第6話 星社

───駄目だ。

 ついて行ってはいけない。

 心臓は壊れそうな早さで鳴っている。

───どうして。

 自分はここに来るべきではない。

───怖い。

 何がこれほどまでに自分の恐怖をかき立てるのか。

 奥へ入りたいわけじゃないのに、行くしかなくて。

 彼の後を歩きながらも、自問自答のような心の嵐は呂花おとかの中で続いている。

 呂花の様子に気づいたのか、前を歩く彼が不意に言った。

「どうされたのです。……あなたもない」

 呂花は足を止めた。

 今までの彼の口ぶりは、何故か呂花を知っているようだった。

 けれど呂花は三日前に旅行先で初めて彼と出会った。それ以前に彼と出会った覚えはない。

「あなたは、私を知っているのですか?」

 足を止めると、彼は体半分に呂花をふり返る。

「ええ。……知っています」

 だが今ここに連れてきたは。

水有なかなり様に、境部さかいべの人間に会えば、わかります」

 多分、と彼は胸の内で呟く。

 微かな不安がよぎる。

 迎えるべき相手を、自分はもしかしたら間違えたのではないだろうか。

 確かに彼女に気配を感じた。

 そう、さっきまでは確信できていたのだけれども。

 彼の中でわずかに疑問が頭をもたげる。

 正直なところ、彼は自信を失いかけていた。

(会えば、わかる───)

 自分がそうであったように。

 呂花から目をそらし、彼は前へと向き直った。

 呂花の困惑は深まるばかりだ。しかしそれ以上の追及が、何故か呂花にはできなかった。黙って再び彼の後を追った。

 広い参道を導かれるまま歩きながら、呂花はふとした感覚にとらわれる。違和感までとはいかないのだけれども。

 呂花が気になったのは、参道の脇に沿って立ち並ぶ木々だった。

 梅と桜、ではないだろうか。今は葉っぱばかりで植物に詳しくない呂花には何となく、としかわからなかったのだけれども。

 どうも交互に植えてあるらしい。何か意味があるのだろうか。

 そういえば、二御柱ふたみはしらの両脇にもあった気がする。

 混乱と恐怖とで動揺しているはずなのに、どうしてそんなことを思ったのだろう。

 自分自身さえわからなくなりそうだ。

「置いていきますよ」

 もう一度足を止めた呂花に、彼は吐き捨てるように言う。

 促されて呂花は彼の方へ鈍る足を進めた。

 言葉がまるで呪いのようだ。

 一歩足を踏み出すたびに心臓はきつい悲鳴を上げる。

 逃げ出したい気持ちと、それでも行くしかないと前へ進む足。

 どちらにしろ、恐怖がつきまとうのは同じだ。

 それほど長くはない石の階段を上ると社務所が右手に見えた。中に人の姿は今はないようだ。社務所の前を通り過ぎた少し先に再び階段があるのが目に入る。今度は少し長く、傾斜もそこそこ急な階段だ。

 そこを上り終えると今度は左手に、広さ十メートル四方、高さが一メートルほどに土を盛って上部を平らに固めた場所が現れる。

楽殿がくでん

 呂花がすぐに思い当たったのはその平らな上部の四隅に、高さが三十から五十センチくらいの白木に二御柱と同じような、だがあれほど太くはない真っ白い縄がそれぞれを繫ぐように結びつけてあったからだ。

 確かこの縄にも何か呼び名があったように思うが今はそれどころではなく、思い出すこともできない。

 楽殿は使用しないときなどこのような様子にしてある。

 そして正面を向いた呂花の表情は固まった。

(拝殿……)

 

 呂花は二御柱の前にいたのに。

 見えるはずはなかったのに。

 目の前にある拝殿が。

 現実のものとして、呂花の目に今は映っている。

「どうして……」

 こぼすように言った呂花の言葉は、先を行く彼の耳には届いていない。

 拝殿の両脇は呂花の腰よりはやや低めの、竹を粗く組んだような垣根がもりの先端に当たる所まで続いている。その右側の一部に取り付けられた押し開きの板戸を開けて、彼は中へと呂花を促す。

 呂花が彼とその中へ消えた後。

 拝殿より手前側。その境内のあちらこちらで、密やかな風がふわりふわりと遊ぶように現れては消え、現れては消えをしばしの間繰り返していた。

 板戸の内側に入った呂花は、拝殿の後方に建つ大きく高い祀殿しでんを左手に見た。

 周囲には背の高い木々がその祀殿を囲うように立ち並んでいる。

 祀殿裏手の少し離れた場所にある木戸を開けて、彼は更に中へ入るようにと呂花に言った。

 中へ入れば上下の空いた板張りの壁に、屋根のある少し長い廊下へと出た。

 二、三十メートルほどあったのか。そこを渡りきったところで、二人は一人の青年と出会った。

 目の前の彼や自分と同世代だろう、やや年下のような気もする。

 背格好も呂花の前を行く彼とほぼ変わらない。

 短い髪と瞳の色が、明るい琥珀色だった。

「京一、今戻りか?……後ろの、誰?」

 青年がちらり、と目を細めて訝しそうに呂花を見た。

「広間に行くよう、連絡がありませんでしたか」

 静かに答えた彼に、声をかけてきた青年はひどく驚いた様子でもう一度呂花をふり返った。

「あ?……っ、まっ、まさかっ!?」

「ええ。そのまさかです。哲平てっぺい、あなたも早く来られた方が良い」

 まじかよ、と呟く青年の横を通り過ぎる彼の背中を呂花は追う。

 彼は自分のことを〈コウヤ〉と言わなかったか。

 だが哲平と呼ばれた彼は、呂花が追いかける彼のことを〈キョウイチ〉と呼んだ。

 どういうことなのか。

 だからといって尋ねる気は起こらない。

 呂花にとって、それはどうでもいい情報だ。

 廊下の先が急に開けた。

 中庭、いや再び元の境内に出たような感じだ。

 予想外に広い敷地に呂花は驚く。星社ほしやしろとはこれほど奥があるのか。

 外から見る限り、これほど奥があるようには思えなかったのに。

 横幅がかなり広く、段数の少ない階段を上がりきると、石畳が次の建物までを繫いでいた。

 近くまで来て、呂花はその一階建ての建物が人の常駐するようなものではなく、どうやら門のような入り口なのだと気づく。石畳はその入り口を貫いて更に中へと続いており、広場の中央で他から伸びてきたそれらと交差し、十時を描くように走っていた。

 ただ不思議なことに、その交点に近い位置で四揃いの二御柱のようなものが立っている。そして他の三本の石畳の先を追えば、今呂花がくぐり抜けてきたものと同様の建物が建っていた。その周囲は外と内を仕切るように拝殿の両脇と同じような、だが高さは呂花の肩ぐらいまではある垣根が全体にめぐらされている。

 更にその外側はこれも杜なのだろうか。背の高い木々が見えないずっと先まで広がっているようだった。

 妙な造りに呂花は首を傾げつつも、何故かひやりとする。

 心臓が一つ、音を立てた。

 頭の中が錯乱に近い状態の呂花は、動作に意識が向くはずもなく、ただ彼に続いて目の前に迫ってきた二御柱をくぐり、あっけにとられた。

「!?」

 唐突に木造の建築物が目に飛び込んできたからだ。

 先ほどまで、目の前には二御柱しかなかったのに。

 驚きながらも呂花は奇妙な感覚にとらわれる。

 そしてこれも入り口だったのか。中へ入るとまた、開けた場所だったからだ。

 それを進んで行くと、その開けた景色の中に大小の木造の建築物がいくつか見えた。

 彼はそのうちの一つ、正面にある一番大きい入り口の開いた建物に入って行く。

 ついて入りはするものの、呂花は落ち着かない。

 やけに手入れの行き届いたような建物内の、その雰囲気に気後れしてますます入りたくない。

 すでに自分がどこにいるのかすらわからない。

 建物もだが中の様子もどこか時代がかった感じがする。ただ所々、近代的な物もいくらか目に入った。

 どちらにしても、呂花にとって身近に感じるような雰囲気はここにはない。

 建物の中に入ったところで一つ、大きな部屋が見えた。

 それを左手に正面すぐの場所に小綺麗な靴入れがあり、少し高めの上がり口には二段ほどの段梯子が設置されていた。

 そこでコウヤだかキョウイチだかわからない彼は、ようやく呂花に靴を脱ぐように言った。

 磨き上げられた床の上を呂花は居心地悪く歩く。大小いくつかの部屋を横目に、彼は建物の奥へと進んで行く。

 途中でどこかの部屋と部屋の間にある廊下を抜け、少し行った先で見えた扉を彼が開いた。

 それが開かれてまだ奥へと彼は呂花を導いて行く。

 いったい、どこへ連れて行く気なのか。

 短い渡り廊下を渡りきると、二段ほど段を上がり再び扉に行き着く。中へ入れば一本の短く幅の狭い廊下があってそしてすぐにまた、扉が見えた。

 だがそれが、最後。

 目の前の彼が足を止めた。

 動悸はもはや外にもれているのではないかと思うほど激しかった。

(駄目だ)

 入ってはいけない。

 何故かはわからない。

 だが。

(入ったら……)

 呂花は目を閉じた。

 背後にいる呂花の様子に気づかないまま、彼は扉を三度ほど叩いた。

「はい」

 中から女性の声がした。

 今までとは違うらしい。そこは扉ではなく、引き戸が左側に静かに滑っていく。

 目を開いた呂花はそれを見ながら、自分の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。

 完全に開かれた入り口の向こう、姿が映るのではないかと思うほど磨かれた板の間に人が見えた。

 中央を空け、左右に数人ずつ座をしつらえて座っている。

 目の前の彼が中へ向かって一礼し、入室した。

 大広間のような室内は、人が少なくとも五十人弱は入りそうな気がする。人が並んでいるのも前半分の真ん中辺りだけで、あとはすべて何も無い空間があるだけだ。物というものはほぼ見当たらない。飾り気などまるでないものの、床から壁から天井までがすべて光っているように思えてなおさら呂花の身はすくむ。

 その広間の一番最奥、他の人々より一段高い所に座している人物に呂花の目がいった。

 切れ長で少しだけ青色が見える黒い瞳の若い男性。長い黒髪を軽くまとめ、背中に流すように垂らしている。呂花や呂花を連れてきた彼とも、そこまで年齢は違わないような気がした。

 ゆったりとくつろいだ様子でこちらを見ているその人は、周囲にいる人々とどこか纏う雰囲気は一線を画す。

 優れた容姿は逆に近づいてはいけない気分さえ呂花に抱かせる。

 白い社着やしろぎの左肩辺りからとても淡い水色の、向こうが透けるほど薄い布を、右の腰辺りにかけてわずかに垂らすように掛けている。

 よくよく見れば白いと見えた社着も、うっすらと青い色が着いているようだった。

 彼は呂花を一つ見つめると、形の良い唇を動かした。

「お帰り。───桐佑きりゅう

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