第16話 片隅

「世界は天・現世・常世の三つに分かれると言われる」

 初めての講義で隼男はやおはそう呂花おとかに切り出した。

 人々がいる場所はその三つの内の現世なのだという。それ自体が正しいのかどうかはわからないが、現世ではすべてのが何らかのとして存在する。

 昔の人々は自分達の頭上、すなわち空が天に通じていると考えた。だから宇宙に浮かぶ星々はすべての物事に対し、見えない影響すら及ぼすものだと信じたのだ。

 一方で地上─葉台はだいに存在する精霊しょうりょう達もその一部だと人々は考えた。何故なら葉台もまた、宇宙に浮かぶ星の一つだからである。

 精霊は意思を持ち葉台が生まれたその時から様々に存在していて、その多くが長い時を生きる。人など比にならない膨大な知識と人にはあり得ない力を備えた、天の使者だと人々は考えたのだ。

 人々は彼らと交信する手段を得て自らを含めた葉台の安寧を共に保とうとしてきた。

 天は星々を通して精霊達をしてその力を生じさせるのだという。その力の源のことを人々は─気─と呼び、あらゆるものの座や相によって様々に変わる力の効力を多くの場面で活用してきた。

 その力は葉台だけではなくすべての世界に、存在達に大きくも小さくも影響を与えるものである。

 例えば、良き気の流れは良き循環をもたらし、良質な環境と良質な状況を生み出す。逆に悪しき気の流れは循環を失って滞り、質の悪い環境と状況を発生させるのだ。

「それ自体をと呼ぶこともあれば、そこに現れた状況や状態のことを負と言う場合もある」

 そう隼男は言った。

 そしてその負から生じた蠱魅やみと呼ばれる存在を鎮めるのが陰人かげびとの仕事だと彼は呂花に語った。


 そう。

 循環を失って気が滞り、質の悪い気が相性の悪い気が集まってしまった時など。

 そういう場所に、蠱魅は現れる───。


      ◇   ◇   ◇


 微かに響くさめざめとした人の泣き声は、聞こえた人間にとっては気になるけれども普段なら関わることを避けるはずのもの。

 更には誰かと喧嘩でもしたのか、それとも路地に入って迷子にでもなったのか、子供の泣きわめく声が聞こえてくる。そしてまさか置き去りにされたわけではないだろう。ついには赤子の激しく大きく泣く声すら聞こえてきた。

 道行く誰もが本当はあまり関わりたくはないたぐいの、

 ただそれは側を通りすがる人々の耳に飛びついて、到底確かめずにはいられない気にさせる。

 気になって思わず足を踏み入れた者は、誰もがその場で息を呑んだ。

 薄暗い場所を照らすように大きく明るい光を放つ一本の大木が、そこに立っていたからだ。

 葉はみずみずしく艶の良い黄緑色で、こんもりと茂る枝ぶりはとても見事だった。

 目にした者には聖なる木に見えたかも知れない。


 だが───。

 幻想はあっという間に崩れ去る。

 その聖木は突然姿を変えた。


『死ねッ!』

 強い衝撃とともに酷い言葉が飛ぶ。

 ふっ、と真緑の光が閃いて京一きょういちの目の前では音なく弾けた。

『何様のつもり?』

『どいつもこいつも口先だけ』

『少しは自分で考えて、自分でやってくれ』

『馬ッ鹿じゃねぇ?』

『最近の若者は……』

『偉そうに。これだから頭の固くなった古い人間は……』

『勝手なこと言って』

『一緒になるんじゃなかった』

『持ってる奴らが全部だせよ。持ってない下の人間から全部吸い上げてるくせに』

『先が見通せない人間が文句ばっかり言って』

 短い言葉から延々と怨嗟のような長くつらつらと続く愚痴、嫌味、恨み辛み、嫉妬……。

 それは往来が激しい道沿いの、建物が入り組んで建ち並ぶその一角にひっそりといた。

(……咺蔓樹かんまんじゅ───)

 ぽつりと胸の内で呟いて、京一は目の前を見つめた。

 その手元にふっと数枚の紙が現れる。

 ぱらぱらと中身を確認するように京一はそれをめくった。

 確かに支部から回ってきた資料にはとしてその名の記載がある。

 本体区分は思念体しねんたい。級位は下の中級に相当する。対象の数は一体。通常であればほぼ一番案件に該当し、状況にはよるもののせいぜいが二番案件の内容だ。

 だが、資料には案件とある。

「……」

 咺蔓樹は名前のとおりその形は樹木だ。

 様々な音、多くは泣き声のことが多いが、それで人などを引き寄せて幻想を見せる。相手が幻想に見とれている間にで捕らえて精気を吸い取ったり、自分の一部あるいは別種の蠱魅へと引きずり落とすこともある蠱魅だ。

 一見した姿は美しい樹木に見えるが、その本性はまるで違う。

 咺蔓樹は本性も確かに見た目は木である。ただ太い木の幹から直接伸びるのは細くしなるであり、それでも一般的な蔓生植物とも少し違った。

 細い蔓にびっしりと隙間なく葉がついていてその大きさも大きいものは直径が一メートル、小さいものは直径一ミリほどで見えるのか見えないのかわからないものもある。葉の色も様々で強い風もないのにそれが生き物のようにうねって上へ上へと向かって絡まり合いながら伸び上がり、周囲に大きく広がっている。

 ただの木と見るには異様な姿だった。

 陰人に発見される以前に一般の人々の間でもこの場所の不気味な噂は少なからずあったらしい。

 付近を通る時に異音を聞いたり、妙な言葉が聞こえたなどの話があり、最近になって泣き声が聞こえるという話もいくつかあったようだ。更には腕や足をつかまれたが何もない、あるいは触れられた気がするが何もないなどの話も聞かれたと資料にはある。

 ただそれ以外に被害が出たという報告は今のところ無いようだが。

『世の中全部壊れてしまえ!』

『うるせぇなあ』

『人間みんな公平、そんなの幻想だから!』

『嘘つき!』

『みんな自分が良ければ良いに決まってるんだから!』

『全部消えろっ!!』

『サイアク。また自己満足の押し付けですか』

『ハイハイ、あんたは偉い。あんたは賢い。わかったからどっか行って!!』

『自慢はよそでやれって。自分に酔ってんだろ』

『無能な人間が。身の程を知れっ』

『わかるフリしなくていいから』

『……いなくなってくれたらいいのに……』

『どうしてうちは違うんだろう……』

『何でこんな目に……』

 咺蔓樹のうねる蔓が京一の目の前を何度も掠める。

 その度に葉の葉脈や主脈が生き物の口のように割れて音が発された。

 一般の人々にまで聞こえた声の正体。それは咺蔓樹の葉から発されるこの負の言葉だった。

 咺蔓樹自体それほど珍しい蠱魅ではない。極々ありふれた、負の溜まりやすい場所に多く見られる蠱魅である。

 あるいはで陰人に早期発見されやすく、被害や影響がでない時期に浄化されることが多いのだ。

 ただし数が増えたり長期に渡って誰にも見つからず成長すると、音が大勢の耳につくようになり影響が及んでくる。

 咺蔓樹は音で多くの存在を引っ張るため、対処はしやすいが状況によっては難易度が上がる。

 そのため下の中級に指定されているのだ。

 今回は思念体なので本来なら最も軽い対処ですむ。この場ですぐに鎮めを行うことも可能だ。

 しかし目の前の咺蔓樹、問題は大きさだった。

 蠱魅自体も長く放置されれば様々に変化する。

 この咺蔓樹の成長もその一つだ。

 咺蔓樹の成長を促すのは負の思念などの場合が多い。それらが集まって次第に形を成すのだが、咺蔓樹はどんなに大きくなってもだいたいが成人の平均的な背丈からそれをやや越えたくらいまでで、それ以上で見つかった例はほとんど聞かない。

 だが今、京一の目の前にある咺蔓樹はゆうに十メートルはあった。

 現場の周囲を見渡した京一は場が負の気を溜め込みやすい環境であることを確認する。

 広い通りを一本中に入ったそれでも狭くはないこの場所だが、見る限り気の逃げ場がない。である。

 希にないこともないが、淀みの周辺では概ね気は流れている。だから普通は少し流れに変化があれば淀みは消えてしまうものだ。そもそも気はどこにでも流れている。どうしてこれほど気の出入りが難しい空間が出来上がったのか。少しだけ京一は不思議に思った。

 元々の環境もどうやら負を生じやすい場所らしい。そのため他から流れてきたも吸収されやすかったのだろう。

 場を覆うような高い建物や塀などで周りを囲まれており、日当たりも悪くほとんどが陰になる。

 陰は良くも悪くもその本質を隠す。

 特に人間は咺蔓樹の叫び続けているようなを抑え、隠して生活している人がたくさんいる。

 短く短絡的な言葉はどの時代でもある。ただつらつらと発される怨嗟のような言葉が最近は多い。

 聞く気はないが耳に入ればやはり気が滅入る。

 細い気の流れが別から幾筋か感じられるものの、勢いは緩く流れを起こせるほどの強さはない。

 この場所にたどりついた、たった一つの淡い思念が種となり更に他の思念を集めて巨大化した。

 ただそれでも目の前の咺蔓樹は太りすぎだ。

 気のまりやすい場所はいくらでもある。だがそれは気がとどまる環境がある、というだけで、まったく流れないということではなかった。

(……)

 昨今の蠱魅は低級だが数は五百年前と比べても圧倒的に多い。そこに含まれる負にも強くたちの悪いが含まれていることが、実は多かったりする。

 少し前に処理した黒蠱くろこの一件もそういった思念は多かった。現場に集まった中にあった、唯一の意識体。それがそのすべてを吸収して千年蠱せんねんこになるに至った。流れとしてはそうなのだが、経緯のすべてではない。黒蠱が黒蠱をどれほど大量に吸収したとしても大きさが変わるだけで別の、しかも格が二つ上の千年蠱になることは過去の記録上でも見られない。第一に黒蠱から千年蠱になるには長い時間が必要となる。

 だが傾向として負の度合いが強ければ強いほど、蠱魅は獣化するものが多い。現象となって形を取った場合でも、状況が酷いものがほとんどである。逆に負の度合いが弱ければ単純な形をしたものや、現象であっても誰も気づかない程度のものになる。そして誰にも知られないまま自然に浄化されることはよくあることだった。

 黒蠱の件も問題だが今回は案件の対象が咺蔓樹だ。咺蔓樹はやや動物に寄った部分はあるものの分類としては植物だ。植物系の蠱魅の場合、そのほとんどが弱い思念に単を発したもので、状態の変化も影響が周囲に広がるのも遅い傾向にある。

 だがこの大きさはどういうことなのか。

 しかも咺蔓樹たいしょうの発見から案件として京一の手元に回ってくるまでの時間が浅い。

 対象発見時の記録と今目の前にある現場の状況。対象の大きさが四、五メートルは変わっている。たった三日でこれだけ大きさが変化することは咺蔓樹の場合、ほぼない。

 また一つ。暗いどんよりとした光を放って咺蔓樹の蔓枝に葉がついた。

 側の道を幾人かの人々が通っていて、そこから一つが流れてきた。誰からかをたどる意味はないが、ただその人々の中には小さな子供の姿もあった。

 人の流れが途切れるとともに京一は再び咺蔓樹に目を戻す。その手元の資料が消え、代わりに二枚ほど符が現れる。京一はそれを宙へとほうり投げた。

 一枚は現場の様子を監視するための記録符でそれは空中に溶け込むように消えた。そしてもう一枚は院の巡視班が案件目付札あんけんめつけふだに同化して場に大きく結界が広がる。

 これは案件が院の管理から案件担当者に渡ったことを示すもので、案件目付札─通称、あるいはなどと陰人は言い、その案件の現場目印が正規結界に切り替わった段階で処理が始まったと見なされる。

 めつけが立った時点で現場は一般の人が近寄らないように簡易的な隔離結界がそれに組まれてあるが、更に陰人が調査段階に入った時点において張る結界のことを分離ぶんり結界といった。

 どちらにしろ無関係な人などが現場に近づくことや、現場の影響が他に広がるのを防ぐ目的で張られるものである。

 京一はひとしきり周囲を見回していたが、そのまま場をあとにした。

 案件はこれだけではない。

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