第10話 戸惑い

 しんとまどかに連れられた呂花おとかは、広間を出て境部本舎さかいべほんしゃに戻り、その西側にある一室へと案内された。

「あとは、私が見るから」

「うん。じゃあ頼むね」

 まどかが行ってしまうと、部屋の戸を閉めて審が呂花に向き直った。

「少しは、落ち着いたか?」

 どうやったら、落ち着けるのだろう。

 それどころか押し寄せる不安と恐怖でおかしくなりそうなのに。

 無言で顔だけを上げた呂花を、審が見下ろす。

「……、まだ混乱中か」

 その言い方は照と同じようなぶっきらぼうさがある。もっとも、呂花には先ほどのてるの言葉は耳に入らなかったのだが。

 それ自体に驚いたり、腹が立ったりはしないが、今の状況を受け入れられるだけの余裕は、呂花にはない。

 自分の身に起きたこと、自分がしたこと、それら全部が事実なのだと、とても呂花には思えない。

 まるで自分がもともと存在していなかった人間のようにさえ、呂花は錯覚を起こす。

 今が夢の中でないことは、先ほどの検査で思い知った。

 だが、だからこそ認められない。自分の帰る場所に、場所に帰れなくなったなんて。それだけは信じたくない。受け入れたくない。

 呂花は絞り出すように小さく言った。

「……どうしたら、いきなり、自分の今までが無くなって、存在を家族に認識してもらえなくなって、混乱せずにいられますか」

 審ははっとする。

 先ほどの広間での様子にもしかしたらとは思ったが。

(やはり、有無を言わせず連れてきたのか……)

 納得のいく詳しい説明もないまま、ただ過去の人間と同一人物だからと勝手に連れてこられて、困惑しない人間はいないのではないか。

「普通ではない、少なくとも自分にとって普通ではない話を、いきなり信じろと言われて、あなたは信じることができますか。同意したわけでもなく、一方的に連れて来られたんです。元に戻して下さいと言うのは、元いた場所に帰らせて下さいというのは、道理ではありませんか」

「───」

  呂花の言葉には答えず、審は六畳一間の奥側にある襖を開けた。

 開かれた向こうにはもう一つ同じような部屋があって、更にその先の障子を審は開ける。

 部屋の縁側の外に狭い庭があり、その外側は生け垣がめぐらされてあった。

 涼しい風が入り込んでくる。

 生け垣の樹や葉。庭の土や植物の匂いなんかが室内の匂いと重なって、風と一緒に呂花を遊ぶように抱く。

 流れ込んできた空気の勢いが止むと、部屋に入り込んだ大気の欠片が天井から畳の上へと沈み、匂いだけが取り残されたように宙を漂っている。

 不意に祖父母達を思い出して、呂花は胸を突かれる思いだった。

「ここは、お前のために用意されていた部屋だ」

 呂花は審を見る。

 その顔は不審と不安が明らかに浮かんでいただろう。

「境部にいるときの個室。みんなそれぞれに専用の部屋があてがわれているんだ。ここの仕事は、決まったもんじゃないからね。就業時間もないし。休みの日以外はこっちにいる方が多いかな。居住区は別にあるよ」

 ということは、呂花の住居が別に用意されているということなのか。

「どういう意味か、わかるか」

「……、私はここにしか、いられないと?」

 押し殺したような低い声で呂花が言う。

「元々、お前を帰還させる予定だった、とそういうことだね」

 部屋の押し入れを開けて二枚ほど薄い座布団を取り出すと、審はそれを無造作に縁側の近くに並べた。

「座りな」

 呂花はとりあえず、その上に身を落ち着かせる。

 審もその隣に腰を下ろした。

 開いた障子の向こう、庭に目をやりながら審は言う。

「私や水有なかなり様、そしてさっきお前が広間で会った他の者達はここで生まれ、ここで育った。過去───生まれ変わる前も、生まれ変わった後も」

 呂花は黙ったまま、審の言葉を聞いている。

「まあ、京一きょういちは別のやしろにいたのを見つけて、引き抜いてきたんだけど」

 もっとも、彼は本来の所属社との兼ね合いがあるため、完全な引き抜きとは言いがたいのだが。今のところという形で両社に在籍している。

 京一も初めは記憶が無かった。それでも、元が同じ陰人かげびととして過ごしていたからか、記憶が戻るのにそれほど時間はかからなかった。そして、それを受け入れるのにもだ。

 だが呂花は最初から拒絶した。

「お前は過去をここで暮らし、そして今日に至ってはただ一人、へ出てしまった」

 外、と呂花は呟く。

「うん。ここが普通というか、まあ世間で通用する、と違うのはわかるだろう?」

「……はい」

 呂花が小さく頷いた。

「ここ、いや陰人の生活圏内を〈内〉とするなら、世間一般なんて呼ばれているものが〈外〉。お前はその陰人と関わらない、外側に生まれてしまった」

 何かそこに言葉以上の大きな隔たりを呂花は感じた。

 社─星社ほしやしろとはそれほど身近な場所ではない。けれど、だからといって呂花自身はそんなに遠い存在だとも思っていなかったのに。

 その内側に陰人などという存在があることを、呂花は知らなかった。

「それから」

 審が続けた。

「境部の連中はみんな、さっき水有様がおっしゃったように、過去の記憶を持っている」

 記憶───先ほどから繰り返しその言葉を聞く。

「私も覚えているよ」

「……」

 彼女にはあっても、呂花には無い。

 呂花は黙ってうつむく。

 無いものは無いし、知らないものは知らない。

 それを呂花に肯定することはできない。

「まあ、それをすんなり受け入れられたのは、元々ここにいたからだろうけど」

 少し顔を上げて呂花は審を見た。

 風が二人の側を走り抜けていく。

 短い髪を押さえて彼女は前の庭へと目を向けた。

「お前にもあるはずなんだ」

 呂花は審にならうように庭を見た。

「そうは言っても。さっきも言ったとおり、お前は外へ出てしまったからね。記憶が無いのはその影響かな」

「……記憶とは、何なのですか。それほど大事なものなのですか」

「お前が社への帰還を、余儀なくされた理由」

 呂花は審へ視線を戻す。

 そうだ。呂花がここへ来なければならなかった最大の理由とは、何か。

「それはお前が、この社の陰人だった桐佑きりゅうの生まれ変わりだったということ。そしてその桐佑が、ただの陰人ではなく、星守ほしもりの一人だったからだ」

「ほしもり?」

 陰人だのほしもりだの、耳慣れない言葉ばかりが出てくる。

「星に守ると書いて星守」

「星、守」

 呟く呂花を審は注意深く見る。

「それが何を意味するか、知りたいかい?」

 ぎくり、として呂花は身を強張らせた。

 それを知らなければ話は進みそうにはないが、知りたいとは思わない。

 いや、

 聞いては、いけない。

 社へ足を踏み入れる前と同じ恐怖が、呂花を襲う。

(───この反応……)

 呂花の中の潜在意識は、間違いなく審が今から教えようとしていることをいる。

 だが。

(本人は思い出したくないってところか)

 審はおもむろに立ち上がった。

 思い出したくなくても、審はそれを教えなくてはならない。

 ここへ桐佑は、呂花は戻ってきたのだから。

 それが望む望まざるには関わらず。

 流れは止まらないと、そういうことなのだろう。

「呂花、ついといで」



「報告は聞いておりましたが。それにしても、驚きましたな」

 ため息をつくように興輔が言った。

 広間には興輔きょうすけと水有の二人だけだ。

「本当にね。実際に会って私も驚いたよ。桐佑とはまるで様子が違うからね」

 軽く苦笑しながら水有も頷いた。

 呂花について、社司しゃじである水有と部長くみおさである興輔は審と京一に一応の報告は受けていた。

 本当であればその情報を境部の他の全員に周知しておくはずだったのだが、迎えに行くのを一ヶ月ほど早めた都合でそれができなかった。

 呂花がこの万夜花たかやすはな星社に、姿を現したからだ。

「京一の様子も、少し気にかかります」

 元々が礼成まさなりと同程度物静かで、どちらかと言えばあまり感情をはっきり表に出す人間ではない。

 その彼が、あれほどあからさまな怒りを見せていたのに、興輔は正直驚いた。

「……桐佑の好敵手あいかただからね。一番戸惑っているのは、彼かも知れないね」

 それでも見つけたのは京一なのだ。

 確かに桐佑と呂花ではまるで違うように見える。

 桐佑は落ち着きのある人間ではあったが、功也こうや才執かたもりほど物静かでもなかった。しかし呂花のように、戸惑いや動揺をあれほどはっきり露わにしたことはなかっただろう。

「でも、」

 全部違うかと言えばそうではない。

 ふと言った水有を興輔が見た。

 水有は続ける。

「呂花は桐佑だよ。見ていただろう?状態でありながら、私の言呪げんしゅをあっさりのだからね」

 興輔がはっとする。

「だいたい、陰人の中にあんな鎮め方をする人間はいないよね」

 思い出したのか、どこか吹き出しそうにしながら水有が言った。

 確かにそうである。

 鎮めはとても繊細な仕事だ。陰人達の行う鎮めは細かな基準や規則が定めてある。

 だが、先ほどの呂花の鎮めはそのすべてを無視する、あり得ない鎮め方だった。

「それでも鎮まっているのだから」

 そのとおりだった。鎮めとは、最後の浄化までを終えて初めて、その作業の完了となる。

 最後の緑光。

 緑光はその最後の浄化が行われたことの証だ。

 呂花の鎮めの最後、広間はその緑光に染まった。

 それは呂花が確実に很幽こんゆうを鎮めたことの証左だった。

「……そうですね。確かにあんなをするのは、桐佑しかいない」

 うん、と水有が頷く。

「ただ、記憶がまるで無いからね」

「はい」

 そうなのだ。それが一番の問題だ。

「全面的に気を配ってあげることと、」

 一つ言葉を切って、水有は声を低く付け加える。

「当面、その行動にはよくよく気をつけて。桐佑かれは逃げるのも得意だからね」

 水有の言葉に興輔が頷いたところで、ふぅっと微かな風が広間に吹いた。

 二人がその気配に気づく。

 広間の真ん中に大きな二つの光が浮かんだ。



 部屋を出て、境部本舎の建物の外へと審は呂花を案内する。

「こっちだよ」

 審の言葉に呂花も歩き出す。

 境部本舎を出ていくつか建物の横を通り過ぎ、それらからもう少し離れた西の端。杜の一部に囲まれた中にそれはあった。

 高さのまばらな木々が、それでも互いを邪魔しないように生えていて、辺りも思ったより明るさがある。少し歩くと突き当たりに簡素な木造の小屋が見えた。こんな木々に囲まれた中でも清掃には余念がないようで、小屋はまるでうらぶれて見えず、周囲の一定範囲も綺麗に掃き清められていた。

 小屋の出入り口には上下の大きく空いた、押し開きの板戸が一つ取り付けられているだけだった。

 中は思ったよりも広く、その中央には呂花の腰の高さほどの白木が五本、地上に打ち付けられている。白い縄がそれらを結んで、全体が円を描くように設置されていた。

 審は躊躇なくそれに近づく。

区分縄くぶなわ。知ってるだろ?拝殿とか祀殿とかでよく見かけないかい。あの二御柱ふたみはしらの太いの、あれも区分縄だからね」

 ああ、と呂花は頷く。

 確かここへ来る際に楽殿でも見かけた。

 見かけることはあっても、その名称が何であるかはわからない。呂花の中にある星社に関する知識はその程度だ。

「区分縄は星社やそれに関わるものと、それ以外との境を明確にするのが基本的な機能だね。言ってみれば目印だよ」

「目印?」

精霊しょうりょうがいる場所ですよ、というね」

「……それは、うかつに近づいてはいけない、と?」

 星社は不浄のものを受け付けないと、精霊は穢れを嫌い、精霊に対する粗忽を許さないと、誰かにそう聞いた気がするが。

 予想に反して審は笑った。

「ああ、それは逆だな」

 え、と呂花は驚くように彼女を見た。

「そもそも、社の精霊達はその領域を守護することを請われてそこに鎮座しているものが多い。いや、そうでない社は無いと言って良いかな」

 だから、と審は更に笑った。

「安全な場所ですよ、という目印だよ」

 意外なその答えに、呂花は少しだけほっとした。

「確かに近づいてはいけない場所に、こんな風に区分縄を設置する場合もある。ただ、その場合は基本的に近づくと危険がある場所だったり、不用意に足を踏み入れたり、中にある何かに触ったりすると、危険な状況が起こり得る可能性のある場所がほとんどだ。希に、この小屋のように気づかれてはいけない場所に設置することもある」

 ほっとしかけた呂花だが、急にひやりとして目の前の区分縄を見た。

「そういう場所には同時に結界を施すのが通常だな」

 結界、と呂花はこぼす。

 言葉だけ聞いても想像がつかないのだが。

「ここにも、結界は施してあるよ」

 思わず呂花は体に力を入れた。

 周りを見てもそれとわかるような何かは見えないし、何かを感じるわけでもない。

「星社にはね、基本どんな存在でも入ることができるんだ」

 視線を呂花は審に戻す。

「それこそ、蠱魅やみでもね」

 小さく呂花が息を呑んだ。

 蠱魅。あの少年もそうだったのか。

 でも彼は、彼自身は

 強く呂花は手を握りしめた。

「星社に良くないものが入り込んだら、そこから

 どういうことなのか。

「入ってきた良くないものは、星社の境内に入れば、その気配はくっきり浮かび上がる。それほど強力なものでない限りは、二御柱と区分縄の間を通る段階でされる。更にそこをすり抜けたとしても、今度は陰人がいる社なら陰人が。そうでない社は精霊達が浄化する」

 じょうか。それはいったい何を意味する言葉なのか。

 それに、精霊。

 これまで何を思うこともなくその言葉を聞き、何度となく口にしてきた。

 精霊を感じることはできない、見ることもできないと、そう思っていたのだけれども。

 今審の話す中で、呂花はどこか不思議な気分でその言葉を聞いた。

(もしかしたら)

 さっき見えた子供のような小さな姿は。

(精霊……?)

 それで、と審が切り替えるように言った。

「ここは拝殿や祀殿でもそれらのたぐいの何かでもない」

 そうだとすれば、いったい何なのだろう。

だよ」

 呂花はあっけにとられる。出入り口と言われても、戸や扉があるわけではないし。

 どうやっても出入り口には見えない。

 何の出入り口なのだろう。

「入ってみりゃ、わかるさ」

 どきりとして呂花は審を見た。

 その驚きように審が苦笑する。

「心配しなくても、私にはお前の頭ン中なんてわかりゃしないよ。確かに私は占師せんじだが。未来、現在、過去。その流れの内の事象は読めても、誰かの中身なんて読めやしないよ。考えてることを推察するのが、せいぜいだ」

 そう。水有にしても確かに思考を読んでいたのだろうが、心の深い部分を読み取ることは不可能なはずだ。

 思考はその人の一部分。

 考えて思っていることの上澄みでしかない。

 それに思考にしても、あれほど呂花が無防備でなければ読むこともできないはずだ。

「……事象を読む?」

 胸をなで下ろして呂花が尋ねた。

「ああ、ほら。一般でもいるだろ?占い師って」

「占い師?」

 自分の日常で直接は関わらない職業に、ふんわりとした想像しか呂花にはできない。

 占い師といっても、呂花が知るのは多くの通信媒体や雑誌なんかで見る、生まれ月やその人の属性別の内容のみだ。

「ただ彼らと違うのは、本物か、偽物か。一般は娯楽の向きが強いだろ?」

 確かにそのとおりではある。

 世間で占いと呼ばれるその大半が、半分以上遊びであることは、その対象が広範囲で内容が漠然としているのを見ればわかる。

 全部が全部偽物とは言わないけどね、と審は言う。

「確かに、うらは確実というわけじゃない。事象なんてものは膨大に存在するからな。いかに確率が高く、正確な事象を読み取れるか。それが私ら占師の信頼の目安になる」

 ちなみに、と彼女は続けた。

「私は今のところ、あまり外したことは、ないかな」

 本物とか偽物とか言われて、ますます呂花には占いそのものが理解の範疇を超えていく気がする。

 唯一その審の言葉に、自負というのか、呂花にはないそういう、重みみたいなものがあるのだけがわかった。

「ちょっと、話が長くなったね」

 そろそろ行こう、と審は出入り口だというその区分縄に向き直った。

 見てな、と審が言う。

かいわせ」

 言葉と同時に一瞬小さな光が区分縄の内を照らす。

 気づけばその区分縄の一部が消失していた。

 驚く呂花に構わず、審が行くよ、と区分縄の消失した部分からその内側に入る。

 そこで呂花は目を疑った。審の姿がそのまま消えたのだ。

 息を呑んで戸惑う呂花だが、意を決すると審と同じようにその内へと足を踏み入れた。

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