宝石の森、その先

春竹 実

第1話

 夏の夜、ぼくはこっそり自分の寮を抜け出した。

同室の彼も、出て行くぼくに気づかなかった。元々寝起きは悪い方なのだ。

息苦しい学校、規則の厳しい寮生活。親からの期待、先生からの重圧。こんな毎日、ぼくはたえられないと思った。

夜の風は生ぬるくて、肌にまとわりつく。鼻で息をいっぱい吸うと、土や葉っぱの匂いが、胸をいっぱいにする。ざわめく木々の音に耳を傾ける。

 これだ、と思った。ぼくが求めていたのは、間違いなくこういう人間味のある自然だった。

寮の庭を抜けて、森に入る。暗くて怖かったけど、ぼくは走った。あの寮に戻るのは、もっと怖かった。

それに、もうすぐなんだ。もうすぐ……。

「あった!」

 昼間、目印にと木につけておいた、ぼくのリボンタイ。

この木を上ったときに見える、遠くのビルや家々を、夜に見てみたかったのだ。それに、この木から森を出る方法も調べてある。

さっそくのぼろうと木に足をかける。

「これ、君のリボンかい」

「わあ!」

 真上から急に声をかけられて驚いたぼくは、かけていた足を踏み外してしまった。

「おっと」

 ぐいっと力強く右腕をつかまれ、木の上のほうまで持ち上げられた。見ると、黒髪の綺麗な少年、ぼくと同い年くらいの、少年が、片腕でぼくの手を掴んでいた。

そのまま、彼の座る太い枝に引き寄せられる。

「大丈夫かい」

「うん……」

 驚いてまともな返事ができない。まさか、こんな時間に、こんな場所で人に会うなんて。

どうしよう、先生に言われる。そうしたら、ぼくはまたあそこへ戻されてしまう。

混乱していると、目の前の少年はにこりと笑った。

「そんな、取って食おうなんて思わないさ。君、どうしたの。こんな時間に、こんなところへ」

「ぼくは……」

 ぼくは、なんと言ったらいいのか分からなかった。

この少年に本当のこと、言ってもいいのか、迷った。

「……うん。ごめんよ、まずはぼくから自己紹介すべきだったね。ぼくはシオン。君は?」

「光」

「こんばんは、光。ぼくのことは、シオンって呼んでおくれ」

シオン。

聞いたことのない名前だった。でも、学校も寮も広い。だから、知らない名前がいてもおかしくはない。

「はい。これ、君のリボンなんだろう」

「あ、うん。ありがとう」

 ぼくはリボンタイを受け取った。少し触れたシオンの手は、ひんやりしているように思えた。

 この時、ぼくは初めてシオンの瞳を見た。黒の上から藤色を塗りたくったような、ふしぎな色をしていた。

ちらとシオンのリボンタイを見ると、ぼくのと同じ赤色で、同じ学年なことが分かった。でも、シオンのリボンタイはぼくのよりくすんでいて、汚れているように見えた。

「綺麗だね」

 シオンがぽつりと言った。その視線はぼくではなく、真っ直ぐを向いていた。

何がだろう、とシオンの視線の先を見る。

「わ……!」

 そこには、宝石箱をひっくり返したようなまばゆい光りがちりばめられていた。

まさにそれは、地上の星空だった。

「ほら、あそこ。一番ピカピカしているあそこ。綺麗だね、光」

「うん、うん。すごく、すごく綺麗だよ」

 ぼくは同意することしかできず、はがゆかった。

この地上の星空の綺麗さを語るには、ぼくには何もたりない。

思わず、隣に座っているシオンの手を握った。この感動が、この手からシオンに伝わればいいと、ぎゅうぎゅう握った。

「おんなじだね」

「え?」

「光の名前と、あそこ。きらきら光ってる」

「あそことおそろいかぁ。嬉しいなぁ」

「そうだね」

 ぼくとシオンは、しばらく黙って宝石箱を眺めた。

握った手はそのままに。

「……ねえ」

 シオンが小さく言う。

「なに? シオン」

 ぼくも、なんとなく静かに返す。

「そろそろ、聞いてもいいかな。君がここへ来たわけを」

 さっと血の気が引いた。目の前がまっくらになりそうだった。

そうだ、ぼくは学校から逃げ出そうとしていたんだ。ここは単なる寄り道なんだ。

「……ぼく、にげるんだ」

「にげる?」

「うん」

 やっとそれだけ言うと、ぼくは泣いてしまった。

 肩が震えて、手先が冷えた。何も悲しくないのに、なぜだか涙が止まらない。

何かに締め付けられているかのような日々。窮屈な制服。見張られているような寮。

すべてがぼくの苦痛だった。苦しくて、つらくて、怖かった。

どうしてみんなと同じじゃなきゃいけないんだろう。どうしてぼくは普通じゃないんだろう。そう毎日思った。

「ぼく、普通じゃないんだ。普通のことを、普通にできない……」

「うん」

「でも、ぼく、がんばったんだよ、ぼくはぼくなりに一生懸命生きてるのに」

「うん」

「あそこ、嫌なの。つらいもん」

「うん……。そうだね。……ああ、かわいそうな光。泣かないで、こっちを向いて」

 気がつくと、ぼくはシオンに肩を抱かれていた。ぼくがこんなに取り乱しているのに木から落ちなかったのは、この腕のおかげだった。

シオンの顔を見ると、シオンは泣きそうな顔をしていた。

「泣かないで、光。大丈夫さ。君は光。なんだって照らせる。君は今、何歳?」

「じゅ、十二歳……」

「うん、大丈夫。あのね、光、普通なんてどこにもないんだよ。みんな、ないものを目指してる。十二歳なんてのはね、まだ子どもさ。だから、何にもなれてない。ぼくは君が大好きだよ。会ってすぐこんなこと言うの、おかしいと思う。でも、ぼくは光が大好き。光が光だから好きなんだ。普通にしないでいいんだよ。みんなと劣っていたとしても、それが何? 生きていけないわけじゃないさ。あそこが息苦しいなら、保健室に行くんだよ。あそこの先生は、すごく優しくていい人だ。つかれたら休憩をしよう。それと、君が一緒にいてつらいと思う人とは、一緒にいないほうがいいよ。大丈夫だよ、光」

「うん」

 シオンの言葉はなんだか難しくて、よく分からなかったけど、何を伝えたいのかはなんとなく分かった。

シオンは必死だった。必死でぼくを何かから遠ざけようとしていた。

「光、本をたくさん読もう。それだけで世界が広がるよ」

「うん、シオン。ぼくもシオンのこと好きだよ。シオンが言うなら、本たくさん読む」

「ありがとう、光。ねえ、光、君のリボン、ぼくにくれないかい」

「いいよ」

 ぼくは自分のリボンタイをシオンに渡した。すると、シオンも自分のタイを解いた。

「交換しよう」

 シオンは言って、ぼくの首元に彼のリボンタイを結んだ。

きゅっと締まったそのリボンは、息苦しくなかった。

ぼくもシオンにならって彼にリボンタイを結ぼうとした。

「人に結ぶのって、なんだか難しいね」

「こうだよ」

 シオンの手がぼくの手にかぶさり、上から優しく導いた。シオンの手はやけに冷たくて、ぼくの熱さが伝わってしまわないか心配になる。

 ちろり、とシオンを見る。伏し目がちになった藤色が、長いまつげから見え隠れしていた。

なんだかどきどきして、ぼくは人のタイの結び方を、ちっとも覚えられなかった。

「どうして交換するの?」

「お守りさ」

 シオンが愛しげにぼくの(彼の)リボンタイを撫でる。

首元が少しくすぐったい。

「お守り……」

「そう、君のことを何もかもから守ってくれるように」

「何もかもから! すごいや」

「うん。ぼくがお呪いをかけるよ」

 シオンは言って、ぼくのリボンタイにキスをした。

キスの時間は何時間にも感じられたし、一瞬にも感じられた。

彼のくちびるが、ぼくの心臓から離れたとき、強い風が吹いた。

彼の夜に溶け込みそうな真っ黒い髪が、胸元のリボンタイが、はたはたと頼りなげに揺れる。

 夜の空を藤色でぬらしたような瞳がぼくの目を見たとき、ぼくはなんだかたまらない気持ちになった。

 彼の存在が危うく思えて、体が震えた。ぞわぞわしたものが体を駆け巡った。

「ぼくも、おまじないするよ」

「え?」

 戸惑うシオンをよそに、ぼくはリボンタイにキスをした。

シオンが幸せなように、シオンが泣かないように、シオンが消えないように。

シオンの心臓の音が聞こえるかと思ったけど、何も聞こえなかった。

「……さあ、君はもう帰らないと、光」

「ぼく、帰りたくない」

「あのね、光。ぼくは知っているんだ。君のように都会を夢みてこの要塞を抜け出し、足を滑らせあっけなく死んでしまった子どもをね。ねえ、光、お願いだよ。急がないで。ここを卒業したら、君はいくらでもあそこへいける」

 そんな事故があったなんて知らなかった。いつ、そんなことがあったのだろう。

先生たちは、みんなが混乱しないよう黙っていたのだろうか。

「でも……」

「大丈夫だよ。お守りがあるだろう、光。大丈夫さ」

「シオン、また会えるよね」

「うん、会えるよ。いつだって、君が望むなら」

「シオンは? シオンは望んでくれないの」

「ぼくが望まなくても、君は会いに来てくれると信じているよ。お呪い、してくれただろう」

「うん、会いに行くよ。絶対」

 ぼくたちは、木の上で約束をした。

絶対なんて重い言葉は、すきじゃなかったけれど、シオンにならいくらでも使っていいと思えた。

「おやすみ、光」

「おやすみ、シオン」

 ぼくはシオンの手を借りてゆっくりと木から降りた。

シオンは、帰らないの? と聞くと、ぼくはまだ少し残るよ、と宝石箱のほうを見て言った。

 木から寮へは、不思議と簡単に戻れた。

あんなに走って、随分遠くの木へ行ったと思っていたのに、そうでもなかったようだ。

部屋に帰ると、同室者はまだ眠っていて、時計を見るとぼくが部屋を出た時間からまだ一時間も経っていなかった。

 ぼくは、シオンからもらったリボンタイを握り締め、ゆっくりと眠りについた。


 翌日からの数日、ぼくはシオンの言っていた事故が気になって図書室で調べていた。

 幸い、昔の新聞も保管してある図書室だったので、探すことはできた。けれど、見つけるのにだいぶ時間が掛かってしまった。

 新聞によると、この学園で約十五年前に「高瀬紫苑」という生徒がシオンの言ったとおり、深夜寮を抜け出し街へ向かう途中の森で足を滑らせ転落し死んでいた。

 小さな、目立たない記事だった。

紫苑……しえん、と読むのだろうか。変わった名前だなあ。

 それにしても、どうしてシオンは十五年も前の事故の話を知っていたんだろう。

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宝石の森、その先 春竹 実 @harutake_dake

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