第12話 暗闇

 眠れるはずなどなかった。

 今日という日は、いったい自分のどこにあるものなのだろうか。

 呂花おとかは自分の今という場所ときが本当に存在するのか、わからない。

 境部さかいべを北に出た中部あたりべの中に居住区はあった。

 中部本舎ほんしゃの西側、一列に並んだ木々とやしろもりに囲まれた内側に、寄棟よせむね造りの平屋が北から南へ向かって五戸ほど建っている。その一番南が呂花の住まいだと言われた。

 等間隔に並ぶ建物は高さ一メートルほどの垣根を間に据え、見た目も構造もすべて同じに見える。

 中は台所、浴室、手洗いトイレが完備で、四畳半の居間と家の西側に寝室らしいたたみじょうの部屋が続きで二間分あった。

 一人で暮らすにはやや間取りが広い。

 家はそう新しくもなく、だが常に手入れがされているようでそこまで古びた感じもしなかった。ただ境部の本舎などと同様、古い時代と新しい時代が交錯している部分がやはりある。

 その障子やふすまを開け広げたままの寝室で、静寂に埋もれるように呂花は膝を抱えて座り込んでいた。

 公政廷こうせいていから境部に戻ると、昼を挟んで今度は境部本舎の中を呂花はしんとまわった。

 間で彼女が何か話していたが、呂花の記憶には残っていない。

 そして夕方になってここへ連れてこられた。

 闇の色が濃くなった周囲に気を向けもせず、呂花はただ真っ暗な空間で物思いに沈む。

 自分が過ごしてきたあの日々は、何だったのだろう。

 どうやったら、あんな短時間で人の軌跡を消すことができるのだろう。それならむしろ、自分の記憶が操作されていると言われる方が納得はできる。

 他の誰かから見ればほんの、ごくわずかのことかも知れない。それでも自分なりにそこで体験し、受け取ってきた物事に対する思いや考え、そして感じてきたはずだったすべてが。

 今までに出会い別れてきた人達との繫がりやその記憶の全部が、一瞬にして崩れ去った。

 続いていたはずの日常はあっさり途切れたのだ。

 そういうことがあるにしても、こんな途切れ方をするとは呂花も思いもしない。

 流れる時の中から突然ぽん、と自分だけが存在丸ごと弾き出されたみたいだ。

 自分は本当に帰ることができないのだろうか。

 元いた、場所へ。

 大切な家族の、繫がる人々のいるあの場所へ。

 穏やかで小さな、それでも優しい幸せを感じられていた、自分の居場所だった。

 呂花はただ目の前を見つめる。

 明日になれば自分の部屋で悪い夢を見た、とそうならないだろうか。

 彼らはここが呂花の帰る場所だと言った。

 体験してしまったことについては認めざるを得ないのかも知れない。だがそのことと、呂花の帰る場所がここしかないということは別であって、呂花には絶対に認めることはできない。

 まして彼らは、呂花が知らない誰かの生まれ変わりだと言うのだ。

 もしそれが真実なのだとしても、生まれ変わる前の自分と、生まれ変わった後の自分は違う。

 今を生きる呂花じぶんとは違う。

 ここにきて呂花はこれ以上なく自分という存在に不安を覚えずにはいられなかった。

(私は、)

 本当に、自分おとかなのだろうか。

(いったい、誰?)

 あの会社の人や家族の不審そうな様子。ここにいる人達の怒りや戸惑い。

 それらに溶かされてかき混ぜられてしまうように、呂花は今まで感じていたと思った自分自身が消えていく気がした。

 そして自分の両手を呂花は見る。

(あの子は……)

 自分がその存在を消してしまったのだろうか。

 姿が見えて、呂花は確かにその姿に恐怖した。

 けれど本当に怖かったのは。

(……)

 あの時見えた、

 その中にいた男の子は、だったのだろうか。

 目の色を変えた大きな人間がたくさん、彼の後を追いかけていた。いや。その周りにも大勢の、人々がいた。

 人が、人を、何か。光る物を持って。

(……凶器……)

 呂花はふり払うように頭を振った。

 いったい何の映像なのか。

 そして更に彼を襲った黒い恐怖。

 呂花にも彼の怖かった、苦しかったその想いが、流れてくるように伝わってきた。

 けれど呂花には、彼を助けることはできなかったのだ。

 もしかすると自分を連れてきた彼ら以上に、呂花はあの少年に対して酷いことをしてしまったのではないのか。

 両腕に力を入れて、呂花は更にきつく膝を抱えた。


     ◇   ◇   ◇


「まどか、これも提出分と一緒にしておいてくれ」

 境部にある事務方詰所つめしょの奥で机から顔を上げた興輔きょうすけが、左手で書類を突き出すようにして言った。

「あ、はい」

 入口に近い席に正座していたまどかがさっと立ち上がる。

 事務方の詰所は境部、中部、奥部ともに変わらず、各本舎出入り口のすぐ横にある。ただし、境部だけは応接室を挟んだ隣に事務方の詰所があった。また社内のほとんどの室内は畳敷きで、一部が板の間になる。この境部の事務方も畳の間だ。

 書類を預かると、小さく息を吐いた興輔にまどかが言った。

加賀かがさん、お茶でもいれましょうか?」

「ああ、頼むよ」

 別の書類に手を伸ばしながら興輔は頷いた。

 それを確認してまどかは南の隅にある小さな机の前に座り、盆に被せてある布巾を取った。

「申請書は明日、お昼から支部に行って提出してきます」

 うん、と頷きながらも興輔は何かしら考える様子である。

 湯呑みに保温瓶ポットの湯を軽く注いで急須に茶葉を入れながら、気になったらしいまどかが小さく尋ねた。

「……どうかしたんですか?」

 いや、と小さく首を横に振るがそれでも興輔の表情は硬い。

 星守ほしもりの一人である桐佑きりゅうの生まれ変わりが見つかったのは、興輔にとってもほっとするできごとである。

 性別が変わっていて確かに驚きはしたものの、それはあり得ないことではない。

 しかも呂花は素質検査において、最終的に一人で鎮めを完遂した。

 記憶はなく、陰人かげびとどころか社人やしろびととしての知識さえない中で、それをやり遂げてしまった。

 それでも今の状況を興輔は手放しで喜ぶ気にはなれない。

 呂花があまりにも警戒と不審を露わにしていたからだ。

 更には検査の、鎮めの最中と浄化じょうかを終えた後の呂花の反応に興輔は驚いた。

 いきなり見えた蠱魅やみの姿に衝撃を受けたのかも知れない。だがあれほど強く怯えるような反応を見せるとは興輔も思わなかった。

 確かに呂花は桐佑の転生体であっても、今までは一般として生きてきている。

 だがそうだとしても、あの反応は少し異常な気がした。

 そしてもう一つ。

 京一きょういちの様子に興輔はわずかな不安を感じる。

 桐佑の好敵手であった彼がその変化に動揺するのはわかるが。

 興輔は机に肘をつくと右手で軽く額を押さえた。

 あの時水有なかなりと興輔の二人だけが残った広間の中央に、淡く大きな光が二つ現れた。


 ふあっと光が風に払われたその場には、幼い少女二人が立っていた。

「お二方ふたかたとも、どうなされたのです」

 水有がすぐに立ち上がると、その側に歩み寄る。

 容姿の似通った少女達は側へやってきて目線を自分達に合わせる水有を見た。

 一人は肩までの短い黒髪に、薄桃色の単衣ひとえ姿。もう一人は長い黒髪で、こちらは淡紅色の単衣姿だった。

 二人はその黒い瞳を見合わせると、短い髪の少女が言った。

『会いに行っても、大丈夫?』

「え?」

 今度は水有と興輔が顔を見合わせる。

『びっくりしてたって、が言ってたから……』

 長い髪の少女が続けた。

 何のことか思い当たって水有と興輔が驚く。

二御柱ふたみはしらの内側に入る時も、』

『随分躊躇ためらってたみたいだから』

 更にはっとして水有と興輔は二人を見た。


「加賀さん、お疲れですか?」

 気遣わしげに言いながら、まどかが興輔の机に茶をいれた湯呑みを置く。

「……いや。ありがとう」

 そう答えるものの、難しい表情を崩すことなく興輔はもう一度息を吐いた。

「加賀さん?」

 少し首を傾げて心配そうなまどかに、彼は低く言う。

「……まどか、審にもよく言っておいてくれ。様子に十分気をつけるようにと」

 その言葉に気づいたまどかが、顔つきを変えて頷いた。

「はい」


 

      ◇   ◇   ◇


 どれだけ座り込んでいたのか。

 確認しようとも思わず、時間なんてどうでも良い気がした。

 ため息をついて顔を上げれば、真っ黒い闇だけがそこにある。

(ここから出ないと)

 直感だろうか。

 急にそれだけが頭をよぎった。

 少なくともこの場に留まりたくないのなら、自ら外に出ていくしかない。誰かに止められたとしても自分の意志で呂花は出ていくしかない。

 その先のことは、ここを出た後で考える。

 一度に多くのことを自分は処理できる人間ではないのだ。一つずつ考えて、つまづいて。何度も失敗して。

 それでも結果を見定めるまでは、あがくしかない。

「……っ」

 自分の奥底から込み上げてくるこの感情が、重たい苦痛が何かはわからない。

 呂花は体を引きずるように立ち上がると、唯一の所持品である小さな肩掛けの鞄を持って部屋を後にした。

 外へ出て呂花は空を仰いだ。月の姿が見えない。

(……新月?)

 どちらにせよ月明かりが無いのは丁度良かった。

 中部本舎から見て西側のこの居住区は女性専用らしい。

 他の四つの家に明かりはなく、人のいるような気配も感じない。

 そういえば、休日以外はみな境部本舎の控え室を使う方が多いのだと、審が言っていた気がする。

 決まった就業時間もないと言っていたから、誰も戻ってきていないのかも知れない。

 誰もいないのならそれこそ好都合だ。

 問題は中部を通るとき、そして一番の問題が境部本舎付近を通るときだ。

 人に出会わなければいいのだが。

 夕方に審と通った道を呂花は急ぐように戻る。

 居住区を出る手前でわずかに立ち止まり、周囲に人がいないことを確認すると、呂花は思い切ってその場を後にした。

 暗がりや物陰に身をひそめ、息を殺し地を踏む足音にも気を遣いながら、呂花は二御柱の外を目指す。

 幸いなことに中部には誰もいないようだった。常夜灯がついているところはあったが、他に建物のどこかから明かりがこぼれることもなく、静まり返っていた。

 中部を出て境部に入った呂花の緊張は一層高まる。

 少し歩いて呂花はちらと顔を上げた。

 二階建てで中部よりも大きい境部本舎の輪郭が、暗い中に浮かんで見えた。

 上げた視線の先に薄く光が漏れているのがわかる。

 見つかるわけにはいかない。気づかれるわけにもいかない。

 心の中で誰にも見つかりませんようにと呟いて、呂花は夜の闇の中に一つ、歩を踏んだ。


 惹かれて、引き寄せられて。

 それらはふとした拍子に暗闇をさまよい流れ出る。


 するすると。さわさわと。ゆらゆらと。


 何を求めてか。求める何かがあるのか。


 ざらざら。ぎぃぎぃ。ぐぉんぐぉん。


───アア、光ダ。


 何かがそう思ったのか、口にしたのか。


───ココハ何ダ?

   自分は何故コンナニ

───アアア、何カガマトワリツイテクル。

   何ダ!

───気持チ悪クテ嫌ダ!!

───何カガ追イカケテクル!逃ゲロ!!

───何ダァ、コレハ?自分?

   自分トハ何ダ?体?形?


 どこにがあるのか。

 暗い闇の中に浮かび、這い、飛び、転がり。

 でも感覚はない。

 中身を留める制約かたちはなく、触れられない、見えない者達は知らぬ間にお互いを通り抜け、引っかけて、繫がって、離れて。

 そして声なき声で各々おのおのが叫ぶ。


───アアア、光ガ見エルノニ!!

───アソコ二行ケバ、何モカモハッキリス     

   ル!!

───助ケテ!!

───怖イヨォ!!

───アア!光ダ!!

───光ダ!!

───光ガ助ケテクレル!!


 それらは集まり、群がり、そして……。


 ぐうぅぅぅ……っ。

───助ケテクレ!!


 ガアァァ……アッ!

───苦シイヨオォォォ。


 目撃した彼らは言葉を失った。

 思念体しねんたいか、意識体いしきたいか。

 幾つにも別れた声が聞こえる。

 いや、だ。

 いったい、何が起こったのか。起きているのか。

 それはうねり、走り、跳ね回り。

 一瞬にして彼らの視界を暗く覆った。


 気を張りつめて歩いていた呂花は、途中でふと立ち止まった。

(おかしい)

 何故か建物にたどり着かない。

 先ほど境部本舎の一部を見てその明かりを確認したのだ。ほんのわずか歩けばその横を通るはずで、こんなに長く歩くことはあり得ない。

 確認するように今度は顔を大きく上げて呂花はえ、と思う。

 見えていたはずの建物の一部がない。

 更にはっとして足下に目を向ける。

(地面じゃない)

 地表であるならその質感はどんな感覚であれ土だと認識できる。

 けれどざらざらもしていなければ、水を含んだ柔らかい土でも粘土のようでもない。砂や石でも、更には舗装された人工的な何かの感じもない。

 何だろう。この身に覚えのない質感は。合成樹脂のような気もするが、何かが違う。

 確かに硬い。硬いし自分の重さに沈むこともないけれど、でも多分。ただ下にある層は薄く、伸縮性があるようにも思えない。だからといって割れたり崩れたりするという感覚を得ないところに呂花は戸惑う。

 自分が知らないだけで、こういう地表面があるのかも知れない。

 だがそれは明らかにおかしい。呂花が審と歩いた境部は表面が綺麗にならして固められた、土の上だった。

 心臓が鼓動を打つ速度を上げる。

 微かな風を感じて気づけば、いきなり目の前が

 いくら視力が悪かろうとも、暗さに慣れればある程度周りの様子は見えてくる。

 眼鏡を通して見える景色に呂花は硬直した。

(ここは……)

 見覚えのない景色がそこに広がっている。

 ますますおかしい。

 自分は今日たどってきた道を戻っているだけだ。

 なのに覚えのある景色とは違う、別の場所に呂花はいる。

 考えに気をとられて実はどこか違う道を通ったのか。

 まさかそれはないと呂花は思う。

 少なくとも居住区を出て、後は境部本舎が一部見える場所まで自分は行ったのだから。

 あそこから真っ直ぐ歩いてきたのだ。通る位置が少々ずれたとして、大幅に場所を外れるとは思えない。

 ましてこんな四方を壁に囲まれたような閉鎖空間に出ることはないだろうと思う。

 しかも。

(出入り口がない)

 いったいどこから入り込んだというのか。

 どこからか再び風を感じた呂花が吹いてきた方角を見て、目の前に帳が落ちる。

(な、)

 辺りがさっきと同じ、暗く景色のない無機質な空間に戻る。

 空気は息ができるからあるのだろう。でも違う。

 今度もまた別の場所に呂花はいる。

 肌に触れる空気の質というのか、それがまるきり変わったことだけは呂花にもわかった。

(迷った……?)

 そう思って瞬いた呂花は息を吸い込む。

 目の前の景色がまた違っていたからだ。

 迷ったとは到底言い難い気がする。

 とうとう頭がどうにかなってしまったのか。

 鬱蒼うっそうとした木々が呂花を囲んでいる。

 山の中なのか。ではいったいどこの。

 一歩足を踏み出して、呂花は目を見開いた。

「え……っ」

 耳に届いた音は。

 右斜め背後から差してきた光は。

(車!?)

 顔を上げて視線が捉えた景色は。

(歩道!?)

 車が側を通る歩道にいるのなら、自分は社の外にいるはずだ。

 呂花は慌てて左を向いた。

 社の外の歩道ならすぐ脇に二御柱があるはずだった。

 けれど顔を向けた方向に社の二御柱はなく、後ろをふり返りかけた呂花は何にかつられるように視線をずらした。

 その先に何かが見えて。

 あっと言う間に暗闇に消された。

 また質の違う空気が呂花に触れてくる。

「……っ!」

 どういうことなのか。

 今いる場所はどこなのだ。

 それとも自分は今眠っていて、夢でも見ているのか。

 呂花は強く自分の頰をはたいてみる。

 痛みを感じる。

 夢ではないのか。

 焦りか不安か恐怖か。

 心臓が痛くなる。

 一歩、二歩。

 景色は変わらない。

 歩いているそこはまったく呂花の知らない、わからない別空間のような場所だ。人の気配どころか、いつも感じる自然の気配もない気がする。

 そうだ。

 ここには何もない。

 ただ暗く、開けているだけ。道と呼べるものもない。

 そんな気がした。

 行けるところまで行ってみようと、呂花は自分が今向いている方向に真っ直ぐ進む。

 途中どれだけ来たのかわからない所で、呂花は足を止めた。

 耳が音を拾ったから。


───見つかったか。

───……まだだ。


 声が聞こえて呂花は耳を澄ませる。

 人がいる。

(まさか……)

 逃げだそうとしていることに気づかれたのか。

 誰だろう。

 あの境部の彼らか。

 身を隠せるような場所はここにはない。

(どうしよう)

 焦りが呂花の中に浮かぶ。

 直後、急にやってきた凍るような寒気に、呂花はいきなり身を翻した。


 バタンッ!

 強く戸が開かれるような音がして、黒い影が呂花が場所に立つ。


───何だ、どうした。

───いや。……気のせいだ。


 何でなのかは呂花にもわからなかった。

 足は声が呂花に近づく前に、向きを変えて走り出した。

 止まろうとは思わなかった。

 ただ無意識は呂花に走るように促す。

「はぁ……っ、はっ……」


───こっちだよ……


ふと聞こえた別の声に呂花が足を止めて顔を上げた。

 風が吹いてきたように思ったが、違う。

(空気が、)

 その質が、が変わった。


───こっちにおいで……


 その小さく誘う声が何なのか。

 迷う間もなく、声の聞こえる方向へ呂花は走る。

 恐怖はなかった。

 不安もなかった。

 何かをつかんだような、そんな確かなものだけを、呂花は感じた。

 何も見えないのに、流れている何かをつかんだようなそんな気になった。

 それの続く先に間違いなく出口があると、不思議と強い確信を呂花は抱いた。

 だからそのつかんだ何かをたどるように呂花は全力で走った。

 息が上がり走る勢いが衰えそうになった頃、急に目の前がもう一度開けて呂花はようやく足を止めた。

 肩が上下し、呂花の荒い呼吸の音だけが暗闇に広がって消えていく。

 薄く広がる闇の中で、その視界に入ったものに呂花は息を止めた。

「何で、……っ」

 呟いたのと目の前に気をとられたのが同時だった。

 今、何かよぎらなかったか。

 小さな。そう、淡い光が。

(気の、せい……?)

 気のせいがどこまでなのか。

『お帰りっ』

『お帰りっ』

 自分を導いた呼び声が真近くではっきり聞こえて、呂花はびくりとする。

 ふり返ろうと顔を上げたが呂花は思わず視線を下げた。

 自分の前後からひっしとしがみついてくる、小さな姿があった。

 目の前には肩までの黒髪に、ごく薄い桃色の単衣を着た少女が。

 背中側にはとても淡い紅色の単衣姿で、黒く長い髪の少女が。

 一拍の間をおいて二つの顔が呂花を見上げた。

 小さな花が大きく開くように、二つの顔から笑顔がこぼれる。

 辺りに風がふわりと広がった。

 風に乗った優しい香りが呂花をさらりと撫でて、境内を走り去っていく。

 顔立ちの似た二人のくるくるした黒い瞳に見つめられて、呂花は言葉を失った。

「……っ」

 何が起こっているのか。

 呂花は自分が錯乱状態だと、混乱しているのだとそう思わざるを得ない。

 けれどもそのしがみつかれた感覚は確かで、二人の体温までもがはっきりと感じられた。それにどこかほっとしている自分に、呂花は更なる戸惑いに襲われる。

 境部本舎の前を呂花は通った覚えがない。

 でも何故か目の前には殿がある。

 この社に呂花には理解できない仕掛けがしてあるとでもいうのだろうか。

 そして目の前に現れた小さな少女達は誰なのか。

『桐佑だ!!』

『桐佑だ!!』

 二人が同時に声を上げた。

 発せられた言葉に呂花は二人を凝視する。

『でも』

 と前方の少女が言った。

『桐佑じゃない』

 背後の少女が続ける。

「───っ」

 息を吸い込んでひどく震えるように、呂花は言葉をつまらせた。

 その様子に二人の表情が強張る。

「……わ、私は」

 気配と声に気づいた京一は、思わずその場に立ち止まると顔を上げて前方を見やった。

(何故、)

 見間違えたわけではなかった。

 どうして呂花がこの場所にいるのか。

 その肩には小さな鞄の紐が掛かっている。

 社を出て行くつもりだったのか。

 だが出ていこうとしていたのなら境部を通らなければならず、その本舎の側を通らないわけにはいかない。そこで誰かが気配に気づくはずだ。

 今の呂花の状態なら。

 しかも拝殿の前にいるからには、少なくとも礼成まさなりの結界にはひっかかるはずだった。

どうやって誰にも気づかれずにここまで来たのか。

「私は、

 絞り出すように、それでも強く言った呂花に少女二人が、そして遠目にそれを目撃した京一が驚いて目を見開く。

 呂花は何を考えたわけでもない。二人に〈桐佑〉と言われて怒りがわいたのでもなかった。

 ただもどかしくて。その想いが自分の中で広がって、反射的に言ってしまった。

 驚いた二人が呂花を前後から挟んだまま、顔だけを覗かせて互いに見合わせた。

 二人同時に瞬くと、ふっと前方の少女が呂花から手を離して宙に

 彼女は呂花に目線を合わせると言った。

。私はめい

 芽の隣に並ぶように背後の少女も宙へ浮かんで呂花に言う。

『私は、よう

 目の前に浮かぶ二人を呂花は驚いて見つめる。

 多分、おそらく。

  きっとこの愛らしい少女達も、検査の時に見たと同じ。

 精霊しょうりょうなのだ。

 立ちすくんだまま呂花は吐息のように呟く。

「メイと、ヨウ?」

 目の前を青い空が広がった。

 柔らかな風にそよそよと葉を揺らす二本の大木。

 側にあるのは、

「……っ、梅と、桜……」

 そう。

 呂花は入口で、を見た。

 二人に

 二人の間を、京一と


「離れてたら、淋しいだろ?」


 ふと、耳に届いた声。

 誰だったのだろうか。

 どこで聞いたのだったか。

 呂花に思い出す間を与えることなく、それは唐突に飛び込んでくる。

 そしてすとんと呂花の中に収まった。

「芽と、皣」

 文字なんて教えられてもいないのに、いきなりに落ちる感覚。

 嫌ではないが、逆にそれが恐ろしい。

『呂花、……』

『……大丈夫?』

 どこか怯えるような、呆然としたような呂花を二人は心配そうに見る。

 それでも。二人にはわかる。

 目の前の彼女は、桐佑なのだと。 

 同じ人物なのだと。

 それは言葉にはない、感覚。

『呂花。どこに行こうとしてたの?』

 呂花は芽を見た。

『行きたい場所が、あったの?』

 皣が続けて二人の視線に呂花が何故か

「私は……」

───

 そう思って出かかった言葉は、呂花の口元から出て行かない。

 二人を見て、でも呂花はその想いを二人に伝えることができなかった。

 やや離れた場所に気配を感じた芽が顔を向けて、気づいた皣が言った。

『京一』

 その言葉に呂花がぎくりと身を震わせる。

 拝殿から離れた、階段の前に彼は立っていた。

 見つかってしまった。

 芽と皣が顔を見合わせる。

『呂花。部屋まで一緒に行こう』

 芽が言って皣も頷く。

『今夜は私達が一緒にいるよ』

 両脇から優しく促されて、呂花は向きを変えるしかなかった。

 何も思うことは、思えることはない。

 ただ体は言われるがまま勝手に動いていく。それだけだった。

 思考も感情も、そして体も。今、呂花はとても疲れていた。


───りーん……


 誰もいなくなった拝殿から手前の境内に、微かな音が響き渡る。

 社の外。

 道路を挟んだ歩道に。

 並び立つ街路樹の側に沿い立つようにして、社を見上げる人影があった。

 辺りの暗さに埋没しているかのようなその人影は、夜明けの明かりが差してくると同時にその場から消えた。

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