第19話 叱られて腹出す犬やゐのこづち



 


 

 あ~あ、おまえ、こんなにいっぱい付けてきちゃって。だから、藪の中に入っちゃだめだと言っただろう。どうすんだ、こんなにイガイガだらけで。兄ちゃん、痛くて取ってやれないぞ。母さんにもこっぴどく叱られるからな。覚悟しとけよ。


 散歩から帰って来たカイタが庭で騒いでいる。

 その前で、ごろんと腹を見せて萎れているのは、弟のように育った犬のサンタ。

 だれもいない原っぱでリードを放してもらったはいいが、うれし過ぎ、はしゃぎ過ぎて、猛烈な勢いで駆けまわり、身体中に草の実を付けて帰って来たのだろう。


 この季節の恒例行事なので、窓から覗いてみなくても手に取るようにわかる。

 楽しそうな兄弟の声を聞きながら、ハナコはメールの返信を打ち出した。

 

 

                🍁

 

 

 志望校に進んだカイタの顔色がすぐれなくなったのは、高校2年の春だった。

 食欲もなくなって痩せ細り、口数が極端に少なくなったので心配していると、

 

 ――母さん、おれ、学校に行かなくてもいいかな?

 

 ある朝、重大な罪を告白するように、ついに打ち明けた。

 

 ――いいよ。学校だけが学びの場じゃないんだし。

 

 息子には話していなかったが、書店で不登校関連の本を買い集め、この地域にもいくつかのフリースクールがあること、たとえ高校を卒業しなくても、大検というシステムによって大学を受験できることなどの前知識をたっぷり仕入れてあった。

 

 ――なんだよう、いやにあっさりしてんな。

 

 カイタはがくっと肩の力を抜いてみせながら、赤く潤んだ目で唇をふるわせた。

 

 

 だが、このまま放っておいてなるものか!!!!!!!!!!!!!!!!!



 教師の目の届かないところで、小利口で小狡く薄汚い生徒集団によって、いかにジメツイタいじめが行われているか、学校側に知らせ、回答をもらう必要がある。


 あくる日、ハナコは予告もせずに担任教師の数学研究室に乗り込んで行った。

 

 ――いやいや、わたしのクラスに限って、絶対にいじめなんてありません。お母さんの思い過ごしでは? それとも、失礼ですが、ご家庭に問題があるのでは?

 

 大学出たての若造教師は、立ち上がりもせず、長い脚を組んだまま言い放った。


 おお、そうともさ、たしかにうちは訳あってのシングルマザー家庭だよ。

 けどね、大事なひとり息子への愛情は父親の分まで、いや、並みの一般家庭より深く注いでいるつもりだし、息子もそのことを十分に承知していてくれるはずさ。何も知らないくせに、ひとの家庭に口を出すなんて、いくら教師でも許せない!


 かっと頭が熱くなったが、息子の将来への影響を思い、黙って引き下がった。

 

 

                🏫

 

 


 奇跡が起きた。


 ふしぎなことに、翌日からカイタは自力で立ち上がった。

 ジメツイタいじめがやんだわけでも、教師が手を打ってくれたわけでもない。


 とつぜん本人が強くなったのだ。


 高校という狭い世界の圏外に生きる人のように飄々と通学するカイタには、一種の風格めいた貫禄が生まれ、薄汚い連中も、何となく手が出せなくなったらしい。

 やがて気の合う仲間もでき、最近はもっぱら図書館で受験勉強に励んでいる。

 

 

                📖

 

 

 同級生の母親のひとりからメールがあったのは、日曜日の午前中だった。

 

 ――カイタくんのその後が心配なので、近くランチをご一緒しませんか?

 

 はあぁ? と思ったが、無碍にはことわれない。

 厄介なことに、この手の母親がほかにもいる。 


 ――ほら、カイタくんってジャニーズ系のイケメンじゃない? そのうえ成績は抜群だし、礼儀正しいし、クラスの人気者だったのに、どこでどう間違えたのか、とつぜんあんなことになっちゃって、わたしたち、本当にびっくりしているの。


 あんなこと? まさか若造教師が漏らしたのか? もうどうでもいいけど。

 高校時代の3年間なんて、長い人生から見れば、ほんの一瞬間に過ぎない。

 そのことをよく理解しているカイタの目は獣医師資格の取得に向いている。

 

 

               ✢

 

 

 ――ありがとうございます。でも、ご心配なく。息子は大人になりましたので。

 

 メールの返信は当たり障りなく、でも、最低限の皮肉は込めさせてもらった。


 ――これってどういう意味? いやみなんじゃない? 母親がこれだから息子もねえ。だいいち、いまどき個人情報を盾にラインにも参加しないなんて、ねえ。


 ひとしきりうわさが飛び交うだろうが、せいぜいいまのうちにピーチクパーチク囀らせておくさ。あと1年余りで、耳障りのわるい声を聞かずに済むようになる。

 カイタが動物病院を開業しても、あんたたちのペットは診てあげないからね。


 仲良し兄弟がツーショットで笑う待受画面を、ハナコはやさしく抱きしめた。

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