第28話 騒ぎ
静かな
彼の背後に横並びに座る隼男と呂花も彼に倣うように両手を床について頭を下げる。
上半身を起こした京一は両手を合わせ、そのまま言葉を紡ぎ始めた。
隼男と呂花は身を起こしてその場に畏まったまま。
この場所に
二つ並んで置かれた
とても不思議な光景。混ざりもののない綺麗な光景。ずっと見ていられる。
「
祀殿に来る前、
一般的に人々が拝殿前で唱える〈
「一般的に用いられる祈言も
呂花は祈言をほとんど上げたことがない。
短い言葉であれば聞いたことのあるものあるが、はっきり意味を知らないからでもあった。
それに。呂花は拝殿前では無心のことが多い。
その場で何かを祈ることも実際は少ない。無心で星社のその場所を精一杯感じることが呂花は好きだった。そこに何らかの思考は上がってこない。空っぽの時間。場に溶け込んだような時間は呂花にとっては一種の至福でもあった。まして社に深く関わることもなかったから、ますます祈言を覚える気は起こらなかった。
「祈言というのは、元々人が精霊と意思の疎通をするために作られたものが始まりと言われている」
だから実際人が用いる言語とは違う要素が含まれているものもある。
「例えば、
水を容器などを使って流したり、垂らしたりする。水だからそれに関する属性の精霊の場合、その星社の正式な式典では用いるところもある。
「ただこれはとても古い時代の祈言の上げ方で、今ではほぼ人の言語で上げることがほとんどだ」
精霊と人はそれぞれが実は自分達の言語で話しているけれど、お互いには意思の疎通ができている。ではどこで翻訳がなされているのかは、詳しいことが現時点ではわかっていないとの話だった。人と精霊達が意思を交わしていく中で自然とすり合わせができてきたのでは、という見方をする
ただ人の間でも口頭で発する音や筆記する文字だけではない。指文字や点字、身振り手振りなどといった言語は存在するのだ。
それぞれの意思疎通の仕方は幅広い。
呂花は茫然と隼男の話に聞いていた。
自分が発する言葉は、相手にはどんな風に届いているのだろう。
もしかしたら、水の流れが速かったり遅かったりするのだろうか。ただそれは精霊に限らず、人にも当てはまることなのかも知れない。捉え方、感じ方、見え方、すべては一個一個の存在によって違うということに呂花は改めて気づいた気がした。
京一の繋いでいく言葉の意味を呂花は知らない。けれど精霊石の輝きと彼が発するその音は一体化してその景色の中へと呂花を
「……
言葉が結ばれ、ふあっと祀殿に精霊石の光が広がって日光と重なった。
呂花はただその様子を瞬くこともしないでひたすら見つめた。
光は呂花の空っぽな体の中にも素早く入り込んで爽やかに通り抜け、そして落ち着いた。空気が少しだけ変わった。柔らかな風で運ばれた薫りが呂花の鼻腔をくすぐる。気づけば優しい気配が二つ、祀り棚の前にあった。
『おはようっ!』
『おはようっ!』
揃った明るい声は呂花の耳に小気味良く響く。
つられたのか、ふわりふわりと
だいたいが朝と夜の二回、祀殿で主祀霊と会って主祀霊達自身、そして領域内の状態の確認を行うらしい。たたまどかが教えてくれたとおり、精霊は勝手に現れるし、意思の疎通はどこでも取れるのだ。だからこれはやはり儀礼的な意味が大きいのだと思う。そこは人間側の都合なのだろうか。
呂花は視線を二霊からその奥へと向けた。
(……)
精霊石は星社の一番の要だという。
星社に精霊を主祀霊として招くことを〈
だから星社にある精霊石に光が灯っていれば主祀霊がいることになり、光が灯っていなければ主祀霊がいないということになる。
今目の前にある祀り棚に安置されている二つの精霊石には芽と皣の気が宿っているのだ。
「おはようございます。芽様、皣様」
京一の挨拶に隼男が続き、隼男が呂花に目を向けた。呂花も二人と同様に自然と言葉を口にした。
「おはようございます。芽様、」
はた、と芽が眉間に皺を寄せてその顔が強張った。
「皣様」
目を見開いて皣が息を吸い込む。
硬直した二霊の様子に京一と隼男がはっとする。呂花もあからさまなその変化にどうしたのだろうと驚いた。
直後。
顔を歪めた二霊が同時に叫んだ。
『いや────ッッ‼』
『いや────ッッ‼』
反応した眷属精霊達が一斉に吹き飛んだ。散り散りに宙を舞い、主祀霊の起こした風に乗って飛び遊ぶ。
心底驚いたのは三人の人間である。
呂花はもちろんのこと、隼男に京一ですら主祀霊達の絶叫にあっけに取られる。
何の変哲もない挨拶をそれぞれが口にしただけだ。何が気に障ったのか。
『その、』
『呼び方、』
『きらい───ッッ‼』
『きらい───ッッ‼』
気づいた京一と隼男が思わず顔を見合わせて呂花を見た。
「え、」
呂花は京一と隼男に従っただけだ。
他の精霊達が主祀霊達の言葉を拾い、囃し立てるように三人の周りを飛び回る。
『きらいー』『きらいー』
嫌いと言われてもと呂花は首を捻る。
もしかしたら名前で呼ばれるのが嫌だったのか。
「おはようございます。主祀霊様方」
京一が目を見開き、隼男が口をへの字に曲げた。
意を得なかった芽と皣がいっそう激しくわめく。それが伝播した眷属精霊達も合わせるように叫んで、笑って、怒って。それほど広くもない祀殿の内側から端を発した騒ぎは速やかに社中に広がっていく。
『いやだ───っ‼』
『ちがう───っ‼』
二人のわめく理由がわからず呂花はますます悩む。
『どうしたの?』
急に声が聞こえて、気づいた三人は二霊の側に黒い社着姿の少年が立っているのを目にした。
普段は遠慮して祀殿には近づかない
『久太』
芽がこぼすように呟いた。
『呂花がわかってくれないの!』
皣が久太に言い募って更に呂花は困惑した。
『ええ?何を?』
『変な呼び方するの!』
『……どんな、呼び方?』
久太に顔を向けられて呂花は答える。
「芽様、皣様、……主祀霊様方」
とうとう二霊は火がついたように声を揃えて泣き始めた。久太が目を大きく開いてその形を真ん丸にする。
ふと呂花は久太に視線を当てた。そう言えば、他の精霊達はどうやって呼ぶのだろう。
「きゅう」
察した久太がさっと顔色を変える。
『僕は様要らないからね……ッ!』
「たっ……」
慌てて遮られた呂花は言葉の先を呑み込んだ。
そのまま並んだ三霊を見る。
敬称が気に入らなかったのか。
少し考えて呂花は再び口を開く。
「……芽、皣、久太……?」
芽と皣がぐずった顔で呂花を見つめ、息せき切った久太が大きく息を吐いた。
急に呂花が遠くなった気がした。
ほんのわずかな言葉の違い。
───なのに。
氷のように冷たく、ぶ厚い何かに隔てられたようにすら感じた。
呂花のいるところがとても遠い。
自分達と呂花の間に見えない幕が何重にも重なって置かれたような、そんな感じ。
意思が、心が届かないような気さえした。
芽も皣も知らなかった。
こんなに距離が離れるなんて思わなかった。
急に怖くなった。
『
『言ってくる‼』
芽と皣が赤くしたまま顔を上げた。
言葉を失ったままの三人と久太をそのままに、二霊は固く手を繋いで姿を消した。
二霊が姿を消した場所を見つめながら呂花はふと思う。
二霊には、呂花の放った言葉がどんな色、形に映って、どんな音に聞こえたのか。どんな震動、そして温度で。どういった手触りだったのか。
高い木々が並び立つ
この近辺では一番山深い場所に位置する星社である。人々の喧騒とはあまり縁の無い、静かな星社だった。
感じる気配はとはても良い。星社付近の精霊達は社の精霊達も含めて穏やかで大人しい性質の精霊達が多い。それを象徴するようなゆったりとした空気はいつも縁令を落ち着かせてくれる。
参道の先に開けた星社の境内が見えた。
正面に拝殿、その後方に祀殿。そして右手にやや大きめの社務所が見えた。
山の頂き近くにある社に参拝客が訪れることはそれほど多くない。ただ今日は珍しく拝殿前にそれらしき人が一人、手を合わせているのが見えた。出で立ちからして登山者のようである。これから頂上まで登るのだろうか。
行くにしても帰るにしてもお気を付けて、とそっと縁令は胸の内で呟いた。
『縁令』
『お帰り』
目の前にふぅわりと浮かぶ
静かな呼びかけに戻りました、と笑って答えると縁令はそのまま社務所に入る。
「お帰り、縁令」
温厚そうな六十代半ばの男性が笑顔で出迎えてくれた。この社の
「
所属する社人は社司を含めて六名。一般社の人数としては平均的でもある。全員陰人だ。
むしろ他社に手伝いとして赴くことの方が多かった。
「ああ、縁令。入れ違いだったね」
おっとりとした声が聞こえて縁令と年の近い青年が一人、副社司の後方から顔を覗かせた。
「
何の話なのか、もちろん縁令にはわかっている。
「また、お出かけですか」
笑い含みの縁令にそうそう、と返したのは彼ではなく社の精霊達だった。
この峰長星社の社司、
社司として、陰人としての仕事を彼が疎かにしているわけではないのだが、比重として後者に偏よりがある感は否めない。何よりも彼の放浪癖がそれを物語っている。
「三日は戻らないって」
「あー……、そうか」
少しだけ考え込むような縁令に副社司の
「何か急ぐ用事でもあったのかい?」
用事があると言えばあったのだが、急ぐことではない。
支部に寄って二案件ほどこなした帰りに
浮柁方では高確率で正規の陰人を見かける。たいがい一人二人はいるものだ。
陰人の生活圏外で暮らす人々が多い汎草達の、その情報網は思う以上に広い。だから、自分達のものだけでは足りないその情報を求めて浮柁方にやってくる正規の陰人は絶えない。
先日の東第四支部管轄で起きた九番案件以降、
それというのも、汎草達は部分的に正規とは異なる狭間を使うからだ。
ただし近年はその範囲が急激に減少しており、大昔の記録と比較してもかなり範囲が狭まっていることはわかる。陰人である以上、狭間との縁はどうやっても切り離せない。狭間を利用し、あるいはその中で仕事を行う陰人にとってその最新情報の更新は必須である。
その傍らで一つの情報を縁令は拾った。それは直接自分達に関わるものではないし、急いで報告するような内容でもない。
ただ縁令が気になった、それだけだ。
「いいえ、大丈夫です。問題ありません」
首を横に振った縁令に昭広が言った。
「俺と
先ほどの参拝客の用件を聞いているのか、喜則の娘で縁令達より十ばかり年上の彼女の声が奥から聞こえた。
「
「ここー!」
少し離れた場所から声がして振り返ると、二十代になったばかりの青年が明るい笑顔で縁令に手を振っている。
「お帰りなさい。
ちょうど良かった、と彼はそのままこちらへやってきた。
「あとで良いんで報告書の確認お願いします」
「うん、わかった。こっちの報告書が済んだら目を通しておくから」
「お願いします」
それだけ言うと彼は部屋の一つへ入っていった。
「今度はどこへ行かれたのですか、社司は」
「
「……また、遠くですね」
東国大陸の東の端である。
何を調べに行ったのかは知らないが、本当に三日で戻ってくるのだろうか。
毎度のことながら縁令は呆れた。
いきなり目の前に真っ赤な顔をした主祀霊が現れたからだ。
『水有っ!』
「───、はい」
芽の呼びかけに返事が一拍遅れた。
何かあったのか。
二霊の周囲にその様子を真似るような眷属の精霊達が姿を見せた。半分はおどけているようにも見える。
緊急の事柄ではないようだが。
二霊の様子を見守る水有に今度は皣が言った。
『今日から禁止ッ‼』
突き付けるような皣に、何を禁ずるのかと水有は不思議に思う。
思い当たるものは何も無い。
『私達呼ぶとき〈様〉つけないでっ!』
まったく想像もしない芽の言葉にあっけに取られた。
「えっ……?」
思わず隣で声を上げたのは歩柚子だ。
彼女にとってもまるで予想外の言葉だったのだろう。
『これから
『主祀霊への敬称禁止ッ‼』
芽と皣の眷属精霊達が二霊の語尾を引き取って禁止だの嫌いだの要らないだの、まこと賑やかに言い散らかす。
『みんなに、ちゃんとっ』
『伝えてよっ‼』
肩で息をするようなその剣幕に、水有は目を瞪った。
『……それは、構いませんが。いったいどうなさったのですか』
二霊が水有にここまで強く言うからには、そうさせる何かがあったのだろう。ただ何があったのか。
ばさり。
二霊と二人の近くで羽音がした。
『呂花が───……』
転変した久太が困ったような、戸惑ったようなそんな顔で言葉を発した。
「久太」
呂花がどうかしたのか。いや、何かしたのか。
『芽様、皣様、主祀霊様方って言ったら……芽と皣が嫌って大泣きしたの』
その言葉に水有と歩柚子が互いの顔を見た。
水有は遠い記憶を思い起こす。
確かに
人の社会での一般的な慣習をそこに当てはめているだけなのだ。元々が精霊達には上とか下とかの感覚は無いようで、だからと言って桐佑が二霊や他に対してぞんざいだったのかと言うとそうではない。
二霊に対して他の精霊や人に対して、決まった型に沿っていなくても決して相手に敬意を払っていないわけでも、誠意を持って応じないわけでもなかった。
そこは相手の捉え方にもよるだろう。
彼は間違いなく二霊を大切にしていた。
呼び方の変化に二霊が呂花によそよそしさを感じたのか。
それが二霊は嫌だった。
ふと水有の口元から笑みがこぼれた。
擦れた音に気づいて歩柚子が彼を見た。
「承知いたしました。芽、皣」
二霊には人側が頼んで星社にいてもらっている。けれど主祀霊という言い方は人間側のものであって、精霊達は本当に気にしていない類いのものなのだろう。そして社に留まり、人と協力することで精霊達も自らの眷属、そして住む場所の安定を保っているのだ。
お互い様というならそうなのかも知れない。
水有の言葉に二霊が息巻いていたその表情をようやく緩めた。
騒がしさを含んだ空気がゆっくりとした流れへと変わった。明らかな空気の変化に歩柚子も周りへ視線を移し、ほっとしたように口元をほころばせた。
(相変わらず──)
社を賑やかにしてくれる。
今日の天気と同じ穏やかな気の流れが広がるのを眺めながら、水有はひっそりと心の内で苦笑いした。
一時の騒動は収まりを見せた。
祀殿を出て京一、 隼男、呂花の三人は今は拝殿前にいる。
主祀霊達の高ぶった気が落ち着いたのだろう。
辺りを精霊達が穏やかに、伸びやかに遊び回っている。
その光景は今までの呂花からしたら、とても幻想的である。けれど今の呂花にとって夢現ではない。
京一と隼男がかわるがわる拝殿とそれに関する仕事の説明をしていたのだが、呂花は何に気を惹かれたのか。
拝殿とは反対方向、自分の背後へふり返らずにいられなかった。
ふり返った先の階段手前に、一組の親子の姿があった。
満面の笑みを浮かべた子を真ん中に、父母が左右から優しく気遣いつつその手を引いている。
思わず見入った仲むつまじい姿に、呂花は自分の想像を重ねた。
そこにもう一つ。
自分の記憶と思しきものの映像を、痛みを感じながら甦らせずにはいられなかった。
苦い思いを胸によぎらせて前を見つめていた呂花だが、急に飛び込んできたものは呂花に感傷に浸る間を与えない。それは不意に呂花の耳元に届いた。
「呂花?」
隼男の呼びかけに意識が逸れた。呂花はもう一度それを確かめようと意識を凝らす。
何も、聞こえない。
勘違いだったのだろうか。もしかしたら精霊達だったのかも知れない。
自分宛の音ではなかったのだろう。
深く気に留めることもなく、呂花は拝殿に向き直った。
京一は呂花の見つめていた先をたどるようにその後方を見た。
何も無い。階段へ続く道が広がっている。そして脇にある
しばらく景色を眺めていた京一だが、彼もまた呂花と同じく拝殿へと向き直った。
かぼそく、短く、呂花にそっと聞こえた何か。
記憶は途切れなくその場に置き去りにされ、漏れることなくその場所に積み重なっていく。
人が歴史と呼ぶ流れもまた、その積み重ねの中に生じると同時に埋没していくのだ。
誰も、気づかぬ間に。
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