第27話 変化
九番案件の発生から二週間足らず。
一時的に意識を失っていた四人が回復し、日常業務へ戻ったところで
「どうぞ」
社務所の奥へ通された三人は菊七咲の社司と現地に直接出向いた四人、加えて
聴き取りの質問をしたのはほとんど著だった。
彼らは事前調査の話、手順計画、処理前準備に狭間へ入る際の日常的な安全対策などを、記憶をたどるようにして説明してくれた。
担当者は男性三人と女性一人。当時、案件の担当責任者だった男性は五十代で
事前調査には年上の二人が向かい、その時点では確かに
話を聞くにおいて、彼らの事前調査にも計画にも何ら不備はない。そもそもが狭間内の三番案件とは言え、現場は比較的安定しており院が通常の流れで案件登録しているのだ。あとは支部から自動的に菊七咲に振り分けられただけである。
他の案件との調整で一日ほど空けて二日目。
社から離れたまるきり人気の無い場所で、彼らは
直感で危険を感じたと彼らは言った。
意識体なのか思念体なのか。何のどんな
あとに続いた三人などは経験の無い負の気配を感じて暗闇を見ただけ。何が起こったのかはわからなかったと言っている。
主祀霊の遠寿もぞっとするほど強い蠱魅の気配を感じたと言った。自社の四人と特務の四人が戻ってくる直前。狭間口を開いている菊七咲の領域にもうあと少しのところまで、蠱魅の気配が迫ってきていた。まるで彼らのあとを追いかけてきているようにさえ思えたと、彼の精霊は言った。
実際に彼らが戻る少し前に遠寿が先鎮めをしろ、浄化陣と強力な結界を張れと陰人達に促した。そこで遠寿自身も元の結界を補強するように、開いたままの狭間口周辺に強い結界を巡らせたのだ。その上で更なる浄化の術をその場にいる他の精霊、陰人達がそれぞれ展開した。戻ってきた彼らについてきた残滓。それだけでも恐怖を感じるほど濃い蠱魅の気配が漂っていたとは、菊七咲の社司の言葉だ。
案件責任者の彼は自分達が助かったのは奇跡で、特務の職員に酷い負傷を負わせてしまったことを本当に申し訳なく思う、と目を伏せた。
特務二班の責任者には著が話を聞くために何度か会っていたが、一番状態の酷かった彼はつい二日前に意識を取り戻したばかりだ。完全な回復までにはやはり時間がかかるだろう。
「狭間自体の状態はどうでしたか。何か気づいたり感じたりすることがありましたか」
そこまで黙って聞いていた京一が最後に尋ねた。
四人は互いの顔を見る。
「……わかりません」
先頭で狭間に入った彼が代表するように首を横に振った。一瞬で意識を失ったのだから無理もない。だがそこで一拍おいて別の声が上がった。
「あ……」
全員の視線が二十代の彼に集まった。
何か思いついたらしい。彼は京一に顔を向けると確証も持てない、それが狭間自体のものかどうかもわからない、と言いつつも続けた。
「すっという何かが擦れるような、……空気が抜けるような音が聞こえました」
それは耳元ではなく少し自分達よりは離れた場所だと思う、と彼は言った。そしてそこで彼自身の記憶も途切れたのだ。
菊七咲の四人が見つかったのはもともとの〈そ・て八九〉ではなく、まったく別の狭間である〈ろ・ふ三〉。意識を失った彼らをそこで院の特務が発見して救助したのだが、〈ろ・ふ三〉もまた〈そ・て八九〉の影響があったのか、全員が狭間を脱出したあとに消滅した。〈そ・て八九〉の内側から発現した狭間に吸収された可能性があるので、その確認も含めて今回の調査だ。
「やっぱり裏か」
うん、と著が頷く。それについては救助に向かった特務の彼らも言っていた。
狭間は連続して繋がっていないことが多く、表面的な並びとも無関係であったりする。また並存する通常空間の並びとも必ずしも同じではない。
そして紛らわしいことに、見た目の接点がなく繋がってもいないのだが、実際の並び的には隣接する配置にあたる狭間もある。そういった狭間のことを裏の狭間と陰人はいうことがあった。この裏の狭間とは単独で存在することが多い。そしてそのほとんどが気づかれていないこともよくある。しかし今回の場合は単独だが発見されている狭間であって、院でも常時監視が行われている狭間の一つだった。四人が倒れていた〈ろ・ふ三〉は〈そ・て八九〉の繋がりの無い裏の狭間だったのだろう。
「何かが擦れるような、空気が抜けるような音……か」
著が呟いた。
「内側からわいた狭間に押し出された可能性もあるな」
両手を組み顎に手を当てた礼成も考え込むように言う。
大量の蠱魅がいたというのなら、その勢いで起こった衝撃や圧力などで四人が押し出された可能性もある。どちらにしても狭間と狭間の間に落ちなかったのは幸いだったと言えるだろう。
「〈そ・て八九〉と内側に生じた狭間が繋がっていた可能性は?」
京一が確認するように著を見た。
彼は首を横に振る。
「九番案件の発生時点では、確認されていなかった」
ただし針穴やそれ以下のようなあまりにも見えない出入口であれば、黙視はもとより院の器機での監視もすり抜けることはあり得る。
「今、院で記録を調べているところだよ」
この結果の差は大きい。二つの狭間が繋がっていたのなら、狭間の内側から別の狭間がわいたように見えただけ。今回の場合にそれが当てはまるのなら、内容に問題はあるものの現象としては珍しくはない。だがもし。
互いに繋がりの無い狭間であったとするなら。
(前例は無い)
京一は心の内で呟く。
狭間の中ではどんなことが起こるかわからない。それは事実だ。
狭間は重なることはある。大きい狭間が小さい狭間を呑み込むこともある。しかし狭間の内側に狭間が発生した話は今までの記録上にも無い。
今回は消滅したその〈ろ・ふ三〉の狭間に近い別の狭間から、間接的にその場所の調査を行うことになる。
その彼女と審から呂花は今、星社の扱う儀式、あるいは祭祀についての話を聞かされているところだった。
式方はその責任者である
ただし彼女が身に着けている社着は、万夜花独自のものだと言う話だった。光沢のある白色にあざやかではあるが抑えた紅色と桃色の柄、そして留め具の飾り紐など細部の部分的な装飾がほどよくあしらわれている。基本的に社人の正式な社着は真っ白で何の装飾もない。装飾が施されていたり色がついている社着は、各星社の専用の社着であるらしい。それぞれの星社で一つはたいていあるようで、社によっては数種類用意しているところもあるのだと言う。それなら社司の着ている薄青色の社着もその一つなのだろう。
社の縁起などに関わる儀式や祭祀の折りには、そういう色柄や装飾のついている各星社特有の社着を身につけることが多いらしかった。多分照の社着は主祀霊の
この式方では社内外の儀式と祭祀を取り扱っていた。基本的には所属する三人が内容の組み立てを行い、社司の
「一般的に行われている儀式や祭祀っていうのは、実は一つ間違えれば大変な事になる」
審の言葉に軽く驚いて、呂花は彼女を見た。
「一般社の大多数と、民間社で執り行われるものは簡略化されているものがほとんどで、大掛かりな儀式や祭祀は行えないようになっているんだ」
呂花の表情を見てまだ理解に達していないと思ったのだろう。呂花と向き合うように座っている審の左側に控えていた照が言い添えた。
「星社で扱う儀式、祭祀は目的に応じて気の流れを変えるために、力を組み入れるものがある。これを
「この万夜花はすべて本式を扱う」
話の流れ的に審の括りの言葉は呂花をひやりとさせた。それに。
さらりと言った照の言葉の一つが、呂花の耳に残る。
(……)
鎮めとは何なのだろう。
呂花に理解できる日など永遠に来ない気がした。
著、礼成と別れた京一はとある場所に立っていた。人通りの多い街中の一角。場所は薄暗く、不穏な空気が漂っている。
まだめつけも立っていないので、院や近辺にある社の陰人達も気づいていないのだろう。午前中に調査に入った〈ろ・ふ三〉の狭間付近とは比べるまでもなく穏やかな現場ではある。それでも日常的に遭遇する案件とは違う奇妙な違和感を京一は感じていた。
京一の目の前には一体の蠱魅の姿があったが、それはここへ来るまでに京一が想定していた姿では無かった。
先日、万夜花に飛び込んできた夫婦の妻は言った。夫の様子に異変を感じたのは臨月を迎えた頃だったと。彼は悪い人ではなく、決してひどい人間ではない。本来は優しい人間なのだと。ただもともと人より強い劣等感を持っていて、他人の言うことに左右されやすく思い込みが激しい一面があるとも言った。そのせいか、時々行き過ぎて自分勝手な被害妄想を始めることがあるのだと。他人と自分の差や、あるいは妻を含めた彼自身の環境に不満を述べることもよくあったようだ。もちろん他人やそれらの人々とは本人はもとより、妻自身も環境においてもすべてが違う。本来は比べようがないのだが。そうかと思えば、あの知り合いが勝手な都合で自分に不利益を与えたなどと言い出すこともある。妻からすれば知り合いの行動はごく普通の一般的な行動に見えるし、夫が不利益を被っているようには見えず、逆に言いがかりを言っているようにしか思えない。そんな調子で我慢できなくなった自分と喧嘩になることもしばしばあると彼女は言った。
ただ夫のことだから子供ができれば今度は周りに自慢したりするのだろうが、少しは劣等感や変な被害妄想から離れてくれるだろうとの淡い期待を抱いた。思った通り夫は知人友人達に子供の誕生を自慢するようになった。だがどこで何を見たのか聞いたのか。その子は可能性の塊だ、自分とは違って未来は明るいなどと言い出した。その
自分よりはるかに若く可能性のある子供は、自分よりも良い環境で良い人生を送れるに決まっている。
そう言った夫の声音と表情は決して我が子の誕生を喜び、その幸せを信じるものでは無かったのだ。
妻は子供が生まれたあとのことを考えて急に恐ろしくなった。自分の両親にそれとなく話してみたけれど、自分の恐怖は伝わらなかったのだと妻は言った。しかもその頃から夫はどこへ行くのか、出掛ける回数が増えたらしい。とにかく恐怖を感じた妻は出産を終えたあと。退院して子供の
こうなりたい、これをしたい、あれが欲しい。
誰にでもある、ささやかな目標から小さな望みやほんの少しの欲。
あんな風になりたい。自分もこれをしたい、あれが欲しい。
自分の目の前をよぎる数々の憧れ。
そしてその先に、誰もが一度や二度とは言わずに心に抱く、うらやましい。
それを人は、
存在達のとても淡い願いやささやかな欲が、その欠片が同じ場所に幾重にも積み重なって生じた蠱魅───
決して強い蠱魅ではない。
だが京一は目の前の姿を見て社に飛び込んできた彼の状態、その妻の話に合点がいった。
染恈の姿は綿か羊毛かをまとめたような、モコモコとした球体である。そのくすんだ白い球体の中央辺りだけが黒い。その黒い部分に目と口だけがついていて、やっと顔に見える。だが様々な色が集まって丸く形を成したその目は実に不気味だ。社に走り込んできた時、彼の目に付いていた薄膜と同じである。そして口元からはだらだらとした
おそらくそれが偶然近くを通りがかった彼に付着した。そして本人も気づかない奥底の潜在的な思考を引き出されてしまった。
出かける回数が増えたという話だったが、妻が子供を社に預けに行く前に彼が出かけた場所。
それは今、京一が立っているこの場所だ。
彼は完全に憑かれる一歩手前だったのだが、それを裏づけるような京一の目の前にある姿。
染恈の次段階の
一見すると染恈よりも頼りない姿である。細い草のような茎の先端部分には穂状のものがついている。草原などに紛れ込めば、それらの中の一つにしか見えない。もちろん陰人には一目瞭然であるが。弱々しい草が暗い光を鈍く放って倍の大きさに伸び上がった。同時に前触れもなくいきなりその場に突風が吹き荒れる。
草は左右前後に大きくしなる。風に当たった穂から黒い粒が飛んだ。しかしその速度は速い。
トトトトッ!
軽い衝撃と、小石か何かが板にでも当たったような音がした。
京一の正面に大人の親指くらいの大きさか、少し大きいくらいの黒い塊が宙で浮いたように止まっている。よく見ればその黒い塊の先端は矢尻のように尖っているらしい。
京一が放った符が発動して彼の前に透明な防壁を作った。それに黒い塊が突き刺さったのだ。
蛭荼はその先端部分を突き刺して狙った相手に付く。そして名前のとおり蛭のようにして付いた相手の負を吸うのだ。苦しみと痛みは付いた相手の負を増大させる源である。苦しみと痛みは延々と繰り返し苦い想いや満たされない心の飢餓を増幅させる。彼が一つ前の染恈に負を呼び起こされるきっかけとなったのは、彼の子供だ。
負を呼び起こす的となる何かがあるからそれを由来とする負の感情が増幅する。
染恈や蛭荼にとっては負を産み出させるのに彼の子供が必要だった。それが先日の話に繋がった。彼がいきなり走り出したのは、染恈が子供の気配を覚えていたからだろう。蠱魅に導かれてやってきた彼は不幸中の幸いと言うべきか、星社である万夜花へと突っ込んできたのだ。
蠱魅の変化は確かにある。だがこのところ妙にその期間が短いものが多いように京一は思う。
そこに関わった人々にに元から強い負の感情や想いがあったのならわからなくもない。ただ彼の妻の話を聞いても、染恈から蛭荼に変化するほどでは無い。確かに劣等感や被害妄想など、思い込みの度合いによっては日常的な状況を自他含めて悪化さはせてしまう人もいるだろう。
ただ彼のような性質を持つ人はどこにでもいて、それでもそれなりに普通に暮らしている。
染恈はそれほど強い蠱魅ではない。例え一時期付かれたとしても、大体の割合で浄化される。
それも自然に浄化される場合が多い。今の世の中で蛭荼にまで進む事例はほとんどと言っていいほど無い。
京一は午前中に二人と交わした別れ際の会話を思い返していた。
「荒れてたな」
ぽつりと言ったのは礼成で、京一も著もその言葉に頷く。《ろ・ふ三》の狭間域にギリギリ近づける場所まで三人は行ったのだが、状態は思う以上に厳しかった。すでに《ろ・ふ三》はどこにあったのかもわからない状態になっていて、院の観測室からの情報も変わっている有り様だった。
「《そ・て八九》からの余波がどこで止まるかだね」
《そ・て八九》の内側から生じた可能性のある狭間は、未だ成長を続けているように見える。もしこの内側に大量の蠱魅の群れが存在するのなら、それこそ恐ろしい事態だ。ひとまず付近の影響を受けていない狭間に影響を防ぐ処置を施した。
「付近の狭間は当然正規にも
「……
礼成の言うとおりだ。
「他の案件との関連があるのかどうか」
「
著が京一の言葉に頷いた。
少しだけ三人が沈黙する。
黒蠱の異変から始まる小さな事象達。それらが今回の九番案件の前触れだったのか。
「ああ、そうだ。著」
急に声を上げたのは礼成だった。彼は著に向き直ると唐突に言った。
「うちに一人、見習いが入ったんだ」
「へえ、そうなんだ」
まったく別の話になって著は少しだけ面食らう。星社に見習いが入るのは珍しいわけでは無いのだが、時期的に不思議な気がしたのだ。見習いが入る時期としては、だいたい年度始めが多い。
「それで、今後俺と交替で時々そっちの応援に行くようになるから」
「ふぅん。わかった」
著がもう一度頷いて、そこで京一は二人と別れたのだった。
彼ら三人の調査から数日後、問題の場所を含めた例の狭間付近一帯は、突如接続した空間によって潰されるように消えてしまった。
星の系譜 空山迪明 @mizushino
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