第23話 雨

 四つ足の獣が飛んだ。咄嗟に呂花おとかが避けた。間一髪だ。激しい風波と砂埃が呂花を覆いその体を吹き飛ばしそうになる。何とか堪えて呂花は獣を見た。恐怖が体を支配する前に呂花が抱いた確信。この状況でたった一つ呂花にわかること。

 蠱魅やみである前に、否。蠱魅も目の前の獣は、そのは今ここで生きている生命いのちだ。

 呂花は無理やり恐怖をはねのけるように気を張った。そうしないと立っていられない。

 周囲に微かな風が三つ起こる。呂花はそれに気づくどころではない。だがその獣と呂花を囲むようにして広く丸天井ドーム型に三陣が立ち上がっている。景色と共にあったはずの周囲の音さえも途絶えた。呂花を濡らし始めていた雨も無い。薄暗い静寂の中にいるのは呂花と巨大な獣だけ。

 その獣は一体。しかし声はばらばらに四つ、それぞれ別の声が聞こえた。恐怖はいくらでも呂花を襲おうとする。目の前の獣を集中して見ることで呂花はそれを追い払う。じっと獣の姿を見つめていた呂花にようやくそれが見えた。

(一つ、)

 いや。

じゃない)

 息を呑んで目を見開いて呂花はその姿を凝視した。あの少年も。何かに捕まって引き込まれたのか取り込まれたのか、な姿だった。獣の内側が透けてその中に、本当の人であった姿の名残が薄く揺らめいて見える。透明で形の崩れた四人の重なる姿が呂花の目に映った。押し返した恐怖がもう一度呂花に手を伸ばす。目の前で唸る獣が呂花に襲いかかろうと跳び跳ねた。呂花は運動神経が良いわけじゃない。ギリギリで背中を向けながら獣を避ける。避けて慌ててふり返って何とかやっとの距離を取る。半ば転がるように避けたから、ゴムがずれてまとめていた髪がボサボサに乱れた。捕まらなかったのが不思議なくらいだ。ふらふらする頭を抱えながら呂花は獣を視界に捉える。急いで体を起こすと、髪に引っ掛かったゴムが地面に落ちた。

 出会った時から飛び込んでくる割れるような叫び声。呂花に恐怖を感じさせているのは、巨大な獣の姿ではなくもっと別のもの。叫ぶ言葉と一緒に混ざりあって呂花の中にそれは入り込んでくる。

 何なのだこれは。いや少年を時も。

(同じ───)

 重なった彼らが一体に絡めとられたのか、それとも重なりあって一体になったのかはわからない。それでも彼らはただ。

 いや、四人だけではない。もまた。

(助けを、求めている……)

 今の呂花のように。

 彼らも居場所が見つからないのか。帰る場所が見つからないのか。でもそれだけではない。

 呂花に流れ込んでくるもう一つのもの。が確かなものなのかどうか。目を背けたいのに背けられない。何なのだこれは。何だこの感情は。

 恐怖や吐き気よりもそのまま頭が壊れてしまいそうだ。頭を抱え、萎えそうな足を何とか奮い立たせて呂花はその場にとどまっている。

 歯を食いしばって押し寄せるに呑み込まれないよう流すように、呂花は自分の中を通り抜けさせる。

 倒れるな。倒れては駄目だ。

「……っ!」

 自分がおかしくなりそうだ。目からは勝手に涙が流れている。

「はぁっ、はっ、……」

 息が上がる。肩が上下しているのが嫌でもわかる。心臓が痛い。

(こんな、)

 否応なく呂花の中に入り込んでくるものが、もしなのだとしたら。

(何て……)

 ひどい、事実なのだろうか。

 自分の嘆きなど。あまりにも小さく思える。

 手で乱暴に呂花は顔にまとわりつく涙を拭う。

 反動で危うく眼鏡が落ちかけた。

(どうしたら、いい……?)

 巨大な獣はわずかな間合いを取った呂花に再び飛びかかってくる。獣が動く度に呂花に向かって、彼らの悲鳴と叫び声がお願いと、助けてくれと、突き刺さるように飛び込んでくる。何度も自分を捕まえようとする獣をかつがつでかわし、呂花はかろうじての距離を取った。そこで今度は獣に真正面から向かい合うように立つ。逃げているだけではいけない。

(……落ち着け。……この間、どうした?)

 手を上げてくれ、少年はそう言った。同じで通用するかどうかはわからない。でもやるしかない。呂花はゆっくりと獣と一緒になった彼らに手を掲げた。ふっと光が呂花の手元に浮かぶ。

 一言、呂花は強く言った。



 京一きょういちは呂花の実家前に立っていた。夕方近いのに人気が感じられない。家族は出かけているのか。雨のやむ様子はなく風も強まってきた。

 相手は力の感じられない桐佑きりゅうだ。当人の気配を捜すしか手はない。今までずっと京一はそのやり方でを捜してきた。けれど京一が見つけた姿は、違った。

 実家でなければあとはどこに。さすがにその交友関係まで情報を京一は持っていない。情報を拾う間が無かったという方が正しいが。これ以上は呂花に行くあては無い。あっても誰もという人間を認識しない。をした以上、関係者の中で呂花の記憶を持つ人間がいないからだ。

(両親の実家……)

 父方は晴上はれのぼりだが呂花の家からはかなり遠い。少なくとも徒歩での移動は考えないだろう。母方は南隣の英橋ひらばしだ。

 狭間を自由に使えればもちろん移動範囲はぐんと広がる。あの日呂花とたどった道を回ってみるが気配を感じない。桐佑としての記憶が無いから本人が気配をということはないだろう。

(いったいどこに───)

 ふと思い浮かんで京一はもう一度飛んだ。



「大丈夫。大丈夫だから……」

 掲げた両手に力を慎重に入れながら呂花は彼らに言うが、言葉の半分は自分に向けてだ。

 小さく呻くその一体は呂花に飛びかかろうとするのをやめたのか、そのまま動く素振りはない。

 何となく静かになって落ち着いたようにも見える。

「……痛い、ですか……?」

 問いかけに応えがあって呂花はほっとして顔を上げた。呂花がしていることで外的な痛みは無いようだ。

「良かった……」

 少年には力を入れてと言われたが、加減がわからない。

「大丈夫。に、行けるから」

 思わず吐き出した自分の言葉に一瞬呂花の動作が止まった。隼男はやおの言葉を思い出したからだ。

(気の流れを戻す)

 わからない。与えられた言葉はばらばらに頭の引き出しにしまわれている。

(……っ)

 だからと言ってここで状況を放置はしたくはなかった。何とか四人と獣をしないと。

 蠱魅は蠱魅を呼ぶ。彼らを前に蠱魅にとってもそれが良くないことは呂花にだってわかる。今ここで肌でそれを感じているのだから。

 目の前の四人は絡まって一緒になって獣の中に囚われている。苦しんでもがいて、この状況が良いわけがない。これが増えたらなんて考えたくもなかった。どうすれば良いのか。どうやったら。

?)

 もう一度隼男の言葉がよぎった。


 自然とはあるがまま。

 流れるままに素直に解きほぐす。


(……気をほどく……?)

 呂花は今、陰人の彼らが持っている技術のそのどれも身につけていない。

 掲げた手元から風みたいに自分の何かが彼らに向かって流れていっている。呂花にはそこまでしかわかっていない。思考をめぐらせてめぐらせて、符を開いた時のことを思い出した。あの時は封筒の封を開けることを想像した。呂花は結ばれてしまった紐をほどくことを想像してみる。

 フッと何かが消えた気がした。風船の空気が抜けたようなそんな感じだ。彼らは微動だにしない。手を掲げたまま呂花は想像を続けてみる。もう一つ強いわだかまりが消えた。呻いていた獣の声が小さくなる。心配しながらも呂花は更に続ける。一つ、また一つ。固まっていたものが消えた。


 ふうっ。


 最後の一つが消えたところで、明かりが弾けたような強い光が陣の内側を埋め尽くした。




 一汪ひおう星社。久太きゅうたが呂花と出会った社だ。

 拝殿を正面左手に少し下がった場所に社務所があった。その前で京一は立ち止まる。

風井かざいさん?」

 驚いたような声がして京一はふり返った。

 声を放ったのは焦茶色の切り髪と同じ色の瞳をした女性だった。一汪星社の社司の娘である。

「あれ、どうしたんですか。こっちに用事でも?」

 一緒に立っていたのは黒色の瞳と短髪で浅黒い肌の色が特徴的な体格の良い青年だった。彼は札石ふだいし星社の社司の息子だ。

 雨の降りしきる中、彼らは傘どころか自分達のように上着も身につけず、その外套頭巾フードも被らないで佇む京一を不思議そうに見ている。

 少し前に京一は二人と同一案件を担当した。二人と合流するその途中で呂花を見つけたのだ。

遠子とおこ晴宏はるひろ黒洊牙こくせんがだ』

 三人の側に一際大きい光の球体が浮かび上がった。球体がぽんっと光を弾くとそこに白い狐の姿が現れる。

つゆ様」

 この社の主祀霊しゅしりょうである。氷の精霊しょうりょうらしい。

『数は一体だ』

「黒洊牙って……」

 晴宏が黒い目を丸くして白狐の精霊を見た。

 京一もやや驚いた。黒洊牙はちゅうに該当し、一体でも通常三番以上の案件だ。先日の千年蠱せんねんこよりも更に最近では目にする確率は低い。ただ数週間前に国内でも檜晶かいしょうの北、挽漬もんじにある八平はつひら星社の担当案件で出現した話は聞いた。

「まるめ様がが移動してるって言ってましたけど、今どこに?」

 まるめとは札石星社の主祀霊で紙の精霊のことである。

「移動型」

 京一が晴宏を見た。大多数の蠱魅は本体の影響がそこから広がることはあっても、発生場所から単体で本体のみが動くことはそれほど無い。発生した蠱魅の負の供給源がそこだからだ。だが付近により強い負の溜まっている場所があれば、そこへ蠱魅本体が移ることは時々あったりもする。そしての場合特に、負が強かったりある程度条件が重なってしまうとその多くが移動型になる。そもそも存在自体が蠱魅になるため、移動しながら昇華することは多分にあることだった。だからそのまま特定の場所ではなく負が強い場所を転々とするものは意外といる。ただ最近は意識体の割合が実は少ない。

「ええ、そうなんです。だから一汪に言ってひとまず確認してこいって言われたんですけど、でも黒洊牙なんて」

 一汪と札石は主祀霊の領域が隣接しており、一部重なる地域がある。加えて陰人の人数的な理由で案件処理を共に行うことが多かった。

『───上野原かみのはらの公園にいるが……、誰か鎮めを行っている』

「え、黒洊牙ですよね?」

 誰がと尋ねかけた遠子より先に尾の露が言った。

、陰人では

 三人が白狐を見る。陰人ではないのならば。

「精霊ですか?」

 もう一度遠子が尋ねた。時々蠱魅の発生現場の側にいたり、付近を通りかかった精霊が鎮めてくれることもあったりはする。

『いや、』

 尾の露は否定した。それに三人が驚く。

『……人だ。陰人ではなさそうたが、一人で鎮めを行っている』

 京一が目を見開いた。

「場所を教えて下さい」

 突然そう言った京一に他の全員が彼を見た。

「多分、うちのです」



 陣の光が消えて呂花はその場に膝から崩れ落ちる。

「はぁ……っ、は……」

 荒い息を繰り返す体に雨が一斉に降り注いだ。

 光が場を埋め尽くした時に声が聞こえたから、多分何とかなったのだと思う。

 でも違う。

 違うのだ。

(そうじゃ、ない……っ、)

 呂花は両膝を強くつかむ。指先まで伝わった力で爪が黒いズボンを裂いて、膝に食い込むかというほど強くつかんだ。

 心の中で呂花は自分に向かって激しく喚いた。

(違う……ッ!!)

 おかしい。自分は手を上げていることしかできなかった。彼らを助けたわけじゃ

 なのに何故。彼らは呂花になんて言うのか。

 ぐちゃぐちゃだ。呂花の中は目茶苦茶で、その自分がたどり着いたものは自らを含めた言葉にならない

 激しく打ちつけてくる雨風の中、呼吸の落ち着いた体を少しだけ起こして呂花は前方を見た。そして意識せずに瞬く。


 公園に着くなり目の前で広がった緑光は、それを目撃した彼らを驚かせた。

「え、浄化した……?」

 呆気に取られた遠子が思わず洩らす。

 公園の入り口に人が見えて、彼らがやってくるのを呂花は無感動に眺めた。歩いてきた京一が目の前に立った。それにつられた呂花が顔だけを上げる。薄く開いた口から微かな息をこぼす呂花の目は、目の前の京一を見ていながらもその意識は彼にはない。呂花の意識は別のところにあった。

(───……)

 京一は呂花を見下ろす。その顔にしたたるのは雨か、それとも───。

 動こうともせず座り込んだままの呂花は京一の後ろに立つ二人に見覚えがあった。ああ、と呂花は思う。彼らは陰人だったのかと。一汪星社、札石星社の社家しゃけの人だ。呂花の中学、高校の同級生だった。

 ひどい雨音に隠された微かな呟きは、それでも京一の耳に届いた。

「遠子ちゃん、伊佐田いさだ君……」

(知り合い───)

 京一は自分の後方に立つ二人を見た。 

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