第36話 棚占むるレコード盤の愁思かな



 

 

 

 自分たちの店をもつ。

 それはマサルとチカコの長年の夢でした。

 

 ――定年退職したらジャズ喫茶を開き、音楽と珈琲に囲まれて暮らそう。

 

 そう思えばこそ、大組織の使い棄ての駒として働くことも、新宿の雑踏のような不特定多数に身をさらさねばならないコンビニの仕事も苦にならなかったのです。


 

 

                 ☕


 

 

 でも、ときとして運命は皮肉なもの。

 ようやく念願が叶い、はるかむかし学者村として売り出された郊外の別荘地帯に山小屋風の喫茶店をオープンさせて2年後、マサルの体調に異変が起きました。


 それからは店を切り盛りしながら通院治療の日々となり、負担が増えたチカコの身体にも無理が生じ始めて、もう限界かな、せっかく開けた店だけど閉めようかなと思い始めたとき、常連の、たぶんあまり売れていない(汗)作家が言いました。

 

 ――完璧でなくてもいいんじゃないの?

 

 さすが人情の機微を知り尽くした作家さん。

 その一言で、ぱんぱんに張り詰めていた夫婦の気持ちがふと楽になったのです。

 


 

                📖

 


 

 文学好きの少なくなった時代に、ペン一本で食べて行くのはさぞかし大変だろうと思われる中年の純文学作家は、バブル真っ盛りのころ全国各地に開発されたその名も「学者村」の、古びた山荘での執筆に行き詰ると、夫妻のジャズ喫茶を訪れ、丁寧に煎れた珈琲を味わいながら、持参した本を読んだり、ただぼんやりしたり、店主夫妻と他愛もないおしゃべりをする時間が唯一の楽しみだというのです。

 

 ――そこに並んでいるレコードジャケットを眺めていると、なんとも幸せな満ち足りた気分になるんだよなあ。いまさらだけど、アナログの力ってすごいよなあ。

 

 そう言って作家は、カウンターの背後に天井まで届くレコード棚を眺めました。

 貧乏学生の時代からこつこつ蒐集して来た、何千枚にものぼる大切なレコード。

 その価値をわかってもらえた喜びが、萎れていた店主夫妻を立ち直らせました。

 

 ――これからはランチを挟んで5時間だけの営業にさせてもらいます。


 


                 🍃




 こうして。

 どこかの森の奥の小さな喫茶店は、いまもひっそりと温かな灯を点しています。

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