第21話 訪れ

「……何だろうね?」

 京一きょういちに差し出されたものを手に受けながら、水有なかなりが言った。

 はたの廃社跡で京一が唯一、見つけた物だった。ぱっと見はその辺りに見かけるただの黒い石。角度を変えると少しだけ光沢があるかに見えた。硬さは形を簡単に変えられないほどで、鉱物なのか人工物なのか素人目にはまったくわからない。長さが二、三センチ程度で厚みは五ミリほど。形は整ってはいないが、元は円形だったのか四角だったのか。どこか変形したような感じはある。

 ふっ、と開け広げられた社司の部屋に湿り気を帯びた風が吹き込んできた。今日は明け方から曇っていて、予報では午後から雨が降ると言っていた。

「変わった質感だね」

 凹凸おうとつがあるような無いような。長時間風雨にさらされた鉱石に毛でも生えたような、そんな変な手触り。苔ではないが、繊維状の何かが覆っているような感触だ。

 手のひらの上で何かわからない物質を確認しながら水有は京一に言った。

くら星社ほしやしろだったよね」

「はい。廃社は六百年前になるようです」

主祀霊しゅしりょうは?」

にれの木です」

 楡の木、と水有が考え込むように繰り返す。

「御本体は廃社になったあとに、完全に枯れてしまったのだろうと」

 主祀霊の御本体が何であろうと、それぞれに寿命はある。主祀霊でなくても他の精霊しょうりょうもそれは同じで、本体の影響はあるものの基本的には長い時を生きる。ただし永遠はない。一般の人は知らなくても不思議はないが、主祀霊の交替は星社では頻繁ではないがあることだった。その交替が行われない場合は廃社となる。ただ、今でこそ星社は禳禦院じょうごいん─院できちんと管理されているが、昔は登録のない星社も多くあった。今よりも星社の数がかなり多かったのも理由の一つではあるだろう。この囷井門星社は院に登録があったから記録としてわずかだが情報が残っていた。この社も廃社になった頃にはもう人が周辺にほとんどいなかったのだと思う。星社の存在を知る人も管理していた院の人間だけだったのだ。

 京一は廃社跡を調べに回ることが多いが、それらに歴史を感じる一方で滅びていく、失われていくものへの物悲しさを感じることは少なくない。

「暗くなったって、結界だった?それとも陣?」

 問われて京一は考える。陣であればたいてい何らかの効力が発動する気配がある。あの時はただ暗くなってこの謎の物体が現れた。もし結界だとすればこの物体を保管していたのか。京一には今一つ判然としない。

「一概には言えませんが、どちらかと言えば結界に近いかと」

 それだけを言うにとどめた。

「そう」

 水有もその物体が何であるのか、触ってみたものの見当がつかない。外見はどこにでもある石。何かが宿っているような感じもない。廃社になったのが六百年前。星社の管理を院がまともに初めてからある程度時間は経っている。それでも当時の葉台はだいは治安なども含めて世界的にかなり不安定だった。

「池の跡は?」

 京一は首を横に振った。京一が現地に出向いた理由。それは鏡池と言う池がこの周辺にあり、更には近くに存在した星社に鏡が置かれてあった、と言う情報によるものだった。五百年前には引っ掛からなかった情報ではある。

「周辺を確認してみましたが、池らしき跡は目視で見つけるのはとても困難かと」

 それこそ地質学者やその道の専門家にでも聞かなければわからないだろう。周辺地域の歴史書も当たれるだけは当たったが、社と鏡を結びつける記録や池に関する記録も見つけられなかった。

「場所が元々湿地帯ですので」

 そういう要素が重なって話がどこかで作られてしまったというのはあり得ることだ。

「鏡自体はなかった、か」

「はい。他の何かがあるような気配はありませんでした」

 精霊の姿も付近一帯でほとんど見なかったから、それにも京一は驚いた。廃社になったとはいえ社のあった場所というのは案外気の流れも安定していて精霊が生じやすい環境が多い。六百年の間で流れやその質が変わってしまった可能性はある。

「いくつか星にまつわる話はあるようでしたが」

「星……」

「近くに流れ星が落ちたという言い伝えがあるのを聞きましたから、星霊と何か関連があったのかも知れません」

 水有が顔を上げて京一を見た。

「そう」

 彼はそれだけを呟くと、あとは分析方に謎の物体を調べてもらうようにとだけ京一に告げた。



陰人かげびとは言ったとおり、気の流れを使って術を完成させる」

 鎮めにまず必要なことは、現場に鎮めを行う陰人以外はも近づけさせないことだ。これは鎮めの絶対条件である。

「陰人でない人々は気の流れが感知できない。精霊も蠱魅やみも目に見えない。だから何が起きているかがわからない」

 対象である蠱魅は人や動物が驚いて騒いだりすると、それに影響を受けてますます深く負の、蠱魅の度合いが強まることがある。それは対象にとっても鎮めを行う陰人にとっても良いことではない。だから陰人は必ず鎮めの現場を日常の流れから切り離す。の安全の確保。これは陰人の遵守する基本の一つだ。

 そこまで聞いて呂花おとかは思い出す。蠱魅は蠱魅を呼ぶ。そうしんが言っていた。騒ぎが起こると混乱と不安そして恐怖を呼び、周りにとっての危険が増すことに繋がる。

 ふと呂花は思った。そういう危険があるとして、実は自分も知らないところでこうやって彼らに守られていたのだろうか。目の前の隼男はやおを見ながら呂花は妙な気分になる。

「鎮めの現場には一番初めの調査段階では分離結界というのを張るんだが、鎮めを行う時点では陣に切り替える」

 隔陣かくじん縛陣ばくじん防御陣ぼうぎょじん。この三つを陰人の基本三陣と言って、陣を起こすことを起陣きじんと言い、場に設置することを陣をくと言う。

「結界や陣は自分や周囲の気、あるいは力の流れを使って起こすんだ」

 隔陣は蠱魅を感知できない人間や動物達に気づかれないよう、害が及ばないようにその場を文字通り隔てることを目的とする陣。縛陣とは蠱魅が隔陣よりも外に出ないようにするために場を封鎖する陣。そして最後の防御陣はこれも名前そのままで、陣の外部に影響が及ばないようにするための陣のことを指す。

「三陣は内側から隔陣、縛陣、防御陣の順にく」

 この基本三陣をいて起こして、そこで初めて鎮めの段階に移れるのだ。

 結界と陣は似ているが、その違いは効力の保持期間にある。陣が一時的であるのに対し、結界は用途や強度に加えて陰人の能力にもよるが、高度なものになると耐用年数が数百年を越えるものもある。

「精霊の張ったものだと、数千年以上持った結界も実際にはあるからな」

 数百年でも実感の湧かない数字なのに、数千年と言われても反応のしようがない。けれど精霊の本体が様々であることは呂花も知識としては知っているので、その本体自体が長く生きるものならあり得る気がしないでもない。

「結界の耐用年数が長いのは、基本的に内側や外側にある何かを保護あるいはその状態を保つことが目的だからだ。逆に陣は基本として内側にある何かに対して作用を及ぼすことが目的になる。だから、結界の場合にはすとか張るとか言うな」

 鎮めの時に陣を使うのはそこに留まることが目的ではないからだ。そして陣の方が力の消耗も少ない。だから蠱魅の状況によってはその強度を調整することが多々ある。ただ一番内側の隔陣だけは場を他と隔絶するその性質上、最低限の強度が定められていた。

「結界も陣も起こし方はほとんど変わらない。自分と周囲の気や力を言霊で支えて起こす。……まあ他の技術も似たようなもんだが」

 言霊、つまりは言葉ということなのだろうか。

 確かに言葉に力が宿るとは時折聞くことではあるけれど、呂花はあまり気にとめて言葉を発したことはない。忌み言葉とかも時々耳にしたことはあるが、呂花自身はそれらを覚えてはいなかった。

「まず周辺の気の流れを感じて、どこで遮断するか範囲を考えて決める」

 その遮断した部分に自分の気や力を通し、部分的に空間を分ける。そして最後に結界や陣を起こす、発動させる言葉などを術言じゅつごとと言うがこれを発する。

「陣の場合はさっき言ったとおり、起陣と言って完成だ」

 考えることもなく、ただ言葉を追うように呂花は聞いているだけだった。

「おっ……、」

 急に隼男が顔つきを変えて声を上げた。つられて呂花も驚く。何かあったのだろうか。

「お、お前……」

 呂花を見て隼男は言葉を詰まらせた。何だろうと呂花は隼男を見るが、その背後に気づいてはっとした。隼男と自分の周りに白っぽい光が走って天井までを丸天井ドーム型に覆っていた。

 境部さかいべ本舎の二階から下りてきた美里みさとは、思わず足を止めた。階段の正面右側から隼男の声が聞こえてきて、そして鎮め方から電気とは違うぼんやりとした明かりが見えたからだ。

 階段は境部本舎の東側、分析方の詰所横にある。分析方の南側に廊下を挟んで鎮方の詰所があるが、その東向きにある出入り口は常に開け放たれていた。少しだけ気になって近づいてみると、こちらに背を向けた隼男と机を挟んでその前に座った呂花が隔陣の中にいる。

「……まだ、起こさなくていいから」

 隼男が呆れたように言った。

 何を言っているのかわからなかった。隼男の視線に遅れて呂花は気づく。

「え、私……ですか……?」

 逆に驚いたのは隼男だ。まさか自分が起こした隔陣に気づいていないのだろうか。

 呂花は自分と隼男の周りにある丸天井ドーム型の白い光を見る。確かに自分の体を何かが通った。風だと呂花は思った。流れ出た風は手の届くところで消えた。それだけだ。

 美里はきつい表情で呂花を見る。少しだけ立ちつくしていたが、そのまま向きを変えるとその場を去った。

 見ない、見えないふりをして。


「美里、もう少ししたら出るぞ」

「あ、はい」

 社務所前を通りがかった礼成まさなりの声に我に返った美里が答えた。今日は京一、礼成の二人と問題の紅八くやへ案件処理に向かう予定になっている。隣に座っている奥部おくべの一人で同い年の杉山すぎやま琴江ことえを美里はふり返った。すっきりとした小顔に笑みを浮かべて、短い黒髪を揺らしながら彼女は頷いた。あと二十分もすれば哲平も戻ってくる。

「行ってらっしゃい」

 声に返事を返しながら美里は社務所を出た。



 檜晶かいしょうを国内南東に離れた緒早納おさのに審はいた。人口の少ない緒早納は佐久羽良さくわら国内ではかなり田舎だ。田畑を離れ、山の麓より手前の場所に小屋のような建物が見える。所有者が時々来るのか周辺はある程度草が刈ってあった。一歩踏み出すとじわりと土から水が染み出てくるが、それを気にすることもなく審は建物に近づいていく。今にも倒れそうな建物がぽつんと建っている。誰の姿も見えない建物だが、近づく審に躊躇はない。

 ふと。

 人の姿どころか動物の姿さえ見えなかったこの場所は、一転して賑やかな場所へと姿を変えた。壊れかけてはいるが、思うより片付いて小屋の中は綺麗だった。数人が休める程度には場所があり、机と椅子が何脚か奥側に見える。その一つに座った人物は何かを帳面に書いているようだ。審が近づくと顔も上げずに彼は手を差し出す。

名紙ながみ……。ああ、あんたか」

 六十は過ぎているだろう年かさの男性は気づいたように言った。

登田とださん。おはよう」

 おそらく名紙を帳面に書き付けていたのだろう。彼は名刺大の紙をトントンと手元で揃えるようにして側にある入れ物へ重ねて置いた。

 背もたれの無い丸椅子に腰かけた彼はこのの世話人だった。

 ここは非正規の陰人が集まる場所の一つ。彼らの溜まり場のことをかたと言い、葉台各地に思う以上の数が点在する。この浮柁方、実は場所が決まっていない。それは良質な気の集まった場所、気溜まりに結界をほどこして集まるのが昔からの彼らのやり方だ。日頃から同じ世話人の溜まり場に来ていれば問題ないが、知らない内に場所が変わっていたりするので、その時はだいたい知り合いの陰人に聞いて確認する。

「ここ、登田さんの持ち物?」

 何となく辺りを見回しながら審が尋ねた。

「まあね。一週間前に田んぼの見回りしてたら気溜まりが見えてね。田んぼからは少し離れてるけど、ちょうど良いから」

 たまたま自分の土地で、たまたま小屋が建っていたのだと彼は言った。

「登田さんが草刈ったの?」

「そうだよ。精霊にブツブツ文句言われながら一昨日から二日間、で刈ったよ」

「うわ、大変。結構広いよ。ここ」

「本当だよ。あれはダメだの、これは良いだの。上だけよ!下まで切っちゃだめ!とか……。こんなに人がいなけりゃここまでしないんだけどね」

 精霊がいない場所では草刈り機を使ったり、耕運機を使うこともあるよと顔をしかめたまま彼は言った。大地に植物に動物に。動く動かないに関わらず、ありとあらゆるものの中に精霊は生まれる。気溜まりは良い気が溜まる場所なので、それらの存在がしやすいとも言われる。この浮柁方にも精霊達がそれなりにいた。

「掃除にまで文句つけられるんだから」

 愚痴をこぼす彼だが、そう言いながらも案外楽しそうで逆に審は可笑しかった。

『綺麗にするなら、完璧目指さないと!』

 ふっと机の上に何の精霊か、透明で小さな人形ひとがたの精霊が現れて言った。

「まだ言うよ。わしはもう体がガタガタだよ」

 呻く彼にとうとう審が笑った。

 笑う審に恨めしそうな視線を向けた彼はふと思い出したように言った。

「ああ、そうだった。縁令えんれい来てるよ」

「ありがとう」

 笑いながら礼を言って審は彼の側を離れた。


 陰人は特定の星社に所属して院に登録する正規とそうではない非正規とに分かれるが、この非正規のことを汎草はんぞうと言う。汎草は更に青帯あおおび黄帯きおびに分かれ、前者は浮柁方に関わりを持つ汎草で、後者はまったく他の陰人と関わりを持たない完全な流れ者の汎草のことを言った。これは民間社の二御柱ふたみはしらにある院の緑帯に対する言い方である。彼らの張っている浮柁方周辺の結界は陰人以外には見えないようになっているのだが、これが薄く青づいていることも由来の一つだった。陰人は正規であればどこに所属したとしても、必ず鎮めの仕事は割り当てられる。その束縛と負担を嫌って汎草になる者は特に近年増えていた。他にやりたい仕事があるとか家庭の問題などその抱える事情は十人十色。本来の仕事の間に手伝いとしてあるいは小遣い稼ぎ感じで浮柁方に関わる者が半数以上だが、汎草に関わる理由はそれぞれだ。

 彼らは正規の仕事を請け負うことはないが、陰人としての大綱部分を無視しているわけではない。もちろんその最低限は遵守しているし、浮柁方にもある程度の規律は存在していた。世話人がいるのもそのためだ。けれど汎草の彼らを分散させずに、一応の規律をぎりぎりで守らせているのは精霊の存在が何よりも大きいと言える。もう一つ彼らに規律を守らせる要因となっているのが、昔と違い院が案件をおおやけに汎草に回すようになったことだ。これは昨今の陰人不足が原因である。少なくとも五百年前までは汎草の案件分配は院を通さないものだった。だから正規と汎草は接触を持つことを表向きには嫌っていた。もちろんそれを守る者などほぼいなかったのだが。陰人の仕事には情報収集は欠かせない。

「ご無沙汰ですね。審」

 わずかに赤みがかった短髪と同じ色の瞳で縁令は審を見た。軽く笑いを含んだ言葉に審は少しだけ気まずそうな表情を浮かべる。あの日情報交換がてら浮柁方に来ていた審は数人の汎草が請け負っていた案件の処理後を確認して欲しい、と世話人の彼から頼まれて現地に向かう途中だった。このの頼まれ事は時々ある。

「縁令。この間は悪かった」

「急ぎの用件、片は付きましたか」

「……まあな」

 正直なところ落ち着いたとは言い難いのだが。

 むしろ、これからが大変だ。

「処理はどうだった?」

「問題はありませんでしたよ。きちんと浄化されていましたし、現場も収まっていましたから」

「そうか」

 二、三十人ぐらいいるのか。それを見たことがある顔だとか初顔はつがおだとか眺めながら確認していた審は、縁令の発した言葉にひやりとした。

「人に聞いたんですが。お宅の社、新人が入ったそうですね」

 ちらりと横目で審は縁令を見た。

「……耳が早いな」

 平静さを軽く装いながらも審はわずかな警戒を呼び起こす。

 一月いちづき縁令えんれい

 彼は汎草ではなく正規の陰人で、峰長みねたけ星社の所属らしい。檜晶かいしょうの東北にある山恵やまさとの星社だ。檜晶からはまあまあの距離で、呂花の出身地である晴上はれのぼりよりも遠い。だが一応同じ国内ではある。審が縁令と知り合ったのは二年前。自社に割り当てられた案件の情報を求めてこの浮柁方に来たのが始まりだった。それから情報の交換をしているものの、どうも彼には何か違う空気を感じる。彼は情報を得るのが早い。知り合いが多いのかも知れないが、案件の話から他社の話、場合によっては個別の陰人の情報もある程度持っているような節がある。ひょっとすると話に聞く院のかも知れない。そうだとしても別にやましいことはないので普通にしていて良いのだが、何となく構えてしまう。

「院ではちょっとした噂になっていたそうですからね」

 それを聞いて審は納得した。少し前に呂花はまどかと院に健康診断に行っている。その時の事を言っているのだろう。呼び起こした警戒を審は少しだけ解いた。呂花を院や支部で見かけた陰人達は確かに驚いただろう。それは仕方のないことだった。陰人は気を感じることができるが、引いては相手の中の力をも感じることができる。ただし、呂花の場合はそれが当てはま。呂花の中には確かに力が存在する。それは鎮めを一人で行ったことでも証明されている。しかし、何故かその力を少なくとも自分達には感じ取ることができない。自分達、そして周りでもその力を感じ取れる者がいないのは、桐佑きりゅうも同じだった。

「ちょっと、変わった体質なんだ」

 そうですか、と彼は頷く。そして横で息をいた審になおも言った。

「実は、檜晶でお店を開いている私の知り合いが、十日ほどか少し前にすごい子を見たと」

「え?」

 思わず審は縁令を見上げた。

「友達らしい女性四人と一緒にお店に入ってきたそうでしてね。本人はまるで気づいていないんですが、周囲に精霊がたくさんついてきていたそうです。それは驚いたと」

 審が表情を変えた。

の料理を注文するものだから陰人かと思ったけれど、まったく力を感じなかったそうです」

 体質的にその料理を選んだのかと思ったとも店主は言った。だが。

「けれど勘定を済ませてが店を出る際に緑色の風が、お店の中を流れていったと」

 審は息を呑んで縁令見た。



 この世界には空間と空間の間に狭間はざまと言う隙間がある。大きさはまちまちで、明るさもそれぞれ。安定したものもあれば不安定なものも多く存在する。そして狭間はどこにでもある。

「陰人はその狭間を感知、視認して利用している」

 多分、科学者達の領分だと思う。呂花にはどう頑張ったってその仕組みを理解することは難しい。

(はざま……)

 手元には狭間図と表紙に書かれた冊子がある。

 恐る恐る呂花は開いてみる。地図みたいな図と箇条書きにされた説明が記載されていた。

「これからは日常的に使うようになる」

 日常的と言われても、狭間と言うものの概念が呂花にはわからない。何をどういう風に使うと言うのか。呂花の表情は当然だが、隼男は説明を続けた。

「支部から院には行っただろう?」

 思い出して呂花は頷く。

「うん。あの転送場がそうだ。狭間を経由して移動するんだ」

(瞬間移動……)

  確かこれも最初に審が言っていた気がする。審、まどかと一緒にそれぞれ転送場に足を踏み入れたが、どちらも浮いた感覚だけだ。何かを通ったような感じは無い。

「狭間が離れすぎていない限りは、ほとんど瞬時に目的の場所にたどり着ける」

 その言葉に呂花ははっとした。晴上から檜晶にやって来たあの日。京一に腕をつかまれて、気づいたら社の前にいた。

「狭間には記号番号が振ってあってその管理、監視はすべて院が行う。ただこの狭間図にすべては載っていない」

 狭間の全部が使えるとは限らないからだ。

「狭間を一時的に通り抜けることをというんだが、狭間は通常空間と同じように見える場所や位置でそれぞれが繋がっていない」

 だから繋がっている狭間を考えて飛ばないと、まったく別の場所に出ることもある。

 転送場は陰人の負担を減らすために一定距離の狭間と直結されている。支部と院を繋ぐものはその典型的なものと言えた。ただ院は固定だがそれぞれの支部は場所が異なるので、自分の帰る支部の転送場の位置を覚えておく必要がある。

「もちろん狭間の記号番号とその配置なんてものはある程度覚える必要はあるが、鎮めの時以外は使う場所がだいたい限られてくる。通る狭間も決まってくるから、何度も通って体と頭に覚え込ませれば良い。その辺の道を覚えるのとほとんど同じに考えてもらったら良いよ」

 どんな仕事でも知識、技術の習得は欠かせないが、特に陰人の仕事では言葉で言い表せない文字通りのをつかむこと、覚えることは必須だった。


 この万夜花たかやすはな星社にも実は転送場があるのだと隼男は言った。案内された場所は境部本舎の建物の東側。壁のない吹きさらしの屋根の下に三和土たたきに打ち込まれた白木が区部縄くぶなわで円形状に繋がれているものが二つほど並んでいた。頻繁に使うことはないが、案件によっては遠くへ行くこともあるのでこの社には転送場が設置されているという話だった。

 抗議の途中で隼男が誰かに呼ばれたらしく、しばらく待つよう呂花に言うと詰所を出ていった。話しぶりでは多少時間がかかりそうな感じだ。

 残された呂花は目の前にある冊子に手を伸ばした。その頁を数回めくり、行き当たった箇所で手を止めると一点を見つめていたが不意に立ち上がる。そして周りを気にすることなく、呂花は隼男と同じように詰所をそのまま後にした。

 分析方、式方、各控え室、休憩室、そして事務方の側を通り過ぎて境部本舎を出る。

 外ではまとまった雨が降っていた。時折強い風も吹いている。

 まどかと社の外に出る時、結界が付してあるという境部から拝殿までの道のりに違和感は無かった。迷うような何かも感じることは無かったのに。何故あの時真っ直ぐ出られなかったのだろう。今でも不思議に思うが一人で行くとやはり迷ってしまうのだろうか。思えば支部に行った時に途中で逃げ出せば良かった。どうしてそこに思いが及ばなかったかと後悔をしたが、あとでまどかにを感じて、それでも逃げ切れなかった可能性はあると思った。力を感じ取られるものなら早々に捕まってしまったかも知れない。呂花に本当にそれがあるのなら。

 この社の転送場は支部のそれと仕組みは同じだが、支部と違って場所の制限はと隼男は言った。

 呂花は目の前の転送場を見る。

かい、合わせ」

 ふと白木の一部が消えた。

 躊躇うこと無く呂花はその内側へと足を踏み入れた。



 その日の昼前、院の第二観測室では極々日常的な観測の合間に報告が一つ、上がった。

「主任、十七区画にかたしの風が発生しています」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る