第75話 ねんねこの子の息甘し一つ星


 

 

 

 

 視る、聴く、味わう、触れるの四つ感覚よりもだんぜん勝っていて、


 ――人の記憶を一瞬で引き出せるのは、匂いの感覚ではないかしら。


 ある匂いを嗅いだ瞬間、何十年も前の情景がつい昨日のことのようにあざやかによみがえり、突き上げるような喜び、どん底に突き落とされた悲しみ、それにともなう笑いや痛み、滂沱の涙などがありありと再現され、一気に過去へもどる……。

 

 

                ✬

 

 

 ケイコがもっとも大切にしている記憶は、背中の赤子の甘やかな息の匂いです。


 乳も離乳食もたっぷりだった上の子は、おんぶ紐が肩に食いこみましたが、食の細かった下の子はあまりにも頼りない軽さで、ケイコの背中を不安にさせました。


 でも、どちらも最愛の娘で、ただひたすら可愛くて可愛くて可愛いくて……。

 

 

                🚼

 

 

 やがて、独り立ちした子どもたちに否応なく背負わせることになる、社会状況も含めての未来のことなど考えてやる余裕もない、未熟な母親だったことを、いまのケイコは遅ればせに悔い、身勝手な親の無知と不作法を心から詫びているのです。

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