第23話 秋蝶や湖水に底のなきごとし



 

 

 避暑客が去った野尻湖は、し~んと音が聞こえるほど静まりかえっています。

 澄みきった湖上を舞いながら、蝶はある短編小説の一節を思い出していました。



 濡れた雑草を背負わされ、霧の山道をトボトボ曳かれて行く母馬と、あとに先にまとわりつき、ぴょんこぴょんこ、楽しそうに跳ねながら付いて行く可憐な仔馬。

 ねえ、母さん、遊んでよ。

 重荷に喘ぐ母馬が戯れに応じてくれないと知った仔馬は、いとけない口で母馬の背から数本の草を抜き取ると、横にくわえたまま、ぴょんこぴょんこ付いて行く。

 仔馬の口からはみ出た秋の草には、薄紫色の小花も混じって……。



 たったそれだけの情景ですが、文学好きな蝶の触覚に鮮明に刻まれています。

 

 ――そうそう、たしか堀辰雄さんの『晩夏』だったわ。

 

 夢中になったあまり、湖面すれすれに飛びながら、蝶は膝を打つ思いでした。

 もちろん、蝶に膝があったなら……のお話ですが。(^_-)-☆

 

 

                 🐎

 

 

 この山奥の湖には昔から数多の文人墨客が訪れ、中勘助さんの名作『銀の匙』をはじめとする美しい文学作品が生み出されたことを代々の蝶は伝え聞いています。


 それに。

 何代か時代を遡る蝶は軽井沢に飛び、『晩夏』に登場する多恵夫人にお会いしたことがあるそうで、ピアノと暖炉のある洋間で揺り椅子に座られた初老の夫人の、薄紫のショールと同色の髪がいかに上品だったか、いまも語り草になっています。

 

 

                 💺

 

 

 そろそろ世変わりの身支度をしなければ。

 代々の物語を、次の世代に伝えなければ。


 蝶は最後の飛翔をするために、静かな湖面を優雅に舞い始めました。

 真っ青な湖水はどこまでも透き通り、地球の裏側まで届きそうです。

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