しさと、未知の性質を持つ万華岩。おそらく観光地として整備すれば、この周辺は一気に潤い、道路も整備され、喫茶店はあまりに良い場所になっているとして地上げ屋に狙われるだろう。

 だが、あの万華岩を管理する村は、その道を選ばなかった。代わりに、秘匿することを選んだ。だからこの辺の道は凸凹だし、喫茶店は低空飛行の経営を続けている。

 私の副業。それはこうして万華岩に近づこうとする人間に警告すること。

 雇われの、村外れの変わり者である。


               ◇


 喫茶店に帰った私は、一息ついたあとコーヒーを淹れ、サンドイッチを作る。

 サンドイッチには地元の新鮮なレタスとトマト、それにスモークしたチキンを挟んだ。好き嫌いは知らないが、シャキシャキとした野菜、そしてチキンは経験的に食べられない人間は少ない。まあ私は、チキンが入ってたらそっと避けるが。

 水筒とプラ容器にそれぞれコーヒーとサンドイッチを入れ、私は万華岩へと向かう。あの若者たちの車があった場所は、少し遠回りが必要な表向きの道。私が通るのは喫茶店のそばにある近道にして裏道だ。

 森を抜けた先に、不自然に開けた広場がある。なぜかずっと靴底以上の高さの草が生えない結果、誰かが整備しているような綺麗な芝生に覆われた丸い広場。その中央にそそり立つ、万華岩。万華岩を見上げられるような位置には、誰が建てたかわからない小屋の跡がある。あまりに古く、一部の屋根と壁しか残っていない、小屋と残骸の合間にある物体。先程の四人の若者は、その小屋を拠点とし本格的な調査活動をしようとしていた。やはり、万華岩を諦めきれなかったのだ。


「ど、どうも……」


「こんにちわ」


 まずはこちらの忠告を無視した謝罪が欲しかったが、来てしまった以上、もはや詮無きことだ。気まずそうに挨拶してくる若者たちに軽く会釈をし、私は持ってきたコーヒーとサンドイッチを四人分、小屋にある机代わりの台に並べる。きちんと分けられるよう、紙のカップや皿も用意してきた。まあ、慣れているのだ。

 私は台の近くにある岩に腰掛けると、若者たちにうながす。


「座りなさい。これは、サービスです。いらないなら、食べなくてもいいです。ただ、一度座りなさい」


 怒鳴りつけると反発する。仰々しい顔をすると恐れる。ならば、普段の顔で接すればいい。怒られると予想していたのだろう、若者たちは顔を見合わせると予想外といった顔でゆっくりと座る。幸い、椅子の代わりになるような残骸や岩は小屋の中にたくさんある。黒髪の女は、岩の上にビニールを敷いていた。彼女は、私が差し出したコーヒーやサンドイッチに手を付ける様子が一切ない。注意深い若者だ。


「すまないが、質問させてほしい。君たちは大学のサークルだと聞いたが、全員大学で知り合ったのかな」


「いいえ。僕と彼女は、中学の頃からの付き合いです」


 私の質問に、リーダー役の青年がこう答える。

 だが、指を向けられた黒髪の女性は反論した。


「え? 私とあなたは、高校からの付き合いでしょ」


「そんなわけはないだろ。僕と君の家は近所で、高校受験の日も一緒に行ったじゃないか。駅の階段で転んで、僕が君を支えて」


「そんなはずはないよ」


 二人の話に割って入ったのは、もう一人の小柄な女であった。


「一緒に行ったのは私だし、階段でころんだのも私。だいたい、高校で同じクラスだったのを忘れたの?」


「そんなわけがないだろう。君と出会ったのは大学に入ってからだ!」


 語彙が激しくなるリーダー役の男。だが、ここで話に入ってきたたくましい男が、更に話を混乱させた。


「待った待った待った。そもそも、お前ら全員、別々の地方から出てきただろ。なんで、学校が同じだったとか近所とか、そういう話になってるんだ」


「なに変なこと言ってるのよ。だいいち、あなたと私は小学校の頃からの付き合いでしょう?」


「はあ!?」


「なんだいそりゃ! 僕は知らないぞ!」


「え。ちょっと待って、私ってたしか、あなたの幼馴染だったよね?」


 やいのやいのと思い出を語り合う四人。全員が全員、詳細な思い出を語っているが、交わりそうなところがそれぞれ否定される。傍から見ていてもこんがらがるのだ。当人たちの困惑は、それ以上だろう。

 こうなった以上、助け舟を出さねばならない。


「君たち」


 私は一枚の紙と、四つのペンを取り出す。


「言い合っても埒が明かない。ここは自分の人生をそれぞれこの紙に書いてみてはどうでしょう。そうすれば、それぞれの人生や時系列がわかるはずです」


 興奮していた彼らは、まるで奪うかのような勢いでペンを取ると、喧々囂々とそれぞれの知る時系列を紙に書く。

 私は自分用のコーヒーとサンドイッチを取り出すと、こちらを見下ろす万華岩を眺めつつ食事をいただく。マヨネーズベースのソースは、鶏肉代わりのサーモンによくあった。もっとも私は、万能調味料たるマヨネーズが合わない食べ物を知らないが。


「おかしい! こんなはずがない!」


 リーダー役の絶叫を聞き、私はサンドイッチとコーヒーを喉に流し込む。

 ひょいっと覗き込んだ紙は、四種類の字と人生が縦横無尽に書き込まれていて、まるで曼荼羅模様。前衛的な絵画であった。

 リーダー役の男は黒髪の女と中学時代に出会ったと言っていたが、黒髪の女は彼とは高校時代に出会ったと言っている。リーダー役の男は黒髪の女との思い出を書いているが、小柄な女がそれは自分との思い出だと言い張っている。だが小柄な女の記憶はたくましい男との小学校時代からの思い出があり、三人との付き合いは大学時代からだと言っているたくましい男は、不気味さと既知感でぐちゃぐちゃになっている。

 なんとも奇々怪々。これがクイズならば「さて、嘘をついているのは誰でしょう?」と付け加えたいところだが、あいにくこれはそんなものではない。

 私は新たに取り出した紙を四枚にちぎると、四人にそれぞれ渡す。


「君たちの両親の名前を書いてください。書けたら台の上に」


 なんでそんなことを? と聞き返してくる者はいなかった。

 リーダー役は震える手で、黒髪の女は乱雑にと、それぞれ書き方は違う。だが、全員が這い寄ってくる嫌な予感をギリギリのところで抑え込んでいるのはわかった。

 台の上にほぼ一斉に並んだ四枚の紙。その紙を見た四人の顔色は青くなった。

 なにせ、四人の両親の名前を書いたはずなのに、父と母の名はそれぞれ二種類。黒髪の女とたくましい男の母親の名が、リーダー役の男と小柄な女の父親の名が被っていた。もともとそれぞれの母と父が同じ名前であったら、もっと平然としているだろう。


「おえええええええっ!」


 小柄な女がゲロをぶちまける。

 だが、他の三人に彼女に気を使う余裕はない。私はハンカチを彼女に渡す。


「ふざけんな! お前が、お前が……!」


 限界を迎えたたくましい男が、私の胸ぐらをつかんできた。

 顔は真っ赤で、今にでも殴りかかってきそうだ。

 だが、僅かな理性と、自らを取り巻く不気味さがその手を止めている。


「君たちは、なぜこの岩が万華岩と呼ばれているのか知ってますか?」


 私は極めて冷静な口調で話す。

 激昂や混乱の薬となるのは、冷静さである。

 長年の経験でよく知っているし、事実、吐いていた女も落ち着き、激昂していた男も私の胸ぐらを掴む手の力を緩めた。


「この岩は、のっぺりと白く美しい。だが、万の華、万華と呼ばれるには鮮やかさが足りない。なのにこの岩は万華岩と呼ばれています。どこに、万の華と名付けられる程の繚乱があると思いますかね?」


 私にこう言われ、若者たちはきょろきょろと周りを見回す。

 白い万華岩以外にあるのは、この小屋の跡地と緑一色の草原。

 見事ではあるものの、多彩な色ではない。

 私はたくましい男の手から逃れた後、再び話す。


「万華鏡というのを知っていますか」


「あの丸い筒のおもちゃですか?」


「それです。鏡で覆われた筒を覗き込めば、そこにあるのは夢の世界。中に仕込まれたキラキラが反射して、なんとも美しい。そして回せば、中のキラキラも動き、さらなる未知の模様を描く。百色眼鏡や錦眼鏡、カレイドスコープと呼ばれているアレですよ」


「それは、知ってますけど……」


 私の問いかけに乗ってくれたのは、黒髪の女だった。ただほうけている男たちと比べて、実に頼もしい女性だ。それでもおそらく、これから先の話にはついてこれないだろうが。


「万華岩の名称は、万華鏡から来ている。だが、万華岩は万華鏡ではない。万華鏡の中心となる、目印でしかないのです」


「どういうことですか?」


「この万華岩を上空から見れば、丸い草原にちょんと白い点があるように見えるはずです。まるで、丸い万華鏡を覗き込んだように。だから、この岩は万華岩と呼ばれているのです」


 いつからこの岩が、万華岩と言われているのかは知らない。

 だが、気がつけばこの由来とともにそういうことになっていた。

 万華岩を管理する村、その村長は私にそう語った。

 村長の曽祖父のころには語られていたらしいが、飛行機もない時代にいったい誰がこのことに気づいたのだろうか。


「だが、万華岩は万華鏡となるのに、足りないものがあります。緑の草原と白い岩、この辺りには鮮やかさが足りない。ちかちかと、鏡の上で踊るキラキラ。それがあって、初めて筒は万華鏡になる。この万華岩を万華鏡にするのは」


 私は、四人の若者たちに指を向ける。


「君たちなのです。君たちが万華岩の周りに入り込むことで、万華岩の周辺は万華鏡となる。この岩はね、人を撹拌するのです。君たちの煌めく人生は、ばらばらになり混ざりあって、万華鏡の光となった。その結果、元の形を保てなくなった」


 この岩の近く、この草原に足を踏み入れた人間たちは、徐々に己を失っていく。

 かちかちと、人生や生き様をぶつけ合って混ざり合う。その結果、万華の岩は美しく輝き、混ざりあった人生はもはや原型を留められない。生き様による美しい幾何学模様の代償は、人生と経験の撹拌である。


 正確にはこの岩は、ミキサー岩や遠心分離機岩とでも呼ぶべきなのだろう。だが、混ざりあった人生には美しい煌めきがあったに違いない。そんな、不可思議な現象に縋るような慰めが、この岩に万華鏡を見た。


 私に指摘された若者たちは、皆呆けていた。呆けていようがなんだろうが、真実とこれからを告げるのも、村の変わり者の仕事だ。


「信じられないなら、君たちの携帯を見てください。フォルダも親戚兄弟友人の名前も変わっているはずだ。だが幸いなことに、それは君たち四人のうち、誰かが知っている名前だ。まずは落ち着いた場所で、それぞれの新たな関係を整理するといい。ひょっとしたら、君たち同士が血縁関係になっているかもしれない」


「あっ……あ……ああああああああああ」


 いち早く懐から薄い携帯、今ではスマホというのか、それを取り出した小柄な女が悲鳴とも嗚咽とも分からぬ声をあげ、地面に伏せる。遅れてスマホを確認した残りの三人も、似たような様子であった。ごちゃごちゃに混ぜられたデータが、先程までの記憶の混濁の実感と見事に噛み合ってしまった。


「どうして……」


 リーダー役の男がぽつりと呟く。


「どうして、止めてくれなかったんですか!?」


 この叫びと怒りの感情は、私に向けられていた。

 それはそうだろう。最初、私が万華岩の近くであった彼らを必死に止めていれば、こんなことにはならなかった。殴ってでも、止めるべきだろう。

 だが、私にはそれができない理由があった。


「それはね、無理なのです」


 私は薄手のシャツをまくる。

 シャツの下にあるのは、内蔵を刺された痕と腹を裂かれた痕である。


「昔は私も、万華岩に来る人間を強く止めていました。でも、止まらないのです。一度、万華岩に魅入られてしまった者は止まらない。私が立ちふさがれば、君たちはおそらく私を力づくで退けたでしょう。警告を聞かなかった時点で、無理だったのです。万華岩のきらめきは、中に入る人間すら魅入らせる」


 中には私の警告を聞き退いた者もいるが、彼らは万華岩の存在を知らず、偶然迷ってしまった者ばかりだった。そして彼らのように、万華岩の情報を得て来てしまった者は、何をしても止まらない。立ちふさがれば、暴力や凶行に訴えかけてでも万華岩に行こうとする。来た人間の性格や身分は関係ない。善人の一行でも、最終的に私を力づくで退けてしまうのだ。

 何度も身を挺して止めようとした結果、既に私の体は限界を迎えている。あと一回刺されたら、死んでしまうだろう。私は、自らを犠牲を良しとする聖人にはなれなかった。それに私が生命を投げ出しても、結局彼らは行ってしまうだろう。

 ぷるぷると震え、怒りを自らの中に押し込める、リーダー役の男。

 きっと彼は、いい男なのだろう。だからこそ、この傷の悲痛さを見て、納得してくれた。


「落ち着いたら、そろりそろりと、万華岩を降りましょう。これ以上、人生が混ぜっ返されないように」


 今まで何人もの人間を送り出してきた台詞。だからこそ、この台詞は、事務的に無感情にすらすらと出た。


               ◇


 万華岩があるのは山奥である。冬となれば、道の大半が雪で埋まってしまう。

 私も雪が振り始めたら山を降り、一時的に村長の家に逗留する。

 引っ越しの準備を考え始めたところで、久方ぶりに営業時間中の喫茶店の扉が開いた。来客である。


「いらっしゃいませ。おや?」


 私はその来客に見覚えがあった。客商売である以上、客の顔は忘れない。まあ流行らない店というハンデを、だいぶ貰っているが。

 やって来たのは、三ヶ月ほど前に万華岩にて人生を撹拌された四人組。

 そのうちの一人である、黒髪の女であった。


「聞きたいことがあってきたわ」


 その顔は三ヶ月前に比べ、随分と憔悴していた。

 だが、一度万華岩に魅入られ、その後、私の元に来た人間はほとんど居ない。

 私は一礼した後、彼女にたずねる。


「今日はお一人ですか」


「ええ。他の三人は来れないから」


「そうですか。あの小柄な女性の方は?」


「あの娘は、帰り道に奇声をあげてどこかに行ってしまったわ。彼女のご両親や友達には連絡しておいたけど、きっと見つからないでしょうね。だってそれはもう、彼女の知る両親や友達じゃないんですもの。元のご両親や友達のところにも行ってない。知らない人間として、知っている人間に拒絶されるのが怖いんでしょうね」


「万華岩に魅入られたあと、下山した方の大半はそうなります。おそらくもう、二度と会えないでしょう。あの大きな、たくましい男の方は?」


「アイツだったら、わたしたちに万華岩の話を持ってきた教授を殺して捕まったわ。お前のせいでこうなってしまったんだって」


「ああ。それもよくある話です。万華岩の謎に興味を持ちつつ、踏み入ることに躊躇した人は、だいたいそうやって他人に丸投げするのです。そうして君子危うきに近寄らずを実践しても、下山した方に殺されるんですけどね」


「でも、留置所でみたアイツは、すごく爽やかな顔をしていたわ。こうして捕まることで、俺は今までの縁をすべて切った。そしてこれから先も無い。だからもう、混ざりあった人生に苦しむこともないんだって」


「なるほど。そう解釈したのですね。確かに捕まってしまえば大抵の縁は切れますが、混ざりあったのは縁だけでなく記憶もです。刑務所という自らを反芻しやすい空間にて、歪んだと認識している記憶を抱えたまま、果たして耐えられるのでしょうか? それと、もう一人の男の方は? あの、精悍そうな」


「あの人は、死にました。私と求めあった後に、一人で」


「それは……」


 思わず私も言葉に詰まる。

 黒髪の女は、影のある顔で何があったのかを語る。


「混ざりあった人生の意味、わかりました。自分の両親や友人関係や経歴、すべてが混ざりあうと、運良く残ったところも含めて、何も信じられなくなるんですね。何を言っても、当事者以外には信じてもらえない。あれだけ愛してくれた人でも、私を見て怪訝な顔をする。消えた一人と、自棄になった一人。残った二人ができることと言えば、確かめ合うことぐらいでしょう?」


「……」


「混ざりあったすべてをなげうって、ただずっと、間違いなくそこにいるお互いをずっと求めあって。日付も時間も、何もわからなくなるぐらいにむさぼりあって。そして眠くなって、気づいたらあの人、首を吊ってました。一人で。誘ってくれないなんて、つれない人です」


 女の顔は無表情であった。何の言葉をかけていいのかわからない。

 私はそれほど、女に慣れていないし、適当な言葉を囁やけるほど不誠実でもない。


「さて、私はどうしようかと考えていた時、ふと思い出したんです。この岩と、貴方のことを。安心してください。岩を壊そうとか、貴方を刺そうだなんて思ってません。あんな岩を壊したらどうなるかわからないし、憂さ晴らしはもう、二番煎じですから」


「それは助かります」


 私は、頬の冷や汗を密かに拭う。刺す気がないといいつつ、テーブルの上のフォークを見るのはできれば止めてほしかった。

 黒髪の女は、眉に力を込め、私の目を覗く。


「貴方は、万華岩は人間の人生を撹拌すると言った。でもあの時、万華岩の近くで事情を説明した貴方の人生は、私たちと混ざらなかった。いったい、何故なのか。それだけが、気になってしまったの」


 なるほど、この人はやはり利発だ。自分たちが混乱する中、私の立場の特異性を見抜いてみせた。知性のきらめきには、真実で答えねばなるまい。


「わかりました。これから、万華岩へと向かいましょう。語るには、あの場所が相応しい」


 私の申し出を聞き、女はビクリと震える。いくらヤケでも、いくら真実を求めていても、あの岩に近づくことの危険性を体感してしまった以上、躊躇せざるを得ない。


「ご安心ください。私と貴女の人生は、決して混ざりませんから」


 こう言う私の笑みは、きっと乾いていただろう。


               ◇


 今日も万華岩は変わらなかった。草原の中にぽつんと立つ、白い巨塔。

 興味本位の一度目、そして人生を狂わされた上での二度目の来訪。

 ここに来てから、彼女はずっと震えていた。なに、逃げ出さないだけ勇気がある。

 私は持ってきた荷物を広げつつ、彼女に話しかける。


「私も昔、この万華岩で人生を失ったうちの一人です。この不思議な岩の謎を解いてやろうと、意気込んでやって来て。実に若かった。ただ、私と貴女たちで違うことがあるとすれば、私は一人でした」


 私は古いテントを広げつつ、話を続ける。


「私はこのテントを広げ、数日間一人で万華岩の下にいたのです。自分の人生が大変なことになっていると気づかないまま、飽きるほどここにいて。気がつけば、自分がなんだかわからなくなってました。貴女たちの人生は、万華鏡のように混ざりあってきらめいて、新しい形となった。ですが私の人生は、ただただ何度もここで摩耗してすり減って、何の美しさもないまま、なくなった」


 複数の人生が万華鏡のように混じり合う万華岩。一人でここにいた私はおそらく、万華岩の本来のあり方に逆らってしまった。ただ美しくないまま、一つの石としてずっと万華鏡の転がり、気づけば煌めきをすべて失っていた。


「君たちは、お互いの人生をすり合わせることで元の形を推測できたでしょう。ですが私はもう、何もわからない。カメラマンだったのか学生だったのか暇人だったのか、気づけばこの岩の下で、何もわからなくなっていた。おそらく、両親やかつての知人が私を見ても、誰も気づかないでしょう。おそらくわたしは、居なかったことになっている。そもそも、私自身が彼らを認識できません。記憶が他人の物になるのと、すべてを忘れてしまうのと、どちらが幸せなのかはわかりませんが」


 テントを建て終えた私は、黒髪の彼女に向き直る。

 彼女は、哀れみとも恐怖とも思える、悲痛な顔で口を開く。


「それは辛くないの……?」


「辛いですよ。いっそすべてを失ってしまえばよかったものの、万華岩の影響を受けるのは人生であり個々の記憶、いわば思い出だけです。それ以外の人格はすべて残るし、生活能力を失うわけでもない。もし戸惑う私に、この万華岩を管理する村長が万華岩の守役としての仕事をくれなければ、今頃山をあてなくさまよって死んでいたでしょう」


 万華岩の麓で数日過ごした後、私はまっさらになったアドレス帳をきっかけに、自分の思い出が無くなっていることに気がついた。ふらふらと山を降りた私を発見した村長は、私に廃屋寸前だった喫茶店のマスターと、村外れの変わり者の役目を与えてくれた。


“まっさらになってしまった人間ならば、万華岩の近くにいても安全だ”


 怯える私に村長が言った言葉は今でも忘れられないし、万華岩の近くで生きるための開き直りにもなっている。

 私は黒髪の彼女に問いかける。


「貴女には選択肢があります。まず一つは、撹拌された偽りであると知りつつ、このまま山を降りて人生を生きること。そしてもう一つは、私と同じようにまっさらになること。これはこのテントで数日過ごせば叶いましょう。私がそうだからというわけではありませんが、偽りと知りつつ生きるよりは、すべてを捨ててしまった方が生きやすいでしょう。ここに残るのなら相談に乗りますし、もし山を降りたとしても、一から人間関係を作らなければいけないこと以外は、おそらく問題ないはずです」


 私が提示した二つの選択肢。

 だが彼女は、この選択肢を拒絶した。


「いえ。私は、三つ目の選択肢を選ぶわ」


 リュックサックにたんまり詰まった、パソコンや測量機といった様々なツールを私に見せつけ、彼女はこう言った。


「私はこの万華岩を調べたい」


 その目は、探究心か復讐心か、とにかく力に満ちている。あまりに強すぎるその目を直視され、私は思わず目をそらしてしまった。


「こんなに無茶苦茶にされた以上、もう万華岩なんて怖くないわ。この、何が何だか分からない岩を、私は解き明かしてみせる」


 もはや彼女は、ただここにいる私には届かぬ領域に到達したようだ。

 私はため息を付くと、そんな彼女に支援を申し出る。


「テントや生活用品は好きにお使いください。一応、食料も用意してありますが」


 私が言い終わるより前に、黒い財布が飛んできた。


「これじゃあ、おそらく足りないわ。定期的に食料を持ってきてくれる?」


 もはや、金への執着もないのだろう。札束がたっぷりはいった財布を投げ渡した彼女は、もはや頼むべきことは終わったとばかりに、自身で持ち込んだノートPCに向き合う。その後姿は、鬼気迫っていた。


               ◇


 彼女が万華岩にキャンプを張ってから一週間後、食料を持ってきた私が発見したのは、無人のテントであった。

 彼女がどうなったのかは知らない。なにせここ数日、彼女はテントの中に引きこもって、私が声をかけても一言も発さなかった。食料を食べた痕跡はあったので、まだ平気だとは思っていたのだが。私は、空のランチボックスを回収する。

 私は数日、彼女は一週間、万華岩の下に一人でいた。日付なのか、それとも別の何かがトリガーなのかはわからない。だが彼女は、肉体ごと消えてしまった。もしかしたら、山を降りたのかもしれないし、絶望して山中に身を投じてしまったのかもしれない。言い切れるのは、彼女が今日消えたという事実だ。

 一礼した後、私は無人のテントを開ける。

 テントの中にあったのは、私が用意しておいた寝袋と彼女が持ち込んだ様々なツール。そして寝袋の上にこれみよがしに置いてある、ロックが解除されたスマホであった。ああ、まったくもって、嫌な予感しかしない。かといって、コレを放っておくわけにはいかないだろう。彼女と違い、万華岩に頭を垂れ諦めた私だが、そんな彼女が遺したものを見もせず捨てるほどに腐っているわけではない。

 たしか、指で画面を触って操るのだったか。なんとか知識を思い出しつつ、スマホの画面を見る。そこにあるのは、テキストベースの簡単すぎる文章であった。


“ここは、まんげきょうのなかなんかじゃない”


 ひらがなのたどたどしい文章が画面に写っている。

 彼女が何を言いたいのかわからないが、この円状の草原が範囲、そして万華岩が中心部。人の人生をきらめきとし、飛びに飛び散る万華岩。これが私の認識であり、この万華岩を知りつつ生きてきた人の常識である。彼女は、私たちの認識を崩す何かを見つけたのだろうか。

 ふと、スマホの画面に指で触れると、写真が大写しになる。円の草原に、白い岩の点。緑の中にあるテントに、森の中にある古びた喫茶店。間違いない、この写真は上空からこの場所を撮ったものだ。

 いったい、どうやって。テントの中を見渡した私は、ドローンの存在に気がつく。個人かつ少人数でも空中写真が撮れるドローン、そういえば最初の段階で彼女ら四人はドローンを持ち込もうとしていた。

 スマホには、この万華岩を空中から様々なアングルで撮った写真が入っていた。私は、たどたどしい手付きですべての写真を確認する。


「なるほど」


 ここはまんげきょうのなかなんかじゃない。

 意味を理解した私はテントの外に出る。今日も空は青く、万華岩は雄々しく立っていた。私の手にあるスマホには、万華岩の真のあり方を崩す写真が映っていた。

 私は空を見上げ、何者かに呟く。


「いったい貴方は、何が楽しくて見続けてるんでしょうか?」


 決まっている。それは人の人生がキラキラ形を変える、万華鏡のごとき美しさだ。

 だが、私は、私たちはずっと失念していた。その美しさを、誰が見ているのか。万華鏡を万華鏡たらしめる、観測者の存在を忘れていた。

 円状の草原と中心の万華岩による万華鏡。ドローンが撮影したのは、それより更に上空からの遠景であった。丸い草原を囲む森、そんな森を挟む北と南の山脈。緩やかな弧を描き森を挟み込む山脈。その山脈の形は、まるでまぶたであった。

 山脈のまぶたで挟まれることで、森は球結膜となり、草原は虹彩となり、万華岩は小さな瞳孔となる。万華岩は万華鏡であり、誰かの瞳でもあったのだ。


 だが、これがわかったとして、どうすればいいのか。

 私はスマホの電源らしきスイッチを押す。ロックの掛かったスマホは、もはや開くことができなくなった。私はそっとスマホを万華岩のたもとに置き、テントを畳み始めた。


               ◇


 数日後、私と万華岩の様子を見に喫茶店に来た村長は、私に何事かと聞いてきた。


「せめてものってヤツですよ」


 村長は不思議そうな顔をしたものの、私を咎めることはなかった。咎めようにもワケがわからないからだろう。

 数日前までは名無しの喫茶店。そしてこれからは、新しく作った看板に書かれた店名どおり、喫茶“目ヤニ”である。

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万華の鏡を覗き見る 藤井 三打 @Fujii-sanda

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