第11話 星の神様

 体が浮いた気がした。

 足下に目を向ければ小さな光が広がって、消えた。それだけだった。

 光が消えると、そこに何か図形のようなものが見えた。瞬きする間もなく目の端に違う景色が入り込んできて呂花おとかは顔を上げる。

 呂花の今立っている周囲はやはり白木とそれに繫がれた区分縄くぶなわがあるが、屋根や壁のある小屋の中ではない。

 その代わりに向こうがわずかも見える隙間がないほど、密集した背の高い木に囲まれていた。

「呂花」

 声が聞こえて呂花がそちらへ顔を向ける。

 連綿と続く木々の一部に、大人一人がやっと通れるほどの幅の狭い切れ目が見えた。

 どうやらその先でしんが呼んでいるらしい。

 呂花は行きたがらない足を何とか動かして、その切れ目から外へと出る。

 外へ出て後ろをふり返れば、囲いは深い森の一部だった。

 この中に開けた空間があるとは、誰も思わないだろう。

 その場所から少し離れた先で審は待っていた。

 どこへ連れて行く気なのか、彼女は軽く呂花を手招いて木立の間を縫うように進んで行く。

 四、五メートルほど歩いたところで、行き当たった感覚に呂花は少しだけ気持ち悪さを感じた。

 一瞬だがさらりとした、密度の低い液状の何かを通り抜けたような、奇妙な感覚があったからだ。

 そして、思わず呂花の足が止まる。

 立ち止まった呂花を審がふり返る。

 ふり返った審の立つ向こう。その背後に浮かび上がった光景に、呂花はここが先ほどとは明らかに違う場所だということを悟る。

 まったく予想もしない景色が目に飛び込んできたのだ。どう考えても、もうここは星社ほしやしろの続きなんかではない。そこへ地続きで続く場所でもない。

 まるで別の場所だ。

 さっきまでいたはずの星社周辺に、これほど大きな建物を見た覚えはない。いや、こんな景色はなかった。

 呂花は審の後方に間隔をあけて立ち並ぶ建造物の集団に、その様子に呆然と見入る。大きさはそれぞれだが、いずれも角張った長方形だ。

 ここからは少し距離があるものの、飛び抜けて威圧を感じるのが、二人の一番手前にある建物だった。

 どれほど広さがあるのだろうか。どこまで高く伸び上がるのだろうか。

 その全貌はあまりに大きく呂花を圧倒する。小さな自分がもっと小さくなったように思えた。

 ここはいったい何なのか。

「あれ、見たことあるだろ?」

 審が言った。

 そうだ。だから呂花はこれほど驚いているのだ。

(そんな)

 確かに呂花はこの光景を見たことがあったから。

 ふと、頭の中を言葉がよぎる。

時と同じ───)

 理屈はわからない。

 けれど、おそらく京一きょういちが呂花を万夜花たかやすはな星社に連れてくる際に使った手段と同じだ。

 景色に釘付けになったままの呂花に審の密やかな声が届く。

公政廷こうせいてい本廷ほんてい

 幾度となく建て替えられたにも関わらず、歴史を感じさせる風格はきっとせることがないのだろう。

 大きさやいかつい外観と相まって、それ以上の重みを呂花はそのコンクリートと木材の入り交じったような建物から感じる。

 前方に立ちはだかった建物は、離れていても息苦しい感覚が迫ってくるようだ。

 呂花は公政廷の、まして本廷になど来たことはない。

 各国に必ず一つは置かれる公政廷の支廷していにすら行ったことがないのに。何よりも呂花は別の大陸に渡ったことがない。

 それでも葉台はだいに生きる人間ならこの建物が何か、知らない者はほぼいないはずだった。

 様々な情報媒体でその名と姿を見聞きすることもあれば、どの国の学校でもその教育課程で必ず教えられるからだ。

 世界の中枢であり、すべての国々をまとめてそれらの調和を図る機関なのだと。

少なくとも呂花はそう習った。

 それでも呂花にとっては直接関係のない、普段まるで記憶に上ることのない存在だ。それこそ星社などより一層身近な存在ではなかった。

 ただ、だとすればここは。

「……津暈直つがさね

「そう。ここは津暈直だよ」

 息を吸い込んで呂花は言葉を失った。

 先ほどまでは檜晶かいしょうにいたはずだ。

 檜晶は呂花のいた晴上はれのぼりと同じ佐久羽良さくわら国で、東国大陸とうごくたいりくの内陸西側、そのやや北よりに位置する。

 一方で公政廷の本廷がある津暈直は世界のほぼ真ん中の和国大陸わこくたいりくにあった。

 海で隔てられているはずの大陸を、あの一瞬で渡ってしまったというのか。

 確かに信じられない。信じられないはずなのに、何故か呂花は思ったほど衝撃的には驚かなかった。

「さっき通った円陣えんじん。あれは結界の一種でね。結界そのものをもとにして異なる空間を繫げてんのさ。簡単に言や瞬間移動ってところかな。まあ微妙に違うんだけど。……もしかしたら京一が使わなかったか?」

 彼は言った。一般的な手段を使う気はないと。

 小さく身じろぐ呂花に審が続けた。

「基本的には同じだけど、京一が使った方法とはちょっと違う。その詳しい話はまた別でする」

 あり得ないことを複数体験してしまったからなのか、それとも自分の頭がついていくことをやめたのか。

 話を遠い気分で聞きながら、呂花は目の前にある巨大な建物を見上げた。

 世界に存在する一小国。そこに住んでいるごくごくありふれた、何の取り柄もない本当にただの一般人。

 そんな自分が何でこんな場所に立っているのか。

それこそが呂花には信じられなかった。

「一部の星社は実はこんな風に、直接公政廷と繫がってる」

 呂花の思いをよそに審は話を先に進める。

 本当に、星社とはいったい何なのだろうか。ただ精霊しょうりょうまつるだけではないのか。

 その内側に陰人かげびとという存在を抱えるものがあり、更にその一部は公政廷と繫がっているという。

「私達が通ってきたあの出入り口は、それらの中でもまた別物だ。あれを知ってる人間は、うちの一部を除けば公政廷といんの一番上だけだ」

 一番上。

 それはどういうことなのか。呂花は一層底冷えするような感覚を抱く。

「公政廷の創設当初から万夜花はあるらしくてね。最初に繫いだ場所があそこなんだそうだ」

 審が軽く呂花の後ろを見るようにしながら言った。

「昔は公政廷も建物や規模が小さかって話だから、多分あの近く辺りに建物の一部があったんじゃないかな」

 昔とはいったいどれほどの昔なのか。

 呂花の想像の及ばないほど遠い昔には違いないのだろう。

「あの転送場てんそうばは普段私達が使うことはないんだけどね」

 公政廷の本廷には自分達は用事がないからだと、彼女は言った。

「使うのは、水有なかなり様と奥部おくべの連中くらいかな」

 おくべ、と呂花が小さく首を傾げる。

 審はこの時それについて何を言うでもなかった。ただもう一度呂花に向き直ると、少しだけ顔つきを変えた。

「何で、公政廷とうちのやしろがこんな繫がり方をしてると思う?」

 そんなものわかるはずがない。

 そう思った端で不意に呂花の脳裏を掠めた言葉があった。

 だがまさか、と呂花は思う。

 それは昔話、迷信。おとぎ話に作り話。ただの噂で言い伝え。

 そうやって頭の中で一笑に付そうとしたのに。

 背筋に嫌な空気を感じた。

 先ほど部屋で審が口にした、星守ほしもりという言葉。

 その言葉を聞いていなければ、おそらく思いつきもしなかっただろう。

 頭に浮かべた思いつきを呂花は笑うことができなかった。

 存在に関わる話は葉台各地に点在する。

 しかしそれらはおおやけに認められるものではなく、多くの人々に信じられているものでもない。

 それでも誰もがその名を耳にしたことくらいはあるだろう。

 何故なら詳細は不明だが、その存在をに祀る星社があるからだ。

 それは全精霊のいただきに立つといい、この葉台においては唯一名に神を冠する存在。

 それが〈星神ほしがみ〉だ。

 真偽はともかくも、葉台ではあらゆる物事の根本には必ず〈星の力〉があるという。

 その根源、力そのものが星神なのだともいわれるが、実際ほとんどの人々がその存在を信じていない。

 そもそもが誰かが作り出した偶像だと疑いの目を向ける人間が多く、他の精霊達ほど身近に感じられてはいない。

 それというのも、まとまった形や流れのある話が存在しないからだ。

 星神がどこにいたとか、災いを取り除いたなど、せいぜいがその程度で具体的に何をどうしたのかなどの中身ある話がない。

 その道の研究者であればもっと知っているのかも知れないが、世間に流布している分には詳細のわかる話が存在しない。

 確かに星神を祀る星社があるにはある。

 だがそれも間接的に祀るのであって、精霊そのものを祀るものではない。

 それは四社ほど存在し、しかも公社こうしゃと呼ばれる星社の中で最も上位の社格に当たる。

 場所や名称について呂花の記憶は定かではないが、そのすべてが東国大陸にあったと思う。

 公的な星社に間接的とはいえ祀られているのに、何故人々が疑うのか。

 元来、星社に祀られている精霊達は、それが地霊ちれいであれ星霊ほしれいであれ必ずと正体ははっきりしている。

 だがこの星神だけはようとしてその正体が知れない。

 更に間接的とはいえ、の星社に祀られていることが人々の不審に拍車をかける一因となっている。

 葉台には同一の精霊を祀る社が複数存在することは

 同一種の精霊を祀る星社は多数あっても、二箇所以上に精霊が祀られていることは、この葉台においてまずあり得なかった。

 精霊の本体─御本体ごほんたいが一精霊につき一つしかないからだ。

 加えて四公社にはそれぞれ別に主祀霊しゅしりょうが存在する。

 だから逆に時の為政者や権威者などの意向や思惑があって、無理矢理付け加えられた話だろうと誰もが懐疑的なのである。

 それでもこの流れから考えれば、大概の人間が星神に関する話だと思いつくのは決して難しくはない。

「どうした?」

 動きを止めて一点を見つめるような呂花に、審が怪訝そうな顔を向ける。

 一般には知られない広い敷地をようし、前世の記憶を持つ人間達の集まる星社。審の言った星守という言葉。そして遠く離れた公政廷とこうやってその星社は繫がっている。

 それに、審は先ほど何と言ったか。

 あの出入り口は万夜花星社の人間を除けば、公政廷と院の一番上の人間しか知らないと言わなかったか。

 星神の御本体を直接祀る星社はあるのだと、囁かれる程度には呂花も聞いたことがある。ただどこにあるかなどという話は少なくとも聞いたことがなかった。

 中身が乏しい話の中にあるわずかな情報。

 それらを信じるなら、星神の御本体を祀る星社のことを確かこう呼ぶのだ。

「……神社かむやしろ……」

 吐息とともに言葉は呂花の口からこぼれた。

「当たり」

 低く落とした声の中に微かに笑う気配が感じられた。

 呂花は弾かれたように審を見る。

 彼女は呂花から視線を外し、建物の方へ向き直ると声を落としたまま続けた。

「そう。お前の言うとおり万夜花星社うちは神社だ。ただの社じゃあない。表の看板ツラ一般社いっぱんしゃになってるけどね」

 星社は四公社を初めとして公社、準公社じゅんこうしゃ、一般社、民間社みんかんしゃに分かれる。

公社は公政廷直轄の星社で公的な役割を担うことが多く、一般社と民間社は市井の人々の暮らしに寄り添った役割を担う庶民的な星社のことである。

 もっとも、その仕事の違いなど呂花にはわからないのだが。

 万夜花星社が神社だというのなら、それは葉台にある全星社の頂点に立つことを意味すると、そういうことなのか。

「……星神や神社の話がおおやけにできないのは、お前にもわかるだろう」

 何も知らないままの自分であれば考えもしなかっただろう。

 今の状況が本当なのか、聞いている内容が正しいのか。呂花には未だにわからない。けれども、もしそれらが事実であるならば、情報を外へ出すことは危険だと呂花でも思う。

 星神や神社がどんなものかはわからない。

 それでも世の中にはいろんな人間がいる。もしかしたら、それを私欲のために悪意を持って利用しようとする者がいるかも知れない。

 星神を四公社が間接的に祀るとしているのは、そういうことを防ぐためなのだろうか。

 ふと呂花はそんなことを思った。

「陰人もね、その存在を表に出さない決まりがあるんだ」

 審がこちらへ体を向けて、呂花が小さく顔を上げた。

「何でだと思う?」

 呂花は考えをめぐらせてみる。

 他の人々には災いを鎮めることが陰人の役割。

 その存在がおおやけに知られたら。

「世の中が、混乱する……?」

 その答えに審は一つ頷く。

「もちろんそれもある。一般の目に映らない災いというのは、目に見える災いに比べるとはるかに繊細な内容が多い。水有様がおっしゃってただろう。陰人は年々減ってるんだって。そしてそれに反するかのように蠱魅やみは増えていると」

 確かに彼はそう言った。

「余剰な労力は裂けないんだよ。何にしても、力や権力を欲しがる人間はどこにでもいるもんだからね。陰人の能力やそういったものを利権がらみで利用されて、その対応をしながら蠱魅を相手にするには、残念ながら数がない。……蠱魅は、蠱魅をんだ」

「やみを呼ぶ?」

「ちゃんと鎮めてやらないと、更に強大な蠱魅を生み出すことになりかねない」

 例えば、と審は続ける。

「心配が不安を呼び、不安は恐怖を呼ぶ。そして混乱が起こる。こういった負の要素の増大は蠱魅を発生させる最大の要因だ。蠱魅を感知できない人間が見えない現象に騒ぐ。すると蠱魅が動揺する。そしてより大きな蠱魅が発生する。蠱魅の存在をそれを感知できない人々に証明できない以上、陰人も存在をおおやけにはできない。一般人の不安を煽るわけにはいかないからな。……だから神社なんてのはどうあってもその存在を表には出せないんだ。不安や欲は混乱の種になりやすいからね。知っているのは、さっき言ったように公政廷と院、正式には禳禦院じょうごいんというが、その一番上の人間だけだ」

「じょうごいん?」

 呂花は聞き返す。聞き慣れない名称だ。

「禳禦院は公政廷文化庁管轄の一機関で、公政廷の一番奥まった所に建物がある。……ちょっとここからじゃ見えないかな」

 文化庁は世界の文化振興や普及、文化財の保存、活用などの事柄を取り扱う機関だったか。

 曖昧な記憶をたどりながら呂花は、禳禦院なんていう名前は聞いたことがないなと思う。

「すべての星社を統括しているのが、この禳禦院。つまりは陰人達をまとめているのも禳禦院だってことだね」

 星社をどこがまとめているかなんて、呂花は考えたこともない。そもそも陰人などはその存在さえ知らなかったのだ。おおやけにされないのであれば、それも当然だろう。

「禳禦院、社人やしろびとの間では院で通るよ。その院については、また私かまどかが改めて案内する。それなりに来ることになるから、それだけ今は覚えていたらいい」

 何を返すでもなく、呂花は審を見つめた。

「さて、戻ろうか」

 審が言って二人は再び来た道を引き返し、木々の隙間を抜けて白木の内にある円陣を踏んだ。

 すぐに景色が変わって元の小屋の中だと呂花は気づく。

 もう一つ白木の内側から出ると、審がに向き直った。

へいはなせ」

 入った時とは逆に、消失した区部縄の部分が再び繫がっている。

 それを自然に見ている自分に気づいた呂花は、たちまち青くなった。

 いけない。

 染まってしまう。

 呂花は審の後ろで前方を強く見た。

 おかしいと思うことや受け入れられないこと、気になることを無いものにしてはいけない。

 せめて自分の中ではそれを握っていないと。

 そこで流されてしまったら、それこそ自分がしまう。

 小屋を出てもりから出ると、境部さかいべ本舎ほんしゃの建物に戻る手前で審は足を止めて北側を向く。

 審が向いた方向には、まだその先があることを予想させる地面が続いていた。

「実はこの社、まだ先があってね」

 神社と聞いたからには、この異常なまでの広さにも驚くことはない。

「この少し行ったところに出入り口があるんだが。その向こうが中の部と書いて中部あたりべ。それからもう一つその先。社の一番内側に、奥の部と書いて奥部おくべってのがある」

 おくべ。さっき審が口にした言葉だ。

「この社の祀殿しでんから内側は一般の人間は知らないし、中部から向こうはですら知らない」

 同業者。彼らと同じ陰人という人達のことなのだろうか。

 その彼らも知らない、ここから先の場所。

 今立っている場所からでは何も見えない社の続きを、呂花は見つめた。

「当然だけど、祀殿の内側から中は空からも見えないからね」

「空からも?」

 どういうことなのか。何となく呂花は上空を見上げる。

「そう。礼成まさなりがしっかり管理しているからね」

 管理、と呂花が呟いた。

「さっき少し言ったろ?……

 先ほど小屋でも言われたが、同じようにここも別に何かがあるような感じはしない。

「結界は基本的に内外双方の守護を目的として使われることが主だ。詳しい説明はまた隼男はやおか京一がしてくれる」

 万夜花星社はこういう星社だからその全体に結界をす。ただ最近では、結界を星社ごと付しているところは多いのだと審は言った。

 その領域を守る星社は、主祀霊ごと絶対に守らなければならない。その星社が蠱魅に冒されたら、その領域は大変なことになる。特に主祀霊が蠱魅に冒されてしまえばとんでもないことになるらしい。

 それに、と審が呂花をふり返った。

もりが保護対象の社なんかはこのくらい強力な結界を張ってる」

「保護?」

 うん、と審は頷く。

「星社のもりはね、精霊達が棲む場所でもあるから、古い時代からずっと守られているものが多いんだ」

 昔の姿そのまま。人が入らない大昔からの自然を抱えている星社は意外にある。

「心ない人間が荒らしてしまわないためにも、ずっと陰人達は結界でもりを守ってる」

 星社の空気が違うのはそういう理由があるからなのか。大昔の自然が残っているなど信じられないが、星社の空気は確かに別の場所とは違う。もりがある星社に自分が惹かれるのが、呂花はわかる気がした。

「その支援を院がするようになったのは、ここ二、三百年の話らしいけど。今や人間を含めた自然界の保護は、葉台全体の重要な課題になってるからね」

 確かに呂花もそう言った話題を耳にする機会は多い。

「だからそれ以前に廃社はいしゃになった社跡から、ごっそり絶滅危惧種が見つかることもあったそうだよ」

 星社とは、陰人とは本当に何なのだろう。 

 思わぬ方向へ話が広がって呂花はますますわからなくなる。

「まあ、もりれば、だけどね」

 何かが引っかかるような審の言葉だった。

 彼女は言葉を切ると、呂花を真正面から見据え直す。

 呂花を見る審の、右目を隠す長い前髪が風に小さく揺れた。

 彼女の両耳から下がる緑涙玉りょくるいぎょくの耳飾りが、微かな輝きを放っている。

 少しだけ、呂花はその不思議に思える光景に見入った。

 綺麗に澄んだ緑色の光は呂花の目を奪う。

「呂花。この社の一番内側が奥部だと言ったが」

 背中に薄ら寒いものが奔って、呂花は現実に引き戻された。

 だが耳を塞いで言葉が自分の中へ入ってくることを、呂花は止められない。

「神社として、この社の情報を管理しているのが奥部だ」

 何も、聞きたくなかった。

 逃げ出したい衝動に駆られるのに、呂花の体は動かない。その間に続けられる審の言葉が呂花をからめとろうと手を伸ばす。

「水有様の執務室は、奥部の最も奥にある」

 ぎくりとする。

 この社の社司しゃじであるという彼には、正直言って呂花は二度と会いたくなかった。

 中身を覗かれるような薄気味悪さがいまだに残っているからだ。

「それが何を意味するのか」

 審が何を言いたいのか。

 自分の周囲に一層冷たい空気を呂花は感じる。

「お前がここに連れて来られたのは、桐佑きりゅうの転生体であり、その桐佑が星守だったからだ。その星守とは何を守るのか」

 呂花を見る審の目は、呂花に答えろと言っている。

 ここまでくれば逆にわからない人間はいないだろう。審が呂花に言わせたいその言葉を。

 言わなくていい。答える必要はない。

 自分は何故ここに、この場所に立っているのか。

(帰らないと)

 そうだ。ここを出て行かないといけない。

 帰るべき場所へ帰るのだ。

 そう内心で思って、呂花は凍り付く。

 自分の帰るべき場所とはいったい。

(どこ───?)

 思おうとしたこととは別に、内でわく自分自身のわからない葛藤に呂花は困惑する。

 審が強く呂花を見つめてくる。

 混乱をふり払おうとして、呂花はとうとう口を開いた。

 星守。それが星神を守る者なら、星神を守る者のことになる。

 ここは神社だという。

 そして社の一番深い場所にある執務室で水有しゃじが祀っているものこそが、おそらく星神の御本体。即ち。

「───御神体ごしんたい

 葉台で唯一神と名乗る存在。

 その御本体のことをそう呼ぶ。

 また一つ。

 呂花の中で何かが崩れた気がした。

 自分を支えていた何かを外されたような、喪失感。

 向き合って立つ審は、呂花の様子には気づかない。

「そう。星守の〈星〉は星神のことをいい、ひいては御神体のことをそういうんだ。私達星守の最大の使命は、その御神体を守ることにある。それは神社の役割そのものでもあるんだよ」

 そこでどうしたのか、急に黙り込んだ審が地面に視線を落とす。

「……ただね」

 ぽつりと言って上げた彼女の顔には、どこか厳しいものが浮かんでいた。

「一つ、問題があってね」

「問題?」

 意外な言葉に呂花は思わず繰り返す。

 そして次に審の吐き出した中身にこそ、唖然とした。

「安置されている御神体。これは今、実は本物じゃ、

「え?」

 耳を疑って呂花は審を凝視した。

「本物の御神体は今、所在がなんだよ」

「不明?」

驚いた呂花が呆気にとられたまま声を上げる。

 硬い表情のまま審は頷いた。

「お前が連れ戻されたのは、もちろん星守としての役目を果たすため。だがそれ以前に、御神体ほんものを捜し出すためでもある」

「───……不明って、誰かが持ち出したんですか」

 呆気にとられた呂花が言葉を詰まらせながら言う。

 まさか盗まれたとでもいうのか。

「御神体が行方不明になったのはかなり古い話でね。その詳細もまたよくわかっていないんだ。前世の私達も、その行方を捜していたよ」

 ここへきて呂花の不審はなお募る。

 前世、確か五百年前とか水有が言っていたような気がするが。

 その時もうすでに紛失していたというのだろうか。

 陰人の話まではかろうじて信じられても、御神体や星守、何よりも前世の話などとても信じられない。

 審は続ける。

「御神体は星神が宿るためのだ」

 媒体。だとすれば本体とは違うのか。ただそうであれば四公社の存在も少しは納得できる。

「星神そのものが宿るとすれば、そのをも御神体に宿るということになる。ただし、常にではなく折々にということらしい……」

 そこまで聞いて呂花はふとあることが気になった。

 反応を見せることは彼らの中へ自ら入るような気がしてわずかに気が引けたものの、それでも呂花は言った。

 その確認をする必要がある気がしたからだ。

「あの、」

 呂花の呼びかけにふと審がその顔を見た。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

 小さかったが、それでも呂花の声ははっきりとしていた。

「何だ?」

「星神は、理由で、ここに祀られているのですか」

 星社に祀られる精霊達は、何らかの理由があって祀られているものがほとんどだからだ。必ずその星社ごとに由緒というものはある。

 確かに年月を経てわからなくなっているものもある。でも主祀霊の性質やその御利益などから何となくわかることも多い。

 では、星神はどうなのか。

 それがわかれば、少しは審の言う話も真実味があるのかもしれないが。

 呂花はそう思った。

 審がはっとする。

 まるで違う人間だと、他の境部の人達同様そう思った。

 気配は確かに間違いないが、その中身はまったく違うと。

 そう思ったのだが。

 眼鏡をかけた小柄なその姿に、審は違う影を見た。

 驚きを隠すように審は呂花から視線を外した。

 外した視線を奥へ流すようにしながら彼女は答える。

「星神が、御神体が実際のところどういう性質のものか、なぜなら祀られたのか、詳しい中身までは私も知らない。ただ、星神は未曾有のが起こることを防ぐために存在すると言われている」

「大災厄……?」

 何かあまりにも現実離れした言葉に、それは想像か空想の中にある話ではなかろうかと呂花は思う。

 その言葉は災難とか災害などの身近に起こり得る現象と同じ響きではない。

 頻繁に使う言葉でもなければ、呂花にとってはまるで現実味を感じない言葉だ。

「それがどんなもので、どこでいつどういう時に起こるのか。それは占師せんじの私にもわからない」

 呂花には返せるような言葉が見つからなかった。

「世界が岐路に立たされた時、星は降りる」

 するりと入り込んできた審の声に呂花は我に返る。

「唯一の手掛かりが、社に伝わるこの一文なんだそうだ。岐路というのがその大災厄のことなんだろうと言われてはいるが、水有様でもその辺りのことは、詳しくはわからないとおっしゃってた」

 釈然としない。

 彼らは本気で星神の、今の話を信じているのだろうか。

 ただ一方的に与えられるだけの情報は、信用できない。

 彼らはその確かな理由となる何かを知っていて呂花に言うのだろうか。そうであればともかくも。呂花には星神や大災厄などの話はすべて絵空事にしか思えない。

 確固とした証拠や根拠、現実が目の前にないからだ。

 さっきのように自分が体験してしまったら、信じるしかないのだけれど。

 それでも半分はいまだに夢だと疑っている。

「……」

 ぎゅっと呂花は両手を強く握った。

 黙り込む呂花を注意深く眺めながら審は言う。

「……一度に話したからな。ひとまずはここがどういうところで、お前が何のために連れ戻されたのか。それを理解してくれればいい。ただし、今日話したことはすべて口外を許されない。その一点だけは忘れてはいけない。お前がこれらの話をして良いのは、境部と奥部の人間だけだ。そして記憶─前世の話に関しては今日広間で会った人間だけにしか話してはいけない」

 そこで思い出したように審が、一つ言っておくと付け加えた。

「前世の記憶を持つ陰人なんてのは、境部の私達だけだ。普通にはあり得ない話だから、そこは誤解するなよ」

 審に向けた呂花の顔にはあからさまな不審が浮かんで見えただろう。

 それをわかっていてなのかどうか。

 彼女は苦笑すると部屋に戻ろう、と呂花を促した。


◇   ◇   ◇


「明日からのことを少し言っておく」

 境部の、呂花の控え室らしい部屋に戻るなり審が再び口を開いた。

「指導者がつくと水有様がおっしゃってただろう?」

 確かにそう言われた。

 だが呂花はここにずっといるつもりはない。

 そもそもここに留まる理由がないのだから。

 自分の居場所は共に過ごしてきた家族の中に、それまで関わった人々の中にあるはず、あったはずだ。

「基本的には私かまどかが、お前が落ち着くまで全面的な面倒を見るようになってる。星社部分の仕事は二人のどっちかが教える。それから、てると礼成が社内外における社人として必要な諸作法を。隼男はやお、もしくは京一が陰人の知識の教授と実技訓練。当面はそんな感じかな」

「……」

 呂花は頷くこともなく、答えもしない。

 ただこちらを見つめ返してくるだけの呂花に、内心で審はため息をついた。

(厄介だな……)

 これほど不審を抱いて警戒をされては。

 しかも本人は家族の元に戻ることを希望している。

 当然のことではあるのだが。

 水有の指示があったとはいえ、京一が何の説明もせずに連れてくることは彼の性格上思い難い。

 だが先ほど呂花が発した言葉はそうではないことをうかがわせた。

「当分の間、見習いとしてお前は過ごすことになる」

 呂花はかたく黙り込んで一言も言葉を発さない。

「そこから先は水有様の、社司の判断次第だ」

 社司─水有と名乗った彼。

 誰にも何にも気は許せない。

 呂花はここへ、自らの意思で意志で来たわけではないのだ。

 起こったことに対して信じろということと、人を信じろということはまるで別のことだ。

 そんなことを思う自分に何とも言えない嫌悪を感じる呂花だったが、その警戒こそが今の自分を守るただ一つの手段だ。

「今はわからないことばかりだろうから、とにかく何かあれば遠慮なく言いな」

 目の前で口を真一文字に引き結んだ呂花に、ひとまずはそれだけを審は言った。

 呂花が桐佑であることは間違いなく、確信が揺らぐこともない。

 とりあえずは見つかったのだから問題はない。

 唯一の難点は記憶がまるで失われていることだ。

 それぞれ思うところはあるにせよ、今のこの状況下では早く覚醒して欲しいというのが審を含めた星守達の本音だろう。

(桐佑───)

 確かに日々は少しずつしか進まない。

 それでも一歩ずつ何か、見えない何かが近づいているのは、審には感じられることだった。

 他にそう思う者がいても決して不思議ではない。

 陰人は五百年前以上に減っている。対する蠱魅は増加の一途。不気味なほどその流は止まる気配がない。

 だからこそ審は一刻も早い覚醒をと願う。

 大災厄。

(それが本当にやってくるのなら)

 星守であった桐佑の目覚めはどうあっても外せない。そのために審が今できることは、できるだけ多くのきっかけを呂花に与えること。

 それだけだ。

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