第24話 赤子

 支部の敷地面積はかなり広いらしい。表の建物しか見えなかったから、その後ろ側にもう一棟建物があることに呂花おとかは気づかなかった。

 後方の建物は学舎だった。ただ学舎とはいっても利用する年齢は様々なようで、そこそこ年齢が上に見える人もいれば物心がつくかつかないかくらいの幼児もいる。更には呂花がいる部屋の続きの間に乳児もいるらしかった。

 四、五部屋ほどあるのだろうか。全部を案内されたわけではないのでよくはわからない。ただある程度の年齢層は入り口に近い大広間で陰人かげびとに関する講義と訓練指導を受けるのだと言う。それは平日なら夕方以降、あとは休日に行われるらしい。普通の勉強とは内容が全然違うのだろうが、何となく塾みたいだと呂花は思った。

 呂花がいるのはそこから少し離れた東側の部屋だった。講義や訓練指導の部屋ほどでないとは言え、この部屋もそれなりに広い。庭に面した縁側の障子や戸の類いはすべて全開で、昇って間もない太陽の光をめいっぱい取り込んでいる。ここも畳の部屋であるところを見ると、多少板張りの箇所はあるものの星社に関する場所全般的にはそれが普通なのだろう。

 平日の日中なので入り口近い大広間も人気はなく静まり返っている。支部の本舎とも違い喧騒とはまるで無縁の場所のように呂花には思えた。しかしそうは言うもののまったく活気が無いわけではなく、呂花の周囲では三歳くらいから六歳くらいの就学前らしい子供が数人ほど賑やかに遊んでいる。

 よくわからないが、隼男はやおの事情で呂花もここに連れてこられたようだった。万夜花たかやすはなの転送場から晴上はれのぼりに逃げ出してからは、一人にならないように常に誰かが側にいる。

 呂花に行ける所はもう他に無いのだから、見張りを強化しても意味は無いのだけれど。

 呂花のいるこの部屋は保育園とまではいかないのだが、どことなくそんな雰囲気がある。指導員が三人ほどいるが特別何かの勉強をしているとか、訓練らしきものをしている様子はなかった。

 周りにいる子供達はそれぞれにお互いや大人、そして精霊しょうりょう達とただ遊んでいるように見える。呂花は部屋の中央にある大きな座卓の端に座っていたが、その対側の少し離れた場所に五、六十代の男性一人が正座して読書をしているようだった。

 呂花の座っている場所からは柱が見えるが、他に遮るものもほとんどなく庭先で子供達がはしゃぐ姿もよく見えた。

 院に行ってまどかとはぐれた時を呂花は思い出す。あの場所もここと同じように学舎だったのだろうか。清痊方せいせんかたへ自分を案内してくれた少女は話す間もなくどこへ行ってしまったのだろう。

 そんなことを思いながら、何をするでもなく呂花はぼんやりと座っていた。


 ばたん!


 大きな物音がして子供の声が幾つか聞こえた。

「しぃ」

 指導員である年輩の女性が一人、口に人差し指を当てて子供達に優しく注意している。騒いでいて奥のふすまにぶつかったらしい。

「今、赤ちゃんが寝てるからこっちでは騒がないでね」

 子供達は一様にしゅんとして身を縮め、ごめんなさい、と謝っている。

 そんな子供達に彼女は軽く笑った。

「ううん。大丈夫よ。わかってくれて、ありがとうね」

(赤ちゃん……)



 呂花と隼男が万夜花を出る少し前。社務所の手前まで来たところで急に大きな声が聞こえた。近づくに連れて大きくなる声は、赤ん坊の泣きわめく声だった。

「ああ隼男、呂花。今から支部か」

「そうだが、その子は?」

 厚手の柔らかな布にくるまれた赤子を抱いていたのはしんで、側には赤子が入れられていたのだろう籠を持った美里みさとが立っている。両脇にはめいようの姿もあった。周囲をふうわりと眷属の精霊達が様子を見守るように現れたり消えたりしている。

「───……最近では珍しいよね」

 軽く赤子をあやすようにしながら審がぽつりと言った。その言葉に隼男はすぐに悟ったらしい。

「誰が、いったんだ……」

 思わず呂花は彼を見た。

 まさか赤ちゃんを。

「多分、母親だと。気配は追わけど」

 美里が言った。

 芽と皣が知らせに来て急いで審と美里が二御柱ふたみはしらまで行った時には母親は去ったあと。ただ気配はまだ近くにあった。

 五百年前ならいざ知らず。現在では子供をこんな風に手放す親は大幅に減っている。だが、いないと言うわけではない。いきなり星社前に置き去りにする親は少ないが、違う形で子供を手放したり、突き放したりする親もいる。

『……幸せになって……』

い流れに乗れるように……』

 赤子の顔をのぞき込みながら、芽と皣がそれぞれにその頭を撫でた。二霊と赤子を囲みながら周囲の精霊達が緩やかな風を起こす。一瞬その場が光ったのが見えた。

 側の二霊や他の精霊達に気づいているのかいないのか。それでも少し落ち着いたのだろう。口の端に泡を吹き出しながら、誰にもわからない赤ちゃん言葉を呟いて赤子が宙へ小さな手を伸ばした。

「名前は?」

「ええと、幸福の〈福〉に子供の〈子〉で福子ふくこって書いてある」

 赤子の衣服に縫い付けられた切れ端を見ながら美里が隼男に答えた。せめて子供に福があるようにとの親心だろうか。

 葉台はだいでは絶対ではないものの昔から子供を何らかの事情で手放す場合、特に生まれて間もない子供を手放す場合に名前だけは付けておく慣習のようなものがある。まさか今の時代にその光景を目の当たりにすることがあるとは呂花も思わなかった。初めて目にした状況に強い衝撃がある。

「そうか……福子ちゃんか」

 言いながら隼男は宙へ伸ばした赤子の手に自分の人差し指を差し出した。

『福子ちゃんって言うんだね』

『良い名前だね』

 二霊が顔を見合わせて笑った。

「わっ!いたたたっ」

 三人と二霊の前で突然隼男が呻いた。差し出した指を赤子に思いきり握りしめられたらしい。

 顔をゆがめた隼男とは対照的に、容赦なく彼の指を全力でつかんだ赤子はキャッキャッと無邪気な笑顔を浮かべている。

 それを見ていた審がボソリと呟いた。

「隼男。まさかあんたの子じゃないだろうね?」

「はあ?審、お前な……」

 何とか泣き出されないように指を一つずつ引き剥がしながら、隼男は心底呆れたように審を見た。側から二つ。様子を眺めていた二霊の大きく笑う声が響いた。合わせるように周囲からもゆるやかなさざめきがわき起こり、星社の境内に広がっていった。


 痛みを払うように指をつかまれた左手を小刻みに振りながら、隼男は呂花を連れて再び歩き出す。

「やれやれ」

 呂花は一瞬後方をふり向いて赤子を抱えた審と美里の後ろ姿を見ると、隼男のあとを追った。ちょうど階段に差し掛かるところだった。

「───気になるか?」

 階段を下りながら、隼男は追いついてきた呂花に尋ねた。

 呂花は黙り込んだままだ。

 あの子はこれからどうなるのだろう。そして、赤子を置いていった母親は。

 その行動、行為だけを切り取って安易に人を責めることはできない。

 逆にその結論に至った母親の理由が、何かしらあったのだろうから。

「聞いたことがないか?困った時の星社参り、って」

 もちろん呂花はその言葉を知っている。少し控えめに隼男は言うが、今でも世界中で広く使われている言葉だった。

「昔は……、それこそ五百年前よりもっと大昔の星社は多種多様なだった」

 政治の混乱期などに比較的安定した仕組みを持っていて国、あるいはその政治にあまり左右されない星社の存在が、頻繁に形の変わる役場などよりも人々の拠り所となっていたことは葉台の歴史的な事実でもある。

「本来星社は地域、いわゆる人々が生きる場の安寧を保つために精霊と繋がる窓口だ。社人やしろびとの仕事も鎮め、そしてそれに付随する儀式、祭祀の執り行いが一番のものだからな。もちろん冠婚葬祭や関連する護符なんかの頒布はもともとあったんだが」

 おそらく人々が色んな相談事を持ち込んで、それらに応じているうちに星社の性質が変わってしまったのだろう。

「個別の願いや祈りを聞いたり、その手助けをするようになったのは後付けだよ。その言葉も初期頃は時の星社参り、だったらしいしな」

 隼男の言葉を聞きながら、呂花は変化を繰り返しつつも今に続いてきた時間の流れに少しだけ思いを馳せた。

 そして遠い昔。精霊も人も多くて互いの存在ももっと近くにあった。星社の境内も今より随分と賑やかだったのかも知れない。

 そこは時代の流れだろう、と言いながら隼男は下る階段の最後を下りきった。

「だから、出生番符しゅっしょうばんふの発行が星社に残ってるのは、その名残なんだよ」

 出生番符はもともと、星社から始まったのだと彼は言った。その話はうっすらと学校で習ったような記憶がある。

 葉台において人は生まれた時と亡くなる時に必ず星社に関わる。国によって多少の違いはあるにせよ、基本的には誕生した祝福と死に際して名を返し次の生へと正しく導かれるための葬儀は世界の誰もに与えられた無償の権利として定められている。

 だから星社は民間社だの一般社だのと分かれてはいるが、仕事の性質的には世間で言うところの半民半官の立場だ。

「出生番符は星社でないと発行できない理由がある」

 何だろう。それは学校の先生も言っていなかったし、大人になってから誰かに聞いた覚えもない。

「発行と同時に本人のを専用の台帳と端末に登録するんだ」

(また、気……)

 呂花はそう思いながらも自分の出生番符が有効であったことに何となく得心がいった。出生番符には番号と氏名だけが記されていて、それ自体に家族構成や勤務先などの個人的な詳細が記されていたり紐付けされているわけではない。国ごとに振り分けられた使いまわしの人口管理番号と、それこそ出生番符を発行した社の登録番号がこの番号の中身だと聞いた覚えが微かにある。その国の法律に則り、あとでその人の個人情報に出生番符の番号が紐付けられるのだ。

「一応念のための確認を取るが、登録が無ければ、今からあの子にも出生祝いの儀式をして、出生番符が発行される」

 そこに存在するという、ただそれだけの証明あかし

 それは星社という信頼のおける機関で発行されたものだから、大概どこでも通用する。だから昔の人々はそれを自分の存在を示す頼りとした。

 ことに戦争の絶えなかった頃はどこの出身かということの証明にもなったからだ。気の登録を始めたのは単に星社で発行する際に取り違えがないようにするためだったのだが、それが今にまで続いている。

「登録があれば身元がすぐにわかるから、ここに置いて行くっていうことはまだ登録されていないんだろうな」

 今では逆に気の登録が重要になっているのだと隼男は言った。

 気は当然一人一人違うものでどうやっても他の誰かが真似るということはできないから、それもあって出生番符は他の身分証より重視されるとも彼は言った。しかしその事実を知っているのは、星社に関わる陰人達だけなのだ。

「昔は世界的にというもの自体が常に不安定で流動的だったから。ほとんど形も仕組みも変わらない星社の方が人々の信用度が高かったんだろうな」

 どこか遠い場所を見るようにしながら話す彼を呂花は不思議な思いで見た。隼男の言う昔とはどこを指しているのだろうか。五百年前か、それとももっと前の時代なのか。どちらにしても呂花の生まれる前のことだ。生まれ変わる前の記憶なんて、呂花にはまるで想像がつかない。けれど、そんなものを持って生まれたいと呂花は思わない。

 自分だけど自分じゃない。そこで生まれ変わる前の自分と今の自分、その環境をそのつもりはなくても多分比べてしまいそうだから。現在を生きる自分は、唯一ここで生きている自分だけ。前も後も関係ない。には現在いましか生きる時はない。なのに───。

「出生祝いの儀式をして出生番符を発行したあとは、役場へ連絡してあの子の件は警察の管轄になる」

 呂花は考えるように視線を足元に落とした。

 感情的に流れを見れば確かにひどい、悲しい、つらい話だ。

「美里は母親の気配を追わなかったと言ったろう?」

 彼女は確かにそう言った。

「人の情としては追いかけていってどうして子供を置き去りにしたのか、理由を尋ねて問題を解決し、母子が幸せに暮らせるように手を貸してやりたい気になる。実際に大昔はそれもやっていたらしいからな」

 だが。

「それは実際のところ、とても難しい。事情もその時系列の流れも現実は複雑だ」

 隼男の言うとおりだ。

 現実と理想の間にはほとんどの場合で隔たりがある。

「大昔にそれができたというのは、星社に陰人が多くいてそこにある原因や環境、それに感情も今ほど複雑ではなかったからだ。中途半端な手出しはできない。返って状況を悪化させてしまう可能性があるからだ。だから任せるところは任せる。内社人うちやしろびとの人に仕事の一部を俺達が頼んでいることと同じことだよ」

 言葉を発することはなかったが、呂花は胸の内で頷く。確かに彼の言うことは理解できる。

「それから、もしかしたら思ったかも知れないが」

 参道の一番表、二御柱とその両脇に梅と桜の木が立つそこまでやってくると隼男は立ち止まった。

「どうして、審はで二人の行く末を

 呂花自身は隼男に言われるまでそれは思わなかった。でも審達占師せんじの占が確率の高いものなら、そんなことを言う人間がいてもおかしくはない。

「陰人の占師は個別の占はしては

 規則があるのか、と呂花は思う。そもそも占いなどほとんど遊び半分のものしか知らない呂花には、占そのもに重きを置く感覚がわからない。「占は確実ではない。膨大な事象の中からより確率の高い事象を見つけるだけだ」

 審自身もそんなことを言っていた気がする。

「星社で許された占はおみくじだけだ。しかも中身はそれこそ大まか」

 星社のおみくじには大吉とか吉などとしか書かれていない。他の占いのように詳しい内容の説明書きなどはない。ただ最後は星社で深呼吸をして帰りましょう、とだけの記載である。

「大吉とか吉って言うのは本人の気の状態を言っているんだよ。陰人の占いというものは可能性が高いと思われる事象を示すだけだ。確定された未来を示すことじゃない」

 あくまでも参考として考える。

「だから占を決定的に信じたり、それに依存することはできない。もしそれに依存するようになれば、結局する方もされる方も負担になる」

 それが個人的なことであればなおのこと。すべての行動に制限がかかるし、まして占師がいちいち一人の人間についてなどいられない。

「それに、陰人の占は当たる確率が高いから逆に危険なんだ」

 呂花は隼男を見た。

 何かしら良からぬ思いを持つ人間はやはりいる。わざわざ蠱魅の原因を作る必要はない。まして陰人本人がそれをするのはまったくの無意味だ。だからよほど大きな兆しが見えた場合や儀式、祭祀のような公に必要な事柄、案件など陰人としての仕事に関する事にしか使えない。

「さっきも少し言ったが、一般の人達は時代が変わる中で星社本来の役割に関して勘違いしてしまうことになった」

 それがすべて悪いとか、違うと否定するわけではないんだが、と言葉を濁しつつ彼は言った。

「ただ星社は、精霊は絶対的に祈りを聞いて願いを叶える存在ではないんだ」

 あ、と呂花は思う。今までは自分も勘違いをしていた一人だと思った。けれど芽や皣そして他の精霊達に出会って彼らと関わった呂花は、彼らに何かを願おうという気持ちにはならない。

「精霊達は万能の存在では決してない。確かに御利益、なんて由緒書きの横に書いてあったりするから」

 それも誤解を招く一因なのだと微妙な表情で彼は言う。御利益は主祀霊のが書いてあることがほとんどなので嘘ではないが、それを必ず聞き届けるという確約はできないのだ。

「実際に星社でできること、精霊達ができることは良い方向に向かう、諸願成就のための手助けだけなんだよ。最終的に成るか成らないかは本人にかかっている」

 未来を選ぶことも、そのための行動を決められるのも最後はその当人だけ。どんな存在であれ、

自由な意志を持つ存在であればどんなに足掻いてもそれは変わらない。

「結局、多くのことは抱えられないし捌ききれないから、星社の仕事も今くらいの中身に落ち着いたんだろう」

 ようやく二人が社の敷地を出て、呂花は後ろを見た。

 この二御柱の側へ我が子を置いていった母親は、何を思っていたのだろう。

 ただこれも、その母親が決めた行動なのだ。その本当の結果は、その時にならないと誰にもわからない。


 隼男のあとに従いながら、呂花は深く考えに沈む。

 今まで呂花が幸せを感じていた一方で、世の中には否応なく苦境に立たされている人々もたくさんいる。それを呂花は確かに知識としては知っているのだ。ただ日常的に身の回りにそれを知ることも感じることもないことで、知らないふりをしているのかも知れない。でもだからと言ってそれを一人の人間が、その中でも本当にちっぽけな存在の呂花が抱えられるかと言えば、そうではない。

 先ほど隼男が言ったように星社だけで多くのことを抱えられないことと同じだ。一星社ができることが限られているように、一人の人間ができることなどそれ以上にたかが知れている。みんな自分のことがせいぜい。

 その証拠に呂花が今ここで彼らにできることなど一つも無い。少なくとも、呂花には思いつける要素は無かった。隼男は一般の人が勘違いしていると言ったけれど、唯一呂花にできることがあるとして、それは母子の幸福を祈り願うことしかない。ただそれを精霊達に願うのではなく、本人達に向けて祈れば良いのか。

 学校を卒業し、社会人としてここまで生活してきて。

 でも。自分は何も知らない。

 わかっていたと思っていたことでさえ、本当には何もわかっていないのだと呂花は今更ながらに思う。

 歩き出そうとして、呂花は動きを止めた。

 急にその疑問は浮かんだ。

 呂花が知らないのは、本当に世の中のことだけなのだろうか。

(私は──……)


 自分のことも、本当にわかっているのだろうか。

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