第22話 逃亡

「……これは俺じゃちょっと無理だな。哲平てっぺいがもう戻ってくるから、あいつに見てもらった方が良い」

「そうか。じゃあ比田ひだ君が戻るまで待とう」

 機械の調子が悪いという話で隼男はやお中部あたりべの観測棟に呼ばれていた。折悪く境部さかいべは今、まどかと隼男以外の面々は出払っている。

「ちょっと行ってこよう。もう戻ってるかも知れない」

 そう言うと一緒にいたまどかが境部さかいべへと向かった。

「忙しいのに悪かったね。式之部しきのべさん」

「いや。こっちこそ役に立たなくてすみません」

 自分より年上の中部職員、吉田きちた康雄やすおに隼男はすまなそうな顔を向けて謝った。観測棟の観測結果を常に必要としているのは境部なのだ。それじゃ、と言って隼男もまたまどかを追うように観測棟から離れた。呂花への講義中だったため足早に境部へ戻る途中、隼男は半分ほど来たところで急な気配に立ち止まる。悲鳴のようなまどかの声に隼男はぎくりとした。

『隼男!呂花おとかが!』



 檜晶かいしょうより東にある晴上はれのぼりはまだ薄曇りだった。風だけが強弱を繰り返しながら吹いている。行き慣れた商業施設内の広場で呂花は時計を見た。の時間まで二時間と少し。本来であれば他の友人三人とともに、みやの婚約相手を紹介してもらう予定だったのだ。平日なので午後から呂花は休暇をもらうことにしていたのだが。

 待ち合わせの店はここから離れた場所にある。徒歩だと少し距離はあるが、時間的にはちょうど良い。

 すぐに確認したい。でも、もし自分だとわかってもらえなかったら。一縷いちるの望みを託す思いで呂花は店へと向かった。

 今までこんな恐怖と緊張を感じながらこの道を通ることなんて無かったのに。自然と歩く速度が速くなる。心臓の波打つ音も大きくなった。

 店の手前で呂花と反対方向から歩いてくる姿が二つ、見えた。足の動きが鈍くなって、とうとう呂花はその場で止まってしまった。二人との距離は一メートルとちょっと。一人はみや。もう一人は男性で、彼が今日紹介されることになっていたみやの婚約者だろう。

 みやの顔を見てほっとしかけて、それでも呂花の緊張は最高潮に達していた。

「案内状は?」

 みやの婚約者が確認するように彼女を見た。この佐久羽良さくわらでは電子案内が流行る最近でも、意外と紙に手書きの風習が残っている。ただ相手が国外の人なので秋に結婚すると聞いていたけれど、案内は少し早めなのだろう。

「うん。ちゃんと持ってきたよ」

 歩きながらみやは手に提げていた鞄の中を覗き込む。

「一、ニ、と……あっ!」

 風に煽られて封筒がみやの手元から路上へこぼれた。

「ああいやだ、汚れちゃう!」

 一通が呂花の近くへ落ちてはっとした呂花が恐る恐るそれを拾い上げる。

 みやと視線が合った。

「……どうぞ……」

 ここまで側にいて視線が合って、それでも反応の無いみやに呂花は小声で言って拾ったそれを差し出した。

「あっ、すみません。ありがとうございます。大切なものだから」

 封筒を受け取ったみやの笑顔と言葉は呂花を突き放す。青ざめた呂花に二人は気づいた様子もない。

「ちゃんと数あるよね?」

 少し呆れたように彼が言って、みやが苦笑いしながらそれに答える。

「大丈夫。ちゃんとあるよ」

 更に呆然とした呂花の背後からの声が聞こえた。

「みや!」

「ちょうど良かったね」

「そちらが婚約者さん?」

 総子ふさこ紀実きみ江里えり。聞き慣れた呂花の友人達の声。ふり返って呂花は三人を見る。けれど三人の視界には呂花は入らない。不安と恐怖そして混乱。それらに押されるように呂花は考えることなく身を翻した。急に走り出した呂花にようやく気づいた三人が顔を向けた。

「どうしたんだろうね」

「さあ?」

「何か思い出したのかもね」



「───早速、やられたね」

 腕を組んだ水有なかなりが苦く笑う。黒い瞳の奥の青色が強まったようにまどかには見えた。

「教えたその日に転送場を使うとは。さすがだ」

 転送場にいることに気づいためいようが声をかける前に行ってしまったらしい。そもそも万夜花たかやすはなに来た当日に狭間を知らずに飛んでいたというから、それも有り得ることだったのだろう。

「ただ、どこに飛んだかはが吹いていて跡が消えていると」

(型無しの風……)

 狭間に吹く風と言えばだいたいがこの風のことを指す。どこから吹いてくるのか、どんな風が吹くのか予測のつかない風のことだ。これは蠱魅やみとは違って、不安定な狭間内で起こる現象の一つである。

「巻き込まれた可能性は?」

「隼男が院に確認に行っていますので、それも聞いてくると」

 知らせを受けて隼男は院の転送場へ、支部の転送場には戻ったばかりの哲平を行かせた。呂花の頭と体が覚えているとすれば、これに加えてしんと行った公政廷こうせいていの外れの転送場くらいしかない。

「そう。すぐに審に連絡して。多分向こうももう終わるだろうから」

 午前中に緒早納おさのに行った彼女はその後周辺地区で行う式の打ち合わせのため、自治会の集会所に向かった興輔きょうすけてると合流する予定だった。だが時間的にはもう終わっている頃である。



 走って走って息が続く所まで走って呂花はようやく足を止めた。

「嘘だ……」

 荒れた息に紛れる声はか細い。

 期待が破られるのに時間なんて無かった。

 あても無く呂花はふらふらと道のままに歩く。

 歩いて歩いてずっと真っ直ぐ歩いて気がついた。自分の家の近くだと。そんなに歩いたのか。

 店は駅を挟んで呂花の家とはまったくの逆方向だった。息の詰まるような思いで呂花は辺りを見回した。正面からやってきた二人連れが目に入った呂花は、金縛りにあったかのように動けなくなる。これは本当に偶然なのか。

「何で予約日を今日にしたんだ?花雫かなは」

「気づかなかったって」

 父の行信ゆきのぶと母の比佐子ひさこだ。今日は呂花が午後からみや達と会う約束をしていて、その続きで久々に外食にでも行こうと言ったのは行信だったのに。せめて休みの前の日にしてと喚いていたのは花雫の方だ。

 呂花だけが消えて妙なつじつまが合っている。

(どうして……)

 前から近づいてくる二人を見ていた呂花ははっとした。二人が急にこちらを向いたからだ。わずかな期待がよぎる。

「花雫!」

 母親の声が衝撃を伴う刃のようだった。

「二人とも遅いんじゃない!ここまで迎えに来ちゃったじゃないの」

 前後で交わされる会話は、自分が彼らの中に存在しないことを呂花に思い知らせる。前方から来た両親は呂花の側を無反応のまま通り過ぎた。すれ違って少しだけ呂花は三人をふり返る。そこには一家族の微笑ましい様子があった。自分は呂花だと叫ぶ気力も、わからないのかと彼らに取りすがる気力も、呂花にはもう無かった。心構えもなく唐突に出会ったからなのかどうかはわからない。でも穏やかなその様子を見て、彼らに言葉をかけることが呂花にはできなかった。

(私は───………)

 今まであの中に、あそこにいたはずなのに。

 何だろう。この妙に目の前を遠くで眺めている自分。変な気分だ。それを呂花は自分の今と受け止めるしかない。身近だった人は誰も呂花だと認識してくれないのだから。自分の存在は今まで呂花が過ごしてきた時間の中には残っていない。多分。身を引きずるようにして呂花は三人に背を向けた。

 両親との会話が途切れたそこで、何故か花雫は気になった。二人がやってきた方向を見たけれど、その先の曲がり角までは道だけが続いていて他には何も無い。

「花雫?」

「あっ、うん。行こう!」

 母親の声に花雫は慌てて向き直った。



「───いなくなった?」

 隼男からの知らせに京一きょういちは思わず声を上げた。

 紅八くやの案件処理がちょうど終わったところだった。顔を上げて京一は礼成まさなり美里みさとを見る。不審そうに二人も互いの顔を見た。

『風が発生したのと同じ時間帯で飛んでるから、跡が残っていない』

 狭間を通ったら一定時間通った人物の気配がある程度残る。それを陰人かげびとは跡、あるいは足跡などと言う。今回の場合、それが型無しの風によって消されてしまったのだ。

 風、と京一が口の中で繰り返す。

『まだ風はやんでいないが、巻き込まれていないのは確認している』

 院の観測室も異常の発生などは無く、人や何かが巻き込まれた痕跡も無いと断言し、社へ戻ってきた審がそれは確実だと言いきった。

『院と公政廷の外れ、あと支部は確認したが周辺に目撃者もいない。周辺もある程度回ったが駄目だ』

 他に考えられるとすれば。

 思い当たった京一が言った。礼成と美里も顔つきを変える。呂花が転送場以外で狭間の移動をしたのはその時のみ。ただ万夜花の領域内で知らない内に狭間の移動をしていたから、他へ移動していれば見つけるのはますます困難になる。

『うん。もうそこしかない』

 闇雲に探すよりも呂花を迎えに行った京一の方が状況がわかる分、短時間で見つけられる可能性が高い。

「すぐに行きます」

『悪いが頼む』

 聞こえた単語から礼成と美里にも何が起こったのかはわかる。

「京一。呂花が、」

 ふり返った京一は礼成に頷いた。

「逃げた?」

 驚いたようなそうでないような、微妙な美里の言葉を聞くか聞かないか。一瞬の内に二人の前から彼は姿を消した。

「京一!」



 自宅の近くを離れてなおも呂花はあて無く歩き続ける。ただひたすら道が続くままに歩いていた。中身なんてない。ただ器だけが歩いている。

 動揺も混乱も冷めていた。

 悲しい、寂しい。そんな気持ちは不思議とわいてこない。ただ衝撃に打ちのめされたあとの脱力感だけが呂花の中に残っている。ふと口元が笑みを作った。

「やっぱり……」

 呟いた自分に呂花は驚いた。何がなのか。驚いたけれど何の意味も無い。道の右手に現れた公園に目を向ける。子供の頃によく通った、と思っている公園。ブランコに座ると、ほとんど白紙になりかけた頭の中に言葉が幾つか浮かんで来た。

 どうしてこんなことになっているのか。原因が何かあったのか。これまでの出来事が呂花の頭の中を流れていく。迎えに来たと言った彼はを済ませたと言った。

(処理……)

 彼は、京一は呂花の生活していた痕跡は消えていると言った。呂花のことだけを、関わる周りの人の記憶から消したと言うことなのか。そんなことが本当にできるなんて信じられない。呂花は信じたくなかった。

 持っていると思っていた自我は元々無いもので記憶も勘違い。他の誰かの記憶を呂花が持っていると錯覚した。それが事実の方がよほど救われる。呂花はそう思う。

(帰るべき場所───)

 万夜花星社が呂花の帰るべき場所だと彼らは言った。どうしてなのか妙に冷たい空気を感じる。

 帰るべき場所。それが本当に自分にあったのか。

 それでも今完全に一人になったからと言って、呂花が万夜花星社に戻るという選択肢はない。

 生暖かい風が体に当たり始めたようだ。空が黒い雲に覆われていってぽつ、と呂花の頬をしずくが濡らす。檜晶の雨がここまでやってきたのだろうか。まるで呂花を追いかけてきたみたいに。

 見るわけでもなく前を見つめていた呂花だが、一拍しておかしいことに気づく。風が吹いてきて雨が降ってきて、けれど今呂花がいる場所は真っ暗だ。黒一色しか見えない。ブランコの綱から手を放して呂花は思わず立ち上がった。 

 何かがいる。

 真っ暗な中で身構えて気配を探った。とても不穏な空気が漂っている。


───助けて!


 突然聞こえた声に呂花はびくりとして顔を上げた。


───嫌だ!

───ここはどこ?

───帰れない!


 ぎくりとする。自分の声かと呂花は思った。

 だが。

(違う)

 身構えたまま呂花は息を吸って吐いた。自分の声でも思考でもない。目がなれてきたのか。真っ暗な中で一つ見えたものに、呂花は生唾を飲み込んだ。

 聞こえた声。それは目の前に現れた真っ黒い四つ足の獣から発せられていた。虎に似ているが大きさはその三倍はある。

 少年の──很幽こんゆうの姿を見ていなければ。蠱魅という存在を知らなければ。そうでなければすぐにでも卒倒していたに違いない。でも気絶した方が多分楽だった。巨大な獣を前に当然呂花の体は震える。

 根拠はない。けれど目の前の獣は明らかに普通の動物でもない。おそらくは。

(蠱魅……)



 

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