第5話 わたくしが至りませんで万太郎忌


 

 

 

 定年を数年後に控えたヒロシの仕事は、老舗デパートのお客さま係です。


 といってもクレーム対応一辺倒の業務で、部下はパートの女性ひとりのみ。

 一応、課長の肩書はありますが、あくまで外向きというか名刺用に過ぎず、


 ――おまえじゃ話にならん、責任者を出せ、責任者を!


 すぐ怒鳴りたがるお客さま用ですから、だれも敬意など払ってくれません。

 ありがとうと言われたことは一度もなく、朝から晩まであやまっていると、


 ――まことに申し訳ございません。


 寝言でもリアルにあやまっているというので、古女房に呆れられています。


 

 なかでも今日は最低の日でした。

 社内のブラックリストのトップに載っている富豪夫人が、一着数十万円の高級スーツを返品してきたのです、それも本人ではなく、親戚と名乗る中年女性が。


 ――あのぅ、叔母がここにシミがついていると申しまして……。


 全身グレーで縁なし眼鏡、地味な装いの中年女性は、視線を斜め下に向けたままで言うと、応接机に置いた店名入りの紙袋をヒロシのほうへ押して寄こしました。


 たしかに、白いレースをあしらった袖口に、ぽっちりと青い点がついています。


 ――買うときに気づけばよかったのですが、こちらの店員さんもなにもおっしゃらないので、うっかり見過ごしてしまったと、叔母がそう申しておりまして……。

 

 なに、わかっているのです、最初からそのつもりだったことは。

 痩せぎすな中年女性に面談するのも、これで何度目でしょうか。


 ――同級会に着て行く予定だったのに、おかげで出席できなかったじゃないの。


 叔母なる人の言葉を忠実に伝えながら、一刻も早くこの場から去りたいモードを全開にした中年女性は、早くも革張りのソファから腰を浮かせかけています。


 ヒロシはこれ以上はないほど平静に答えました。


 ――まことに申し訳ございません。当方で引き取らせていただきます。


 上目づかいに感謝と安堵を広げた中年女性は、深々と一礼して立ち去りました。

 

 返品された商品を確認してみますと、青いシミはインクらしきもので、そういうことには細心の注意を払っている高級服売り場にはあり得ないはずのものでした。


 それに……。 

 これは玄人の勘ですが、スーツには袖を通して外出した痕跡がのこっています。


 たぶん嫁と思われる中年女性も、そのことを重々承知でいながら、いつもいやな役目を押しつけられ、砂袋を引きずるようにして重い足を運んで来るのでしょう。

 

 確信犯の母親をサポートしているのは、このまちの青年会議所の会長をつとめるホテルチェーンのオーナーで、手を変え品を変え、いちゃもんをつけて返品された使用済み商品の代金はかならず補てんされるよう暗黙の了解が取り交わされているので、資産家の息子も、モンスターの母親も、デパートも、だれも傷つきません。


 でも、ヒロシと気の毒な嫁さんの胸には、泥のような澱が沈殿していくのです。

 


           ☆彡


 

 小説家で劇作家でもあった久保田万太郎さんは、


 ――俳句は余技。


 として、生涯、魑魅魍魎が跋扈する俳壇とは一定の距離を置いていたそうです。

 ですが、大御所と呼ばれた(呼ばせた)高浜虚子など足もとにも及ばない極上の句を詠み、いまなおたくさんのファンがその恬淡とした句風を慕っているのです。

 

  神田川祭の中をながれけり

  叱られて目をつぶる猫春隣

  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

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