第18話 開かれた景色
時を遡るように思考をめぐらせていた
どういう場所のどういう状況なのかはまったくわからなかった。
老若男女様々な年齢の人達がそこにはいた。
ただ思い思いにそこで過ごしている、そんなようにも見えた。読書にふける人もいれば、お互いとの会話を楽しんでいるような人達もいる。遊んでいる子供もいれば大人に勉強を見てもらっているらしい子供も見えた。
待合室か何かなのだろうか。
でも何かどうしてか。目が素通りできなかった。
つい足を止めてそこに在る風景に見入った。
懐かしいような、ほっとするような不思議な気分になる。そして最後にやってきた急激な物寂しさに胸を突かれて、慌てて呂花は目の前から視線を逸らした。
そしてはっとする。
まどかの姿がなかったからだ。
少し自分が立ち止まった間に先に行ってしまったのだろうか。
だからといって焦る気持ちも不安な気持ちも呂花の中に浮かぶことはない。
頭の中を別の考えがよぎった。
はぐれたのならちょうどいい。引き返して先ほど出てきた院内の転送場から支部へ戻る。そこからなら外へ出られるだろう。
そう思ったけれど。
自分が歩いてきた後方をふり返って呂花は思わず立ち尽くした。
妙な気がする。
自分はまどかについて真っ直ぐ、一本道の廊下を歩いてきたはずなのだが。廊下の幅もそれほど広くはなかった。
両脇の壁は呂花の視界に入っていたし、急に開けた場所に出たという覚えはない。一本道の続きに、道の脇に気づいたらその部屋が、景色があった。
立ち止まった時の呂花は少なくともそう認識した。
けれど呂花が歩いてきたと思った後方には廊下ではなく、別の空間が広がっている。そして目を戻したそこにあるのも、出入り口の開放された部屋を中心に四方が大きく開けた場所だった。いったいこの先がどこに繋がっているのかまったくわからない。
(───……)
ひやっとしてそれでも呂花は周囲を見回す。
目の前を一人の少女が通りがかって思わず呂花は声をかけた。
「すみません、」
呂花の呼びかけに少女が立ち止まる。
少しくせのある茶色の巻き毛で、茶色の瞳。呂花の肩くらいの背丈で可愛らしい少女だった。
どこか人形のような色白の少女はくりくりとした瞳で呂花を見つめる。
「あの、病院にはどう行ったらいいですか」
少女の身につけている服がどうも現代風には見えない気がしたが、だからといって
強いていうなら、上が社着の上着で下がズボンとスカートを半分ずつ組み合わせたような服装のその少女は、ひとしきり呂花を眺めると柔らかく笑んだ。
そして不意に呂花の手を引いた。
「───っ!」
少しだけ驚いて軽く息を吸い込んだ呂花は、それでも困ったとか嫌だとかそんな感情は抱かなかった。
ただ手を引かれるまま彼女についていく。
少女の様子がとても不思議で、それに見入っていた呂花はどこをどう通ったのかまるで覚えていない。
気がつくと前方に少し先を歩くまどかの姿が見えた。代わりに今度は呂花の手を引いてくれていた少女の姿がない。
(!?)
立ち止まって呂花は全方位を見回したけれど、その姿はどこにも見当たらない。
「──……」
少女はどこへ行ってしまったのか。
礼を言うこともできなかった。
瞬間移動を簡単にしてしまう
少女を探すのをあきらめて、呂花はまどかのあとを追った。
そこから少しだけ進むとまどかが足を止めて呂花をふり返る。
「呂花、ここが
ふり返ったまどかは何事もなかったように呂花にそう言った。
なんとも言えない変な気分で呂花は彼女を見る。はぐれたわけではなかったのか。
それともはぐれたけれど、まどかが気づかなかったのか。
呂花はまどかからその後方に見える入り口へと視線を移す。
入り口の上には〈清痊方〉と横書きに大きな板札が掲げられてあった。
呂花が想像した病院の様子とは少し違う。
入り口から入ってすぐに受付があり、その横から靴を脱いで上がると少し広い待合室があった。
ここも畳の間で十五、六畳ほどだろうか。
ただ呂花とまどか以外には他に人の姿はなく、すぐに呼ばれると揃って奥の部屋へと案内された。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎた頃に休憩を兼ねて
「ああ、京一。お疲れ」
顔を上げた隼男が軽く労うように京一に言った。
「お疲れ様です」
整理の邪魔をしないよう、部屋の中央に置かれた
「どうだった?」
資料を整理する手は止めず、そのままの状態で隼男が尋ねた。
ふと京一の手元に符が二枚ほど現れる。それが唐突に消えて代わりに冊子が数部ほど彼の目の前にあった。
「五か所ほど見てきました」
「うん」
「……一か所。三番案件がありましたが、詳しい調査が要ると思います」
その言葉に隼男が京一を見た。
「
京一が頷いた。京一に案件資料を渡す前に確認したが、その時点で隼男も内容が引っかかったのは確かだ。
「現場が密閉に近い淀みで、対象が通常に比べて異常な状態です」
隼男が眉根を寄せた。
「異常、とは?」
「短時間で大きさがかなり変化しているようです」
京一の説明に隼男が少しだけ考え込むと、低く言った。
「……早い方がいいな」
「はい」
「
先ほど社務所の前で京一は
「今日は何件行く?」
「今日は前日分と合わせて六件行こうと思います。三件はすぐに処理できますから、一人でも大丈夫です」
「残りは?」
「できれば一人入れてもらえると助かります。哲平かまどかは手があいていますか」
式方はおそらく礼成の話しぶりでは当分誰も手があかないだろう。
「哲平は二件ほど別を
「ええ、大丈夫です」
基本的には
急ぐものからそうではないものまであり、だいたい多くて十件前後の新しい案件が一日分として万夜花に配分される。
ただし、万夜花に一番案件は回ってこない。しかも基本的に一般社には三番案件より上の案件は回ってこないはずだが、この万夜花に限っては場合によって四番以上が回ってくる。五番案件などの特殊な要請分というものも滅多にはないが、実はある。
万夜花は社司を筆頭に所属する陰人の人数が他社に比べて多い。それもあるが、万夜花は案件の処理能力が他に比べて高いからでもあった。抱える陰人の専門士達は揃って優秀な人間が多いのもその理由の一つである。
隠されているとはいえ、その正体が
「わかった。じゃあ今日はそれで段取るから、処理する案件資料を回してくれ」
「はい」
「粿美坂の件は明日俺が同行しよう」
「わかりました」
一時間半ほどで言われた資料を準備すると、隼男にそれを渡して京一は詰所を出ようとした。
「京一」
不意に声をかけられて京一は軽く首だけふり向いた。
「はい」
わずかに様子を確かめるようにしながら隼男は言う。
「お前、呂花が
入り口に立つ京一は隼男の言葉に、室内から出かけた体を彼の方へ向け直す。
ただその表情からはどんなものも読み取れない。
「何で言わなかった?」
強い調子はないが、それでも問いただすような隼男の言葉に京一はあっさりと答えた。
「お二方が側にいらっしゃいましたから」
隼男は静かに京一を見る。
「そのまま付き添われていったので、私としては報告の必要はないかと」
それに、と京一は続けた。
「私は直接本人と話したわけではありません」
確かにあの日の夜、京一は拝殿前で
どうして呂花がそこにいたのかどうやってその場まで来たのかはわからないが、主祀霊と話していてそのまま共に行ってしまえば京一としては何をする必要もない。
隼男は京一を見つめたまま言った。
「お二方が何ておっしゃったと思う?」
自分に視線を当てて一向に表情の変わらない京一に隼男は尚も続けた。
「呂花が飛んでたって」
わずかに京一がはっとした様子を見せた。
まさか万夜花に来たばかりの呂花が
「本人はそれに気づいてもいなかったようたが。しかも、部分的に外に出ていたらしい」
これには京一も顔つきを変えた。
「迷ってるようにも見えた、とお二方はおっしゃってた」
狭間を移動して拝殿前にいたのだとすれば、誰も気づかないということは有り得る。
(───……)
隼男は注意深く京一を見ながらもう一つ言う。
「やっと見つけたんだ。もう身を隠されるわけにはいかない。お前も呂花の様子には気をつけておいてくれ」
◇ ◇ ◇
「さ、帰ろうか」
院から支部へ戻りその建物の外へ出ると、まどかが言った。
普通の健康診断と違うことがあったようには思わなかった。身長、体重、視力や聴力、血圧の測定。血液検査等々一般的な内容と何も変わることはなかったと呂花は思う。でも。
一つだけ。
何を調べたのかはわからなかったけれど、呂花は健康診断の最後に計測器らしきものに手を当てるように言われた。
しかもそれはすべてが金属や合成樹脂などではなく、見た目だけでいえばほぼ木製に見えた。
そこで検査に立ち会った人達は何故か揃って驚いた顔をしたのだ。
よくわからなかったが、おそらく機器が動かなかったのではないかと思う。あとでまどかと医師が何か話しているようだった。
今まで健康診断で引っかかったことはないのだけれど。
歩きながら少しだけ考え込むようにしていた呂花は、微かな風に撫でられて思わず手を頰に当てた。
急に視界が明るくなったことに気づいて何となく顔を上げた。
そして立ち止まる。
目を見開いて息を吸い込んだ口元を薄く開けたまま、呂花はその場に立ち尽くす。
そこには違う見たことのない風景があった。
(……っ)
呂花のすぐ側でふふ、と微かな声が聞こえた。
自分の頰に手を当てたまま、呆然とその姿を見送った。
他にも様々なものが。
薄黒い地を這うような色が見えた。ただそれは少し先まで行って、小さな緑光とともに消えた。
(そ、)
「呂花?どうかした?」
前を歩いていたまどかが気づいて呂花をふり返る。
まどかに目を向けて更に呂花はそれに気づいた。
わかったのだ。いや感じた。
一般の人と陰人との違い。呂花の前にいるまどかと他の人達との違いを、はっきりと。
目の前が急速に開かれていく。
見回せば辺りにも、遠くにもたくさん、その存在は見えた。地を歩き、宙を飛び、たゆたい、消えては現れ、そして呂花の周りにも。くっついて離れて転がって。
泣いて怒って笑って。爽やかで穏やかで、優しい彼らの─精霊達の姿がたくさん、見えた。
初めて自我に気づいた時のように、その世界は突如として呂花の側に現れた。
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