第56話 手縫ひして久女たのしき菊枕
菊の香に包まれて目覚めたと思ったら……ウォーマーのハーブの香りでした。
長編歴史小説の執筆期間中、ケイコにはときどきそういうことが起こります。
――憑依。
というほどではなくても、ひとりの人物の生涯を追求していく過程で、いつしかその人物になりきり、事象も感情もそっくり追体験することになるのでしょう。
🌸
大蔵省書記官・赤堀廉蔵(長野県松本市出身)と妻さよの三女として、父の赴任先の鹿児島市で誕生。杉田宇内と結婚。26歳で次兄・赤堀月蟾から俳句の手ほどきを受け、高浜虚子主宰の『ホトトギス』に入会。作句と評論に天才的な才覚をあらわし、女流(当時の表現)俳人のトップランナーと目される。だが、愛娘・星野立子の影が薄れることを恐れた虚子に疎まれ、問答無用の同人除名につづく徹底的な黙殺により情緒不安定に陥り、1946年1月21日、入院先の筑紫保養院(現福岡県立精神医療センター)で、家族のだれにも看取られずに没する。享年56。
杉田久女の生涯を概括すれば、たったこれだけにまとまりはしますが、その間に久女が味わった苦しみや、ほんのわずかな喜びは12万字でも足りないくらいで。
確証のある史実をもとに自分だけの久女を描いてみようと思い決めたケイコは、客観的な作家の目の保持に努めつつ、いつしか久女自身になりきっていたのです。
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同門の水原秋櫻子や日野草城ら後輩が『ホトトギス』離脱の準備を進めるなか、一途で一所懸命な信州人気質の久女は、自分の師は虚子ひとりと思い決めていた。
ある年の秋、軍都・工業都市の小倉の煤煙の下でも馥郁と咲く菊の花を百、千と摘み集め、家中に敷いた新聞紙の上にひろげて乾燥させ、老いた師を思い、ひと針ひと針心を込めた白絹で菊枕を作り上げ、師の初夢に間に合うように贈った……。
その天才的な資質こそが排斥のもとである事実も、ましてや自分の没後、芥川賞受賞後の材に焦り、うわさ好きな一部俳人からの裏取りしか行わなかった松本清張さんや『ホトトギス』と親しい吉屋信子さんの小説、同じく秋元松代さんの戯曲に極端に歪曲して描写され、狂女のイメージが固定化してしまうことも知らずに。
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こうして反復してみるだけで、老獪な師から弟子への酷い仕打ち、恣意的な悪意への憎悪に震えてきますが、本年3月からカクヨムで連載してきた『杉田久女――紫陽花に秋冷いたる信濃かな』が完結したので、その報告がてら「墓に詣り度いと思つてをる」(久女の没後、絶対的権力者として弟子に成してきた仕打ちを正当化するために虚子が発表した、作為と欺瞞だらけのサイテイな一文)ケイコです。
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