第52話 夕映えの鐘の鳴る丘銀杏散る
日暮れの早い西山の山麓には、深い晩秋の気配が立ちこめています。
施設の正門を通り過ぎ、勾配の急な坂道の途中で車を停めたジョージは、慎重にサイドブレーキをたしかめ、雑木落葉が降り積むアスファルトに降り立ちました。
凹凸ひとつなくきれいに整備された所庭の前に「来館者用駐車場」の青い標識を見かけましたが、そこに自分の車を入れる気にはどうしてもなれなかったのです。
🚙
秋の日が沈みかけた連山を背景に整然と配置された白い建物が、戦争で行き場を失った少年少女たちを収容する施設だったとは、知る人も少ないかもしれません。
けれど、いまから70余年前の数年間を、ジョージはたしかにこの場所(当時の建物は近くに移築されているので場所としか言えません)に暮らしていたのです。
施設の職員を「父さん母さん」と呼んでいたが、夜は布団を被って泣いたこと。
仲間にはたまに面会者があったのに、戦災孤児の自分には一度もなかったこと。
乏しい食糧をやりくりして遠足に連れて行ってもらったとき、ある少年が湖上の雲に向かって「父ちゃ~ん、母ちゃ~ん」と呼びかけ、全員が大泣きしたこと。
規則がきつい寮から逃げ出そうとしては、そのつど駅でつかまったこと……。
辛い思い出ばかりが一挙によみがえり、いくつかの病気を患ってから足許が覚束なくなっているジョージは、うず高く積った落葉に滑って転びそうになりました。
🍃
怯みがちな気持ちを励まして門まで行ってみましたが、所庭には人影ひとつ見当たりませんし、受付と思われる事務棟へのアプローチはひどく長くて、元収容児のジョージには、おまえはそれ以上入ってはいけないと拒まれているようで……。
スマホのカメラを正門に向けたジョージは、昔とは異なる施設名の門柱と黄金に輝く銀杏、それに広大な施設全体が入るようなアングルに設定し、素早く何枚かを連写しましたが、流行りの自撮りで自分を入れようとは思いもしませんでした。
正門に向かって深々と一礼すると、静かに踵を返して車にもどるジョージの目が、度の進んだ老眼鏡の下で赤く濡れていたことを、林の猿たちも知りません。
東京へ帰ると、ジョージは入院して手術を受けることになっているのです。
施設を出てから人には言えないような辛酸を舐め尽くし、下町に小さな町工場を起こして同じ境遇の妻との間にできた3人の子女を育てましたが、戦災孤児として施設に収容されていた時代の話は、子どもたちにはひと言も伝えてありません。
🌠
東京への帰路、「鉄格子のない施設」と言われた鐘の鳴る丘から始まった一生を振り返るジョージの乾いたくちびるから、懐かしくて切ない歌が飛び出しました。
――『鐘の鳴る丘』(作詞:菊田一夫 作曲:古関裕而)
高速道路の車中をさいわい、思いきり号泣しながら最後まで歌い終えたジョージは、少し心が軽くなったことを感じていました。
父ちゃん母ちゃん、ありがとう。
鐘の鳴る丘の先生や仲間たち、ありがとう。
妻や子ども、仕事の仲間、おいらの人生に関わってくれたみんな、ありがとう。
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