第13話 陰人

 ふと気がついて呂花おとかは困惑した。

 戸を開け広げた畳の部屋には、朝日が遠慮がちに差し込んでいる。

 いったいここはどこだ、と自問しかけて呂花は急に我に返った。

(夢じゃ、ない)

 呂花が目にしている周りの景色は、自宅の自分の部屋のものではなかった。

 するりと薄い毛布が肩から膝の上に滑り落ちるのがわかって、呂花は思わずそれに目を向ける。

 小さく息をいてもたれかかっていた壁から背中を離すと、呂花は自分の両腕を抱えた。

めいよう

 すぅと自分の中に入り込んでくるその言葉なまえに、呂花は不思議な感じを抱く。

 言葉には表せない、どこかくすぐったいようなそんな感じ。

 一緒に部屋まで戻ってあれからずっと側にいた。何を言うでもなく二人はただ側にいてくれた。

 いつの間に自分は眠りに落ちてしまったのだろう。そしていつ、彼女達はいなくなってしまったのだろうか。

 いや、と呂花は思う。違う。

 二人はいなくなったりなどしていない。

 姿が見えなくなっただけ。

 そう思ったけれど、それも違う。

 あ、と呂花は気づく。

(溶け込んでる……)

 そう。ここは、万夜花たかやすはな星社ほしやしろは、彼女達の

 二人は今この場のに存在している。

 呂花には彼女達の気配がはっきりと感じられた。側に二人がいることが何故かわかる。

 芽と皣だけではない。もっとたくさんの二人の眷属がいる。

 呂花の中に多くの気配が入り込んで、通り抜けていく。

 少しだけ、呂花はその感覚に浸ってみた。

 爽やかな風の流れが、いくつも呂花の中の隙間を走り去る。

 何を考えることもない。

 まるで自分が消えたみたいな。でも嫌な気はしなかった。

 このまま。

 呂花の脳裏に言葉が浮かぶ。

 だが不意に呂花の意識は目の前に戻った。

 外で扉を叩く音がしたからだ。

「───呂花」

 静まり返った辺りに、きつすぎず、それでも強く通る声が響いた。

 しんだ。

「呂花、入るよ」

 心持ち大きい声でそう言って、審が扉を開ける音がした。

 足音が近づいてくるのがわかる。

 呂花は動こうとするでもなく、呆然と目の前を見つめていた。

 夜が明けたのに。

 今も自分はこの社にいる。

 すべては夢で終わらないのか。


      ◇   ◇   ◇


 宙を裂いたその向こう側。空間と空間の間ともいうべき場所がある。

 自分の姿すら見えないほどの暗闇から、遠くが見渡せるくらいの薄闇。針先を少し広げたほどの大きさから、向こうの端が見えないくらい広い場所まで。

 通常空間がひしめき合い繫がり合うその間に、そっと現れる隙間のことを〈狭間はざま〉という。


 禳禦院じょうごいん、通称いん特務とくむ数名が緊急の要請を受けて菊七咲ひなさき星社に向かったのは夜半より少し前だった。

 事の発端は院のひがし第四支部より同社に下った三番案件。じょう級の蠱魅やみ三体が発生したという内容である。

 陰人の処理する案件は内容の難易度によって五段階に分けられ、その難易度は大多数が発生する蠱魅の上中下といった級位きゅういで決められる。

 基本的には諸問題の発生、発見と同時に院に直接または支部を通して報告され、院内で精査、分別を行ったのちに案件として登録される。あとは登録された案件からほぼ自動的に院もしくは支部から各星社に分配されるのだ。

 案件の難易度は低い順に一番から五番までである。ただし菊七咲星社のような一般社に回ってくるのは、通常高くても蠱魅の級位が中級までの三番止まりだ。それ以上は院の鎮方しずめかたや公社、あるいは準公社所属の高い能力を有す陰人達の仕事になる。一般的な陰人達には四番、五番の案件はまず回ってこない。

 当然菊七咲星社側も支部から回ってきた三番案件だから、特別不思議に思うこともない。

 鎮めは事前調査から行うのが普通で、担当者達の事前調査の段階では現場に特別な異変は見られなかった、との報告を同社の社司も聞いている。

 状況が一変したのは、彼らが鎮めのために現地に赴いた、まさにその時だったのだ。

 明らかに異常な事態が彼らの目の前で起きた。すぐに退避しようとした彼らはその間を与えられなかった。咄嗟に一人が赤符せきふと呼ばれる緊急を知らせる符を放ったが、彼らの意識はそこで途切れてしまった。

 狭間を常時監視している院の第二観測室では、計測器を覗いた担当者が息を呑んだ。

 狭間の異変はそれほど珍しいものではない。ささいなものから、そうでないものまで常に狭間は変動している。

 だが今回はそのどれにも当てはまらない。

 誰も目にしたことのない状況がそこにある。知識としてある過去の事例にもない現象が、今目の前にあったのだ。


喜田きださん!……久志ひさしっ!?」

 菊七咲星社境内の奥まった場所に、十数人ほどが集まっていたが、目の前に現れた二人にその全員が目を疑った。

 五十歳代の大柄な男性が、二十代そこそこの若い男性を担いだまま、その場に倒れ込んだ。それだけで全員が言葉を失ったわけではない。

 誰もが驚いたのは二人とも体が三分の一、いや若い彼にいたっては半分以上が黒く染まりそうな勢いだったからだ。

 二人は真っ白な社着を着ていて余計にそれがはっきりとわかる。まして若い男性の方は下腹部の辺りからひどい出血をしているのが見えた。

「はあっ、はぁ……っ。たっ、頼むッ!久志を……ッ!!」

 その言葉に場は一気に騒然となった。

敷田しきたさん、霊水れいすいっ」

 定樹さだきは後輩の援護士えんごしが差し出した桶から柄杓ひしゃくで霊水をすくうとまんべんなく、特務の若い男性職員の体に振りかけていく。

 一般的な鎮めでこんな桶に入れるほどの霊水を使うことは、まずない。

 どうして彼は、彼らはこれほど強いう羽目になったのか。

 蠱魅の術やしゅを受けたり接触があるなどしてその気の影響を受けることを、陰人達はうという。

 だがまして彼らは院の中でも精鋭を集めた特務の人間だ。その彼らが何故。

 しかも定樹の目の前に横たわる彼の下腹部には、まるで何か獣にでも噛みつかれたようなあとがある。

 これほど酷い状態の負傷者は院の鎮方職員である定樹も見たことがなかった。

 菊七咲星社の主祀霊しゅしりょう先鎮さきしずめをして浄化陣じょうかじんと強い結界を張れ、とにかく浄化が先だ、と言ったけれどまったくそのとおりだった。

 まずは浄化しないと彼が。下手をすると自分達も含めて周りまで引き込まれてしまうかも知れない。

 今彼の側にいるだけでも、とても強い蠱魅の負の気配を感じる。

 もう一人、特務の今回の責任者である彼はそれでもマシだ。意識もはっきりしていてったのも三分の一ほど。ただしそうは言ってもをこれほどうことが、果たして今の時世であるだろうか。戦乱の激しかった百年以上前であるならいざ知らず。確かに数は増えている。だがそのほとんどが低級から中級であるのが、現代の蠱魅の状況だ。

 定樹は手元に符を三枚ほど現すと、意識を失った彼の体の上に放つ。

 符は彼の体の少し上で浮いたまま静止した。発動させると同時に強い緑光りょっこうがその体を包み込む。

 浄化符じょうかふである。院の陰人であり、まして定樹は鎮方の職員である。効力の強い符などは常に用意している。だが普段使うことはほぼなく、数もそれほど多く持ち合わせてはいない。

 続けて定樹は今度は別の活符かっふと呼ばれる回復用の符を六枚ほど手元に現し、同じように彼の体の上に飛ばした。

 頭部、両手、両足、そして中央に符は浮かび、白と黄色の光が明滅を繰り返す。両手を合わせて定樹は言葉を紡ぎはじめた。

佐星さぼし天頂よりぼし渡りて活星かっせいりる。気、極まり光と放て。復気浹心ふっきしょうしん

 言葉を結ぶと同時に、定樹は合わせた両手を強く組んだ。

 今度は透明な光が男性職員の体全体へ行き渡り、強い発光を起こして緑光の上に重なった。

 厳しい顔つきで定樹はそれを見ていたが、そのままの状態で言った。

扶術帯ふじゅつたい!」

 今度は扶術帯と呼ばれる術を織り込んだ特殊な包帯が定樹に手渡される。

 定樹はそれを手早く彼の下腹部に巻きつける。

 特務の彼らはとても酷い状態だ。だがそれより前に現場に行っていた菊七咲星社の彼らもまた、命に別状がないとはいえ四人全員が意識を失っている。

 いったい、あの狭間で何が起こったのか。

 普通の三番案件で何故終わらなかったのか。

「院に連絡!今から負傷者を運ぶ!」

 その声にはっとした春代はるよは閉じた狭間の入口、狭間口はざまこうをふり返る。

 春代は特務の一人だった。彼女は倒れた菊七咲星社の陰人二人を抱え、狭間から飛ぶ寸前に一瞬だけそれを見た。

 あれは何だったのだろうか。

 小さな光だった。


      ◇   ◇   ◇


 朝食を中部あたりべの食堂で済ませると、呂花は審に連れられて境部さかいべへと向かった。

 境部本舎さかいべほんしゃ入口から入って右手側。

 応接室を挟んだ事務方詰所つめしょの更に奥。

 小さな部屋の戸を審が叩いた。

「入るよ」

「はーい」

 中から明るい元気な声が返ってきた。

 審が引き戸を開けて入り、促されて呂花も後ろから続くように中へと入る。

 六畳ほどの部屋の真ん中に一つ机が見えた。その机の上に資料らしき書類を置いて奥側にまどかが座っている。

 低い位置でまとめた髪と同じ黒色の瞳で、呂花を見るなり彼女は愛嬌あるその顔に笑みを浮かべた。

「おはよう。ええっと、呂花」

「……おはようございます」

 まどかの挨拶にも表情無く、小声で呂花は返す。

 改めてまどかは呂花を見やり、審も内心でため息をつく。

 初めて見た昨日の呂花の様子は、自分達に対して明らかな不審と警戒がある。

 小柄で眼鏡をかけて立つ目の前の姿は、まどかにとっても桐佑きりゅうとは結びつけにくい。

 まったくの別人に見えたのも本当だ。

 それでも自分達にとって呂花が桐佑であることはまぎれもない事実であり、水有なかなりが言ったように言葉でこうだと言えるようなたぐいのものではない。

 ただまるで記憶がない上に、一方的に連れてこられたと本人が言ったらしいから、そうだとすれば呂花の自分達への拒絶は当然だといえた。当面はあまり無理強いをせず、様子を見守るしかない。

 ちら、とまどかは審に目を向ける。

 おそらく彼女もまどかと思うことは同じだろう。審はまどかに小さく目だけで頷いた。

 もう後戻りができないのは、二人ともわかっている。

 まどかも審も呂花が望む望まないに関わらず、情報を与えるしかない。

「じゃあ、そこに座って」

 自分が座る机を挟んだ向かい側を指すと、まどかは呂花に言った。

 言われるままに呂花はまどかの示した場所に腰を下ろす。

「なら、あとは頼むよ」

「了解」

 審の言葉にまどかが応じた。

「さて、と。今日の予定は聞いたかな」

 そう言ってまどかは切り出した。

 聞くつもりはなかったが、審の言った予定は一応呂花の耳に残っている。

 午前中が中部と奥部おくべの案内をまどかがして、午後から審が主祀霊に会わせると言っていた。

 言葉なく呂花は頷く。

 他の話はどうでもよかったけれど、主祀霊という言葉だけは呂花も気になった。

 その言葉を聞いたときに何となく、芽と皣の姿を呂花は頭に思い浮かべた。

 審に問う気はなかった。

 他の誰かに確認する気も起こらなかったけれど、多分そうなのだと思う。

 この星社の主祀霊は、芽と皣。

 今も柔らかな彼女達の気配は呂花の側にある。

 嫌ではない。むしろいつも呂花が感じると同じ。とても良い─い感覚だ。

 だから余計に呂花を深く戸惑わせる。

「うん。で、中部と奥部へ行く前に少しだけ星社との中身について補足説明するからね」

 審より穏やかな印象のある彼女は、ゆっくりと話し出す。

 まず星社から、と彼女は言った。

 星社のことを関係者達は単に〈やしろ〉と日常的には言う。

 社は人が精霊しょうりょうを祀って、その土地やそこに住む人々の平穏無事など諸願成就を祈る場所だ。

 そして社には社人やしろびとと呼ばれる人々がいる。

「昨日社司しゃじがおっしゃったとおり、社人は今は二種類に分かれる」

 精霊や蠱魅を感知し鎮めができる社人と、そうでない社人だとまどかは言う。

 蠱魅と聞いて、思わず膝の上に乗せた呂花の手に力が入った。昨日の少年を思い出したからだ。

 まどかは呂花の様子には気づかずに話を進める。

「前者を陰人といい、後者を内社人うちやしろびとというんだ」

 内社人はだいたいが陰人の流れを汲む人々なのだが、当人はその力を有さなかった。

「星社はね、人が精霊と交信するために作った場所が始まりだと言われている。だからね、そもそも陰人が前提で星社は建ってるんだよ」

 驚いて呂花はまどかを見る。

「うちでは基本的に境部が社務所に詰めるんだけど、何でだと思う?」

 ここで問われることに対して呂花はほぼ答えを持ち合わせていない。

 ただまどかを呂花は見つめ返した。

「気の流れを感じ取れないと、いけないからだよ」

 気の流れ。大気や電気とかなら呂花にも少しは想像できそうだが。はっきり言って呂花にはわからない。

 説明は難しいのだと、まどかが苦笑いする。

 それでも呂花は感じているはずだと、まどかは思う。それは昨日、呂花自身が体験している。

「そうだね……。まあ、実際自然界にある気も含めてにはなるんだけど。わかりやすいのは人間の感情によって生み出される。良い気分とか悪い気分」

 ただそれを顔色とか雰囲気などその人の様子ではなく、その人を取りまく気の流れで陰人は判断する。

 ますます呂花にはわからない。

 全部が全部感情だけで気が構成されるわけではないが、そういったものが要因の一部となって良い気の流れを起こしたり、悪い気の流れを起こしたりする。

 気分の流れというものが外に漏れ出る物質としてあるかどうかを呂花は知らないが、では何故それがわかることが必要なのか。

「社務所の仕事も様々あるけど、一番端的なのはお守りなんかの授与品を渡すときだね。授与品を選ぶことを選定せんていと言うんだけど、相手の状態とその目的に応じたものを渡さないといけない」

 星社で扱う授与品には、すべて精霊の気の欠片─気片きへんを宿す。しかも授与品の中に入れる護符ごふは願いの内容によって違うから、それも考慮して渡すのだという。

「目的はもちろんだけど、気の相性の悪いものを渡してしまうと祈願成就の手助けどころか、気の流れが悪くなったり滞ったりして逆に蠱魅の元を生み出しかねないからね。気片は渡して相手の気と重なった時に護符が発動して〈力〉となる。だからうかつなものは渡せない」

 中には自分で選ぶ人もいる。そういう場合はよっぽど合わない物を選ばない限り他を薦めたりはしないが、だから気の流れが感じ取れないと社務所に詰めることができないのだと、彼女は言った。

「今のは授与品の話だけだけど。気を感じるっていうのはそのまま精霊や蠱魅を感知することなんだよ。精霊や蠱魅はその流れの中に存在するからね」

 星社の仕事とは本来、陰人の仕事そのもののことなのだ。

「主祀霊の力の及ぶ範囲内のことを〈領域〉というんだけれど、社人の根底にある一番の役割は主祀霊とともにその〈領域〉の安寧を保つこと。それにつきるんだ」

 領域の安寧を保つ。

 それは呂花が今までに聞いてきた地域の安全保つ、などと同じ響きに聞こえる。

 言葉自体の意味は違うのかも知れない。けれどもその向いている方向は、きっと同じなのだろう。

「社人がその安寧を保つのに最も重要なのが、だ。感知だけでは社の領域を安定させられない。蠱魅を見つけて鎮める。陰人の最大の仕事はこの鎮めだといっても過言じゃない。全員には見えない災いから、全体の安全を図る。それが陰人なんだよ」

 扱う中身が違うということなのか。

 ただ。

 呂花はもう一度強く手を握った。

(あの子は、違う……)

 蠱魅なんていうものじゃ、ない。

 それで、と机の上の資料をまどかは呂花の前に広げた。

「星社を統括しているのが禳禦院だっていうのは、聞いたね?」

 一つ呂花は頷く。

 覚えにくい名称だと思った。

 まどかの指先が示す資料の文字を見て、一層呂花はそう思う。普段使うことが絶対にない文字だ。

「星社の社格は上から公社、準公社、一般社、民間社。これはわかるかな」

 組織図のように描かれたそれをまどかは指で順に示す。

 公社、準公社は公政廷こうせいてい直轄、即ち禳禦院の直轄だ。

 残りの一般社と民間社は各地域にある院の支部が窓口として基本的には取りまとめをしている。

「ただし。ここには書いてないけどね、一般社と民間社の間には明確な線引きが、実はある」

 何の線引きだろう。

「それはね、陰人がいるかいないかだよ」

 資料から顔を上げて呂花はまどかを見た。

「一般社以上が陰人がいる社。民間社に陰人はいない。民間社の二御柱ふたみはしら、見たことあるだろ?」

 言われて呂花は気づく。確かに民間社の二御柱にだけ、それとわかるしるしがあった。

「真ん中に巻いてある緑色の布を緑帯みどりおびといってね。管理の一部を院がやってるって意味なんだ。……逆に言えば、陰人がいないという目印にもなる」

 何か急に呂花は落ち着かない気分になる。

 あまり気にしたことはなかったが、呂花が住んでいた周辺には考えてみれば民間社の方が少なかった。

「緑色は陰人にとって重要な色であると同時に、院を表す色でもある。院の紋を緑星円りょくせいえんというんだけど、これも緑色をしている」

 ほら、と禳禦院の文字の隣をまどかは指差す。

 内側を大きく開けた大中小三つの円が外側から重なるように描かれている。一番外側と内側が細い線。真ん中が二つより少し太い線で、いずれも色はまどかの言うとおり緑色をしていた。唯一、真ん中の線だけその色が濃い。

「星は?」

「───っ」

「えっ?」

 質問に驚いたわけではなかった。

 ただ目の前を何かがよぎって、呂花は息を呑んだ。

「どうかした?」

 まどかがびっくりして目を丸くする。

 自分でも驚きながらいいえ、と小さく呂花は返した。

 何がよぎったのだろう。

 心配そうにまどかはこちらを見ていたが、間をおいて話に戻った。

「……星は?」

「──えん……」

 答えた呂花にまどかが頷く。

 この葉台はだいでは基本的に星は円で表す。それは陰人もそうでない人も同じだ。

「そうだね。そして緑色。これはまた隼男はやお京一きょういちが教えてくれると思うけど」

 京一の名前が出てそういえば、と呂花は気づいた。

 審もまどかも何も言ってこない。知っていて何も言わないのだろうか。

 それとも彼は言わなかったのか。呂花が逃げ出そうとしていたことを。

 ただどちらにしても、呂花は京一には会いたくなかった。

「陰人の間では緑色は浄化の色をいう」

 じょうか─浄化─。

 昨日も聞いた。

「鎮めは浄化をして初めて完了となる。緑色の光、緑光が生じれば浄化ができて鎮めを終えたことになるんだ」

 緑色は鎮めが完了した色。

 呂花は昨日、少年が消えたあとに広間で緑色の光を見た。

 水有は呂花が蠱魅を鎮めたと言った。あれがだったのだろうか。

「この、星と浄化の色で表される院の紋は世界を表す。そしてもう一つ。陰人そのものをも表しているともいわれるんだ」

 陰人。

 いったい彼らは何なのだろう。気の流れがわかって鎮めをする。

 自分も陰人だと言われたけれど、呂花にはそれを理解できそうにない気がした。

「内社人のみの民間社は院が陰人部分を管理する。民間社にも主祀霊はいるからね」

 呂花の目の前に座るまどかは、なおも説明を続けていく。

「実はこの社にも内社人がいる」

 ふと呂花は昨日の審の話を思い出した。

 確か記憶部分は境部のみ、そしてそれ以外も境部と奥部の人間にしか話してはいけないと、妙な言い方をしていた気がする。

「中部が、うちではその内社人達の部署だ」

 居住区や食堂のある境部の北側。

 けれど中部から向こうは神社かむやしろの領域で同業者も知らない。

「彼らは、この社が神社であることを知らない」

 では何故内社人が中部にいるのか。

「さっき少しも言ったね。内社人は元々陰人の流れを汲むって。……そういうことだよ」

 彼らの先祖は本来の陰人として中部にいたというわけだ。

 全部じゃないんだけど、と言ってまどかは一つ息をいた。

「前はね、こんなにきっぱり分かれてなかった……」

 その言葉と表情は、わずかに憂いを含んでいる。

「昔はこんな線引きも必要なかったし、陰人の存在をこれほど隠すように公言してはいけないなんてこともなかった。まあ、自分から言う人はほとんどいなかったけど」

 世間的には社人で充分だからね、とまどかは笑った。

「見えなくても、感じ取れる人間は多くいたのに」

 少なくとも五百年前までは、内社人でも大多数が精霊を感知できていたのだという。

 何の理由なのか、現在では精霊を感知できる人間も大幅に減った。それどころか、本当に線を引いたように感知できる、できないが分かれるのだ。

「本当に大昔は人間はもちろん、他の動植物達もあらゆる存在がそれぞれに精霊を感知できて、意志の疎通もしてたっていう話もあるんだけどね」

 そこだけ、何故か強く呂花の耳に響いた。

 わからない世界をほんの少し、呂花は想像してみる。

 生命達が───みんなそれぞれに精霊達と意志を交わし合う。いったいどんな世界だろうか。

 賑やかで、複雑で。でも今よりはそれぞれの生命達も、もう少しお互いが身近だったのかも知れない。

 それがどういう形であろうと。

「だから今は、中部で陰人や神社にまつわる話はできないんだ」

 それでも元が大きい社だから人手がいる。

 だからそのまま彼らに内社人としていてもらっているらしい。

 他の社も例外ではなく、規模が大きかったり人手が少ない社には内社人がいる所もあるのだという。

「審にも言われたと思うけど、外でも注意してね。陰人の話は陰人にしかしない。神社の話は絶対にうちの陰人以外には話さない」

 星社に精霊、そして陰人。

 蠱魅や鎮めの話はとても呂花には理解できないが、その話自体を呂花は否定しようとは思わない。

 芽や皣達のいるこの社も本当は決して不快ではない。むしろ彼女達の領域はこんなに心地良く感じられるのに。

 それでも呂花はここに連れてこられる前の、あの場所に戻りたかった。

 何をどれほど丁寧に説明されても、呂花はここにとどめられたくはなかった。

 彼らの言い分を呂花は受け入れられない。

 呂花に対して彼らはあまりに一方的だからだ。

 彼らは呂花の言葉を聞くことなく、誰か知らない人間の生まれ変わりだと言って呂花をここへ連れてきた。

 しかも、呂花の生きてきた過去すべてを消してまで。

 その経緯を考えれば、呂花はどうあっても彼らに気を許すことはできなかった。

 今、呂花には自分しか信じられるものがない。本当は自分だって信じられない気になっている。確かなものがどこにあるのか、わからなくなっている。

 だからこそ、自分を信じるしかない。

 ここまで生きてきた自分を信じるしかないのだ。

 本当に自分の居場所が失われてしまったのか、納得いくまで確かめることさえあの時呂花はしなかった。

 職場の人に、家族に。

 たった一度拒絶されただけで自分がそこにいた人間ではないと、そこに繫がりがあった人間ではないと、それを事実としてどうしてあっさり受け入れてしまえるのか。

 呂花は誰に何度阻まれても、自分がせめてもう一度確かめることぐらいしたって良いはずなのだ。

(外に出る機会さえあれば───)

 まだ道は残されているはずだ。


      ◇   ◇   ◇


あき?」

 聞き慣れた声がして著はふり返った。

 驚いたようにこちらを見ているのは礼成まさなりだった。

 何か院に用事でもあったのだろうか。

「礼成」

 彼は足早にこちらに向かってきた。その短い黒髪が建物に差し込んだ光を反射して、微かに紫色が見える。

 側まで来ると彼は低く著に尋ねた。

「どうしたんだ。何かあったのか」

 無理もない。

 社人の正装である社着の、ましての正装ともいうべき真っ白い社着を、身に着けていれば。

 著は一般社である白怗はくせん星社の所属である。

 ただし、その一方で禳禦院内の占師方せんじかたにも所属していた。

 占師方技術統括主任せんじかたぎじゅつとうかつしゅにん。古い呼び名でいえば洞司とうじというのが彼の肩書きである。占師方技術統括主任というのは長いので、洞司ばれるのが通常だ。

 洞司とは昔から占師の中でも特に秀でた、技術的第一人者がなる役柄である。

 彼は院の占師方責任者である首占しゅせん磯脇いそわき小夜子さよこ、万夜花星社の仲宮なかのみやしんと合わせて陰人達の間では現代の三大占師と呼ばれ、その筆頭を行く人物であった。

 本来なら院内に常時勤務してその役目を果たすところではあるが、本人の希望と所属先の白怗星社の意向もあり、現在は兼務という形をとっている。

 わずかに著は黙り込むと、茶色がかった黒い瞳を礼成に向けた。

「……院司いんのつかさに呼ばれた」

 礼成がはっとする。

 院司とはこの禳禦院の最高責任者のことである。

 洞司の著が院の最高責任者に呼び出された。何かよほどの大事があったのか。

「審は何か言わなかった?」

 礼成は今朝方の審の様子を思い出す。

 何かが引っかかっているような素振りは、確かにあった。

「はっきりとは言わなかったが……。多分あとで自分も院に行くことになる、と言っていた」

 彼ら占師は、時折微妙な言い回しをすることがある。

 少しだけ気にはなったものの、ひとまず院の式方しきかたに打ち合わせに行け、と上司である審に言われて、礼成は今し方院に来たばかりだったのだ。

「そ・てはちきゅう。……九番くばん案件」

 いつも物静かな礼成の表情があからさまに変わった。

 そ・て八九とは狭間に付けられた狭間番号のことで、過去から今に到るまで見つかった狭間の順にそれは割り振られている。その番号は五十音と数字の組み合わせで表されるのだ。

 そして九番案件。

 案件は一番から五番までである。ただし非常事態が起こった案件に限っては、これを九番案件と呼ぶ。

 今回のように現場が急変したり、怪我人などの命に関わるような事態が起こった案件を他と分けてこう呼ぶのだ。

「何が起こった」

「……現象の一つとして、狭間のに新たな狭間が生じた」

 思わず礼成は言葉を失った。

 狭間とは通常の空間と空間の間にできる隙間であって、狭間の中に隙間が生じるという話を礼成は聞いたことがなかった。

「それは狭間、なのか」

 院の第二観測室は、計測器は狭間としてこれを検知したと報告している。

 しかも元の狭間を内から生じた狭間が呑み込んだと言った。

「ということは内で生じた狭間が、今はそ・て八九の場所にあるということか」

 礼成の言葉に著がそういうことになる、と頷いた。

「それで、案件担当者は?」

「四人全員が現地で意識消失」

 救助に向かった特務の内一人が大怪我。その一人を含む二人が極めて強いったらしい。

 今も一人は危険な状態だ。

「他は無事なのか」

「案件担当者四人と他の特務は、全員命に問題はない」

 まだ四人の意識は回復していないが。

「記録符は?」

 記録符とは文字どおり記録をする符のことである。

 文字、映像、音声、といった様々なものを記録する符である。ただこれは記録のみで通信はできない。

 礼成の問いに著は横に首を振った。

「発動させる間はなかったんだろうね。赤符を飛ばしてるくらいだから」

 赤符、と礼成の表情が更に厳しくなる。

 それほど差し迫った状態だったのか。

対象たいしょうは何だった」

 陰人がいう場合の対象とは、鎮めをする相手の蠱魅のことをいう。

影誘かげいざないが三体」

 影誘─見える形は人様々で、その影が人などに夢現ゆめうつつを見せて誘い、最終的には己に取り込んで大きくなる蠱魅のことである─は下の上級に相当し、五体以上であれば別だが、三体であれば三番案件になる。

 なのに何故、四人が意識消失で、二人が強力なうことになったのか。

「急に状況が変わったか……」

「事前調査の時までは、現場に変化はなかったらしい」

 案件の状況は確かに刻一刻と変化する。案件発生、発見時点、あるいは事前調査の段階では一番案件であっても、陰人が処理に当たる頃に二番、三番の案件に内容が変わることもある。だが一足飛びに四番、五番の案件になることは、かなり急激な状況変化がない限り、ほとんどの確率で起こり得ない。

熛星ひょうせい

 その言葉に礼成は著を見た。

 熛星とは個別の星の名前ではない。

 一つまたは複数の星の気が、瞬時に距離の離れた星々に何らかの影響を与える現象のことである。

 それはあまりに短い時間の現象で、道具や観測機器をもってしても捉えられないほど素早い動きだ。

 気づいた陰人がどれだけいただろうか。

 著は京一から預かった黒蠱くろこの一件を記録した記録符と合わせて星相板せいそうばんていた。ここ数日の星相板に浮かぶ気の流れが気になったからだ。動きは穏やかに見えるのだが、何かがひっかかる。しばらく見つめていたら、一瞬が明滅した。

 熛星はすぐにその変化は相にも事象にも現れない。

 気が共鳴したのか、それとも発生元から波及したのかは、後々のちのちにならないとわからないのである。

 もしこの熛星が何かの兆しであるとして、それも良いもの悪いもののどちらもあり得る兆しだった。

 しかも厄介なことに、その発生元を特定しづらいことが熛星の特徴でもある。

 そしてこの熛星は滅多に起きない。

 著がこれについて占おうとした矢先に、院司に呼ばれたのだ。

 この熛星が今回の九番案件の兆しだったのかどうかはまだわからない。

 今出回っている黒蠱の案件とも重なって、著はわずかな焦燥を抱く。

 だが一つだけ言えることがあるとすれば。

(事象自体の流れは、続いている……)

 全部に関わりがあるかどうか。そしてその先の結果はまだ絞り切れていないのだが。

「審はあとから来るね」

「来るだろうな」

 今の著の話では、来ないわけにはいかないだろう。

 今回の内容は重大だ。

 見えた兆しは兆しではない。本当の兆しは、そのほとんどが見えないところに潜んでいる。

 見落としも外すことも、占師には必ずあり得る。事象の数は膨大だからだ。ただこれほど異常な事態の、その手がかりを自分も含めて誰も見つけられなかったのだとしたら。

(今までになく、大きな中身が動いているのかも知れない)

「注意喚起の連絡が全社にいく」

 著が顔を上げて礼成を見た。

「審が来たら言っとくけど。今回の九番案件、白怗うちが引き取って万夜花そっちに依頼かけるから。京一にも伝えておいて。次は少し準備がいるって」

「わかった」

 礼成が頷いて返し、二人は別れた。

 半月後に院で執り行われる儀式に万夜花星社の式方が参加するため、その打ち合わせで礼成は院に来た。

 だがおそらく、今回のことでその中身も変わる。


 事態はどこへ向かおうとしているのか。

 それは今、誰にもわからないことだった。

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