文学賞ではありませんが、選考委員の一人として同様な会議に出席していたことがあります。漁夫の利理論(僕が名付けました)による受賞者決定がよくありました。
抜群に出来の好い作品が1本しかない時は、すんなりと決まります。しかし、そうでない場合は喧々諤々の議論となります。声の大きい鶴の一声で決まればいいのですが、委員のほとんどが大きな鳴き声の鶴のときは修羅場となるは必定。候補者が二人か三人に絞られた時点で、間合をみて(ウンザリしている委員=僕)が「私は先生方のような専門家ではないのですが(第一謙遜は然程強くなく)一視聴者として、この作品が結構"好き"なんですけど(”優秀”などと言ってはいけない)如何でしょう。あっすみません僕のようなド素人が口を挟んで(第二謙遜は強く)」と、候補から外れてしまったナンバー3かナンバー4の作品を持ち出すのです。鶴の皆さんは「お前みたいな素人が口を出すな」とも言えず、大概、それに決まります。最終候補十本くらいは何れも遜色ない作品なので、僕が罪悪感を感じたことは一度もありません。
昨今の文学賞の受賞者を調べてみると、選考委員が講師をしている文芸教室の生徒だったり、委員の出身大学の文芸サークルの後輩だったり(W大学が多いですね)と、あまり芳しくない事情が散見されます。僕も(文芸のコンペではありませんが)自分の教え子を強く推したことが一度ならずあります。でも、不出来な作品は何れ淘汰され本当に優れた作品はやがて世に出るでしょうから、のんびりと傍観することといたします。
上月文学は魂といのちを描いて秀逸です。是非世に出て欲しいです。僕に力と時間があったらなぁ。
作者からの返信
Mondyon Nohant 紋屋ノアン先生
思わずパソコンに前のめりになるような応援コメント、本当にありがとうございます。
その場の雰囲気が目に見えるような描写、すばらしいです!( ^)o(^ )
たぶん映像芸術部門でのご選考かとご拝察いたしますが、なにが正しいという答えがないので、結局、最後は好きかどうかですよね~。
やたらにアッパーな世界を推す女性、逆にマイノリティの要素さえあればどんな作品でもいい男性、さりげなく自著を褒めている作品を臆面もなく推す委員長……思い出すだけでゾッとします。
司馬遼太郎さんのエッセイ集にときどき直木賞の選考評が出て来ますが、のちに押しも押されもせぬ大家になった作家も「小説としての、なにかがない」と言われていました。(笑)
地方の集落の会議でも、同じ様です。
集まりから帰った夫の愚痴を聞きつつ。
作者からの返信
あの審査会の雰囲気は本当にいやでした。
事務局(退職校長)も見て見ぬフリで。💦