第17話 視線

 檜晶かいしょうの中央より少し西側に位置する禳禦院じょうごいんの東第二十五支部は、人通りの少ない路地の更に奥まった場所にあった。

 奥まった場所にあるとはいえ、人気が少ないだけで側を通る道は決して窮屈な感じはしない。

 周りを通路幅だけあけて木々で囲まれたように建つ木造平屋の建物は、中へ一歩入ると以外にも広かった。

 そして思うよりも人がいる。

 外の静まり返った様子が嘘みたいだ。

 入り口から少し入ったところに受付の窓口が四箇所ほどあり、そのうち三つは埋まっていて一番奥側の受付にまどかと呂花おとかは向かった。

 簡単な仕切り板パーティションで隣と隔てられたそれぞれの窓口には、机の上に番号の書かれた木製の立て札プレートが置かれてある。

 星社といい、この支部といい、呂花は時代を遡った気分で周囲をさりげなく見回した。

「えっ……と。その、後ろの方ですよね?」

やや年輩に見える女性職員の思わずといった確認に、まどかは仕方がないと思う。

 ちら、と物珍しげに周りを見ている呂花を見ると女性職員に向き直った。

「そうです。検査はまで通っていますから」

 軽く息を呑んだ彼女にまどかはそれに、と続ける。

「昨日、仮登録の許可通知をいただきましたが」

 はっと何かに気づいたような微妙な表情で職員はまどかを見た。仮登録の申請書はこの支部を通して院に提出していて、その許可通知も支部から受け取る。

 女性はひとまず納得したのだろう。まどかと呂花を交互に見ながら言った。

「あ、では出生番符しゅっしょうばんふを」

「呂花」

 促されて呂花は無言のままズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 出生番符とはこの葉台に住むすべての人々に与えられる、名前と個人番号の書かれた身分証のことである。昔はそれこそ木製の札に書いた物だったようだが、今は各自治体によってその材質も形状もそれぞれである。そうはいっても日常的に所持するものだから物質としての材質は紙か金属、あるいは合成樹脂などがほとんどで、形は小型方形カード型のものが多く見られる。

 その他に個人の環境次第にはなるが、電子情報として端末管理を併用するのが一般的である。

 この佐久羽良さくわら国でも物質と電子情報の二種併用が普通だった。呂花もそれを利用する一人である。だいたいは端末のものを使うが機械が壊れないという保証はないし、何かの理由で端末が使用できないこともあるからだ。

 受付の女性職員に透明な入れ物ケースに入れた紙の出生番符を渡した。

 この出生番符は葉台において身分というよりはその人のを証明するもので、記されているのは番号と氏名だけだがこれさえあれば世界のどこへ行っても通用するし、例えどんな状況に陥っても何とかなる。

 人間の間では最も重要とされる世界の身分証なのだ。

 ただ今の呂花の状況を考えると、本当に通用するのかどうかは疑問だった。

 出生番符を受け取ると、女性職員は後方にある机に向かった。

「ええ、と。見守みもり、呂花さん……晴上はれのぼり赤黄飛あきとび星社、ですね」

「……そうです」

 この出生番符、実は発星社が発行する。

 葉台にはいつからかは定かではないが、かなり古い時代から子供が生まれるとすぐに星社に参拝する風習があった。そのやり方は様々だが参拝自体はどこの国や地域でも必ず行われている。この風習のことを初社参しょしゃまいりといって子供の誕生を祝い、その健やかな成長を祈るのだ。出生番符はこの初社参りの折に発行される。

 ただそうはいうものの、星社では出生番符は発行のみで出生登録やその前後の各種登録、その他の申請などはそれぞれの役所で行い、もちろん番号の管理もその後はすべて役所の管轄となる。星社が先か役所が先かはそれぞれの状況次第だがこの出生番符の発行があるために、葉台において初社参りは今や誰もが必ず行うものとなっている。

 番号の確認をしながら軽くこちらをふり返った彼女は呂花が頷くと再び二人に背を向けた。多分情報端末の画面でも見ているのだろう。完全にこちら側へ背を向けた彼女の様子は呂花にはわからないが。

 少し間をおいて作業を終えた女性職員は二人の前に戻ってくると、呂花に出生番符を返却しながら尋ねた。

「仮登録はこれで完了です。今から院へ?」

「ええ。健康診断の予約を取ってありますから」

「そうですか」

「ありがとうございました」

 ため息のような言葉にそう言ってまどかが行こう、と呂花を促した。

 それに答えることもなくただついて行こうとした呂花はふと、受付の女性職員と目が合った。

 何がとはわからないのだが、その表情が少しだけ呂花の目に印象を残す。

(───何だろう……?)

「呂花」

 もう一度、今度は名を呼ばれて呂花はまどかのいる方向へ体を向けた。

 受付のある広い部屋を抜けると、そこだけ壁で仕切られたあまり広くはない個室のようなものが見えた。

 回り込んでその入り口に立ち、上下の大きく空いた押し開きの戸から中に入って呂花ははっとする。

 目の前の光景に見覚えがあったからだ。

 万夜花たかやすはな星社に連れてこられた日に見た記憶がある。

 しんの言った出入り口にそれは似ていた。

 土間の中央に腰丈の白木が五つほど打ち込まれ、区分縄くぶなわがめぐらされている。

「審とには行ったね?」

「───はい」

 小さく呂花は頷いた。

「うん。今度は院に───禳禦院にこの転送場から直接

「飛ぶ……?」

 意味のわからなかった呂花が不審そうな顔をしたのだろう。まどかが気がついたように言い直した。

「ここから直接するよ」

 もしかして。

(───瞬間移動……?)

 確かあの時審はそんな風なことを言った気がする。

 実際に体験したとはいえ、現実のことだと呂花には未だに信じられない。

 もう一つ、支部へ来る前にまどかが呂花に言ったことがある。

 自分の名前を口頭で名乗ってはいけない。陰人は口頭で人に自らの名前を名乗らないのだと、そう彼女は言った。あまりにも話が突拍子もないことで呂花は唖然とした。

 力の大きさや強さ、あるいは相手との気の相性によってはどちらかが片方の行動の自由を奪ってしまうことがあるからだと彼女は言ったが、呂花にはそれを信じることはできなかった。

 今まで呂花は他人と、知らない人間と口頭で名乗り合うことを日常的に繰り返してきたのだ。それで行動の自由を奪ったり奪われたりしたことなど一度もない。

 それを彼らは名前を取るとか取られるとか言うらしいが、いったいどういう仕組みかと考えようにも呂花にはまるでその想像がつかない。

 その時の呂花があまりにもそれを態度に出していたのか。

 片方の力や気にもう片方のそれが絡めとられて自由がかなくなる。そんな感じかなと言って彼女は苦く笑った。

 名前を言って気を発するから、強い力や気の流れに片方のそれが捕まると自由に動けなくなる。そういうことだろうか。

 だから陰人に名乗る場合は〈名紙ながみ〉という一般の名刺に当たるものを使うということだった。

 それは呂花にも理解できた。

 その名紙はすべて院で管理されていて、そしてどうやら呂花にもその名紙は用意されるらしい。

 まどかが呂花の分も今日院にするから、と言ったのだ。

 そんなことを言われたところで、呂花自身はまったく話を身近に感じることも、内容を深く理解することもできなかった。

 そして───。

 話の最後にまどかがひっそりと胸の内で思ったことを、呂花は知らない。

(───お前には、当てはまらんだろうけど)


      ◇   ◇   ◇


 禳禦院、事務方所属の倉沢くらさわ直也なおやはその一階、中央の受付窓口に詰めていた。

 彼がいる一階の受付は各支部、各星社に対するもので、方形に広がる窓口が大陸別に分かれている。東西南北のそれぞれの受付上部には大きく緑色をした三つの円をかたどった院の紋、緑星円りょくせいえんが掲げられている。

各大陸ごとの窓口はそれぞれ三つずつあるが、直也の担当は東側の三番窓口、即ち東国大陸だった。

「すみません」

彼が背後の棚に書類を分けているところへ声はかかった。

「は、」

 はい、と言いながらふり返ろうとした直也は思わず言葉と動作を止めた。

 窓口には二人の女性が立っている。

 そのうちの一人に見覚えはあったが、その後ろに立つ姿は記憶にない。

 それに。

「あの、すみません」

 もう一度声をかけられて直也はようやく我に返った。

「あ、はい。すみません」

 慌てて戻って受付台の前に正座すると直也は二人に向き直る。

「万夜花の者ですが」

「はい」

 軽いとは言えない驚きを覚えながら直也は二人を見た。

 十上そがみまどか。万夜花星社の陰人である。ただ同社の人間としては院へ来る頻度は少ない。

 しかもその彼女は直也の見たことのない人間を連れている。

 直也だけではないと思う。

 視界に入っただけでも、そこにいる人々が多分

 それをわかっていてなのか、それでもまどかは自分の用件だけを直也に告げた。

「定期の書類とそれから一名見習いに入りますので、こちらが関連の書類です」

 突然まどかの手元に二枚ほど長方形の薄い紙が現れて、呂花は驚いた。更に彼女はその厚みのまるでない薄紙を受付の彼に渡したのだ。

 書類というからには封書やあるいは透明な紙挟みファイルに入ったものを想像するのが普通だと思うのだが。

 まさかその薄い紙切れの中に書類が入っているとでもいうのだろうか。

 呂花が驚いている前で直也が思わず声を上げた。

「えっ。あ、あの。見習いとはその、後ろの方、ですか?」

「はい、そうです。支部での仮登録が終わりましたので、今から健康診断へ行くところです」

「あ、はぁ。そうですか……」

 あっけに取られて直也はまどかの後ろに立つ呂花をまじまじと見る。

(見習い───?)

 その場にいた誰もが直也と同じ心境だろうと思う。周囲も軽くさざめいている。

「帰りにもう一度こちらによりますから、書類に不備があればその時にお願いします」

 わかりました、と戸惑いをそのままに直也はまどかに返す。

 ただその視線はまどかの後ろに立つ呂花を凝視していた。

 再びまどかが呂花を促し、言われるまま体の向きを変えた呂花はふと、その正面にいた女性と目が合って足を止めた。

 視線が急にぶつかって驚いたのだろうか。

 一瞬はっとしたような表情を彼女は見せた。

 だがそんな偶然を深く考えることもせず、視線を外して呂花はまどかのあとに続く。

 今度こそ院の病院に行くのだろう。

 健康診断なら近くの病院でもいいと思うのだが。

 まどかの後ろを歩きながらぼんやりと呂花は思う。

 何か特殊な検査項目でもあるのだろうか。

 歩く途中で何度となく通り行く人々と視線が合って、呂花は少しだけ違和感を抱く。

 視線が合うというよりは視線をそれこそ絡めとられる、そんな気がした。

 その表情のどれもが妙に似ていて、だが何を気にすることもなく呂花はそのまま歩いていく。

 呂花が考え事をすることがなかったのは、この場所に流れる空気のせいだったかも知れない。

 肌に当たる感覚、いや体通り抜けていく感覚が星社に似ている気がした。思い返してみれば支部もそうだった。その場所にいること自体に嫌だという思いはなかった。むしろ落ち着ける空間だと呂花は思う。

 先ほどの受付も内側に畳がちらと見えて、窓口の人達は受付台の前に正座していた。ただ、服装はやはりシャツにズボンらしい。数人ポロシャツを着た人がいたが大方似たりよったりの格好だ。

 それでも万夜花と同じでスカートをはいた人は何故か見当たらない。それが不思議といえば不思議だったが気になることもなかった。

 転送場から歩いてくる間も今歩いている場所も、雰囲気が全部同じだと呂花には思えた。

 星社、支部、禳禦院。すべてが近代を取り入れながらも過去から続く流れを保っているのだろう。

 何故か気分が落ち着く。柔らかいというか、穏やかというか。ゆったりとしたような。

 空気に含まれる動き、振動、音、すべての

 それらをそっと感じとるようにしながら、呂花はまどかの後ろを歩いていく。


「倉沢君……」

 同僚の声に二人を見送った直也がふり返る。

「……かなり、驚いた」

 言葉どおりの表情のまま、直也は呟くように言った。

 自分の左隣、二番窓口に座る女性職員の矢椥やなぎまゆが何か言いたいような微妙な様子で直也を見ている。

「今の、十上さんでしょう?」

声を落とす繭に直也も小さく頷く。

「うん……」

 万夜花の陰人でここに寄っていくのは専ら占師せんじ仲宮なかのみやしんが多い。

 たまに結界士けっかいし冴木さえき礼成まさなりが寄っていくが、あとは同じ星社の人間で姿を見るのは式士しきし富士枝ふじえだてるだけだ。

 万夜花は実は陰人の間でそこそこ名の知られた星社である。

 それというのも二人の有名人がいるからだ。

 現代の三大占師の一人である仲宮審と儀式・祭祀の専門である式士のうち、その頂点に立つ衛姫ひろひめという役を担う富士枝照がその二人だった。

 彼女達は院の重要な儀式・祭祀には必ずといっていいほど呼ばれる。占師と式士は儀式・祭祀に 欠かすことはできない。

 ことに院で執り行うそれらは高度な技術を必要とする場合がほとんどだからである。

 だから少なくとも院の陰人であればこの二人の姿を目にする機会は多かった。

 それが原因なのか万夜花は意外に陰人の人数がいるにも関わらず、直也は他の人々をあまり見かけた覚えがない。多分あっても記憶に薄いのだと思う。

 ましてまどかの後ろに立っていた女性は。

「一般じゃ、って?」

 よそで上がった声に二人が揃って顔を上げた。

「───感じよね?」

 直也と繭が顔を見合わせた。

「でも、今見習いって……」

「え、年いくつなんだろうね?」

 まどかと呂花が去ったあと、一階の受付周辺では密やかな会話が広がりを見せていた。

「矢椥さん」

「あ、はい!」

 別からかけられた先輩の声に繭が慌てて受付台に体を向け直す。

 まどかは帰りにもう一度寄ると言った。

 隣では来院者に応対する繭の声が聞こえる。

 まずは書類を確認しようと預かった符のうち一枚を直也は


      ◇   ◇   ◇


 星社の祀殿しでんへ上がったのは初めてだった。

 万夜花に来た次の日、まどかに案内されて呂花はわずかな緊張を覚えながら中へと足を踏み入れた。

 その時何かとても薄い幕のようなものを通り抜けた感覚があって、呂花は審に連れられて初めて津暈直つがさねに行った時を思い出す。

 感じ方が少し違ったがあの時何かに似ている気がした。

 祀殿は室内が全部板張りでその一番奥側にまつだなが見える。

 その一番高い場所に淡い光を放つ直径が十センチほどの透明な球体が二つ、木製の台座の上に安直されてあった。

「あれは精霊石しょうりょうせきといって、主祀霊しゅしりょう様方の気を宿すものなんだよ」

 まどかがそう説明してくれた。

 綺麗に光るその石はずっと眺めていても飽きない。輝き方は不思議と一定の調子リズムを感じる。

 精霊達の息吹、鼓動、息遣いのようにも呂花には思えた。

 同じ星社内でも祀殿の中は少し空気が違う気がする。

(───……)

 二つの球体をしげしげと見つめる呂花にまどかが続けた。

 祀殿と拝殿の管理は鎮方しずめかたの管轄で、そこに所属する予定の呂花も今後頻繁に来るようになるらしい。

祈言いのりごととかっていうのはわかるかな」

 改めて問われると、はっきりわかるとは言いにくい。祈言というのは精霊達を前に発する言葉の一つで、ようはお願いの言葉である。

 精霊を前に上げる言葉は呂花もいくつか聞いたことがあるが、それらの中でも一番一般的に知られているのがこの祈言だ。

 ただ呂花は星社の拝殿前などでそれを言葉で発したり、胸の内で唱えることは実はあまりない。

 正確に内容を覚えていないこともある。

 呂花の微妙な反応にまどかは軽く笑った。

 儀式、祭祀─それらをまとめて社人やしろびと達は〈式〉と言うが、それらにおいてまずは主祀霊への挨拶と、こういう事をします、というが必要となる。

 そしてその前に行わなければならないのが、精霊をその場に招くことである。

「主祀霊をその場にお招きする時に上げる文言のことを招聘しょうへい前言さきごとと言うんだけど、」

 ふとまどかの言葉が途切れた。


 さぁ……。


 急に風を感じ、を、思い浮かべ呂花ははっと目を見開いた。

 まどかもはっとする。

『呂花ーっ!!』『呂花ーっ!!』

 元気の良い、耳にとても心地好い音が響いた。

『もう、大丈夫?』

『もう、元気?』

 淡い光が二つ。呂花の周囲に寄り添うようにやってきてぱっと弾けた。

 気づくと呂花の側に姿はあった。

「……とまあ普段、日常的にはそれを上げなくても、こうやって好きな時に好きなように人前に姿を現されることは、かなりあるかな」

 自由奔放で明るいのが精霊である。

 まどかが苦笑いしながら言った。

めいと、よう……」

 ぽつりとこぼした呂花にまどかが更にはっとして目を向けた。

「……うん。お二方がの主祀霊様だよ」

 突然現れたニ霊にあっけに取られたままの呂花を見ながらまどかが頷く。

 呂花の様子に芽と皣が互いの顔を見合うとそれぞれに言った。

久太きゅうたも心配してたよ』

『うん。すごく心配してた』

 久太。あの黒い社着やしろぎを着た少年。

 黒い烏の精霊。

 少しだけ考え込んだ呂花に芽と皣がその顔をのぞき込むようにした。

『呂花っ!』『呂花っ!』

 もう一度声を揃えて名を呼ばれ、呂花が面食らう。

『元気になったら、』

『たっくさん』

『遊ぼーねっ!!』『遊ぼーねっ!!』

 芽と皣が交互に言って、そして最後は再び声を揃えて言った。

 同時に淡い光は室内のすべてに広がった。

(……遊ぶ……?)

 広がって周囲に溶けていく光を見渡しながら呂花はどういうことなのだろう、とちょっとだけ不思議に思った。

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