第5話 消えた足跡
「迎えっ、て」
周りに人はいないのだから、彼が
「あなたを迎えに来たのです」
自分の問いにあっさりと答える彼に、呂花はあっけにとられるしかない。
どう考えても迎えに来られる理由などない。
そもそも迎えとはいったい何なのか。
「誰か、別の人と、お間違えでは、ないですか」
切れ切れに尋ねる呂花に、首を横に振る彼の態度は少しの揺らぎもない。
「いいえ。私はあなたを迎えに来たのです」
一言一言句切るように彼は言う。
「な」
何をと言いかけた呂花の声が上ずった。
動揺を露わにする呂花を彼は静かに見据える。
その視線から逃れたくて呂花は顔をそらす。
「す、すみません。私、仕事がありますから」
知らない人間の、不審な話に付き合っている時間はない。
彼の脇を足早に通り抜けようとした呂花に、やはり静かな声は言った。
「その必要はありません」
心臓が跳ね上がった。
呂花は思わず足を止めて彼に向き直る。
彼も合わせるようにこちらを向いた。
「あなたは、あの職場にはいなかった人間ですから」
相手の言わんとするところが呑み込めない。
「どういう、意味ですか」
妙な薄気味悪さに呂花は血の気が引くのを感じた。
「言葉の通りです」
弾かれたように呂花は踵を返して走り出す。
向かう先は当然バス停だ。
彼は慌てるでもなく、呂花の背中を見送る。
停留所にまだバスは来ておらず、短い列ができていた。
呂花は呼吸を整えながらその一番最後尾に並んだ。
「確かめられるのですか」
「っ!」
突然声がして呂花の心臓が再び跳ね上がる。
追いかけてきたのだろうか。少し離れた場所に息一つ乱れのない彼が立っている。
問いかけに呂花は答えない。何を言っているのだ、彼は。
「……では、気の済むようになされたら良い」
バスで駅まで十五分。そこから歩いて十分。
そっと辺りを見回すが、彼の姿は見当たらない。
それほど大きくはない会社の表口から入ると、受付越しに視線が一斉にこちらを向いた。
ちらほらと朝の挨拶が飛んでくる。
いつものことだ。
ほっとしかけた呂花だが、次の行動を起こす前に自分の耳を疑った。
「おはようございます。お客様、ご用件を伺いますが」
(───!?)
目を見開いて驚く呂花に、後輩がまだ始業時刻でもないのに訪れた
嘘だ。
自分は今、たちの悪い夢を見ているに決まっている。だって昨日までここで普通に働いていたのだから。
呂花は迷わず二階へと走った。
「あっ、お客様っ!?」
追いかけてくる聞き慣れた後輩の声に、呂花はふり返りもしない。
乱暴に更衣室の扉を開けて、自分が使っているはずの
開け放って愕然とする。
「お、お客様。申し訳ございません、こちらは……」
いつの間にかやって来たらしい店長が何か言っているけれども、呂花の耳には入らない。
呂花が開けた
そこには何もない
使っていた
(そんな……)
「……ですから、お話しでしたら下の応接室で……」
店長は呂花の様子よりも、不審者を穏便に追い出すことに必死で、ひたすら喋り続けている。
横から同期の女性社員が、絶句して呆然としている呂花に小さく「お客様」と声をかける。
不審と心配のない交ぜになったような彼女の声に、呂花はどう答えたら良いのか。
言葉など出てこない。
誰が、いやまさか店長までが一緒になって、わざとこんな手の込んだいたずらや嫌がらせなどするはずがないだろう。
確かに陰で良くないことを言われているのを、耳にしたことはある。
だがそれは全員が自分を、ましてこんな風に無視するような酷いものではなかっただろう。誰でもあるかも知れないくらいのものだったと思う。
「わ……た、し」
こぼれた言葉は続きを言うことができなかった。
「……、どうする、警察呼ぶ?」
「えーっ、そこまでしなくても」
階下でヒソヒソと交わされる言葉が聞こえて、呂花はますます困惑する。
自分は本当にここで働いていなかったのか。
名乗って覚えていないのかと尋ねかけた言葉は、喉の奥につかえたまま言い出すことができなかった。
「お……、騒がせ、しました……」
消え入るような声でやっとそれだけを言い、青ざめた顔で呂花は階段を下りる。
今まで一緒に働いていたはずの人々が、遠巻きに囁きながら見ている様子が、呂花には信じられなかった。
そして。
二階でされた会話の続きを、呂花は知らない。
「ねえ。今の人が開けた
「うん。ついさっきよね」
「えっ?」
「本当ですか?」
「新しい人が入るから、空けてって……」
「えーっ」
「ちょっと、気味が悪いよ」
更衣室前に残った女性社員達が、顔を見合わせてそれぞれに眉をひそめていた。
今は現実なのか。それとも今が夢なのか。
ここで目を閉じたら、他で目が覚めるのか。
少なくとも、呂花の中でさっきまでは続いている。
目の前の状況はいったい何なのだ。
入り口を出た呂花はその場に立ちつくす。
いつ来たのだろうか。
先ほどの彼が立っていた。
何なのだ、この状況は。
いったい、彼は誰なのだ。
「理解していただけましたか」
理解。いったい何を理解するというのか。
自分が今出てきた会社の社員ではなかったということにか。
彼は何故自分を混乱させるのか。
「あなたに選択肢はありません」
呂花は目を見開く。
何のつもりで彼はそんなことを言うのだ。
だが更に呂花を驚愕させる言葉を、彼は無情にも言い放った。
「家に戻られても同じことです。あなたの生活していた痕跡は、すべて消えています。……先ほど処理を済ませましたから」
頭が真っ白になって呂花は彼を凝視する。
言葉のあるはずがない。
先ほどの衝撃と混乱、恐怖の比ではないものが呂花を襲う。
「何、を……っ!」
半ば叫びかけた呂花を遮るように、彼が言った。
低く冷たい響きがあった。どこか、何かをこらえるようなものを感じる。
「本気で何もわからないと?」
「っ!」
息を吸い込んで驚く呂花に、構うことなく彼は強い口調で続けた。
「思い出したのではないのですか」
だから、
呂花は言いかけた言葉を呑み込む。
彼のあまりに厳しい視線に射すくめられたかのように、立ち止まっているしかなかった。
「忘れたとは言わせない。あなたの好敵手だった私を」
呂花はますます訳がわからなくなる。
自分とはまるでかけ離れた次元で話す彼に、返す言葉が見つからない。
長い
「あ」
彼は黙ってこちらを見つめ続けている。
その瞳に宿るのは怒りだと、呂花は思った。
見知らぬ相手に何故ここまで憤られなければならないのか。呂花にはわからない。
まして何故自分の生活を、居場所を奪われなければならないのか。
呂花は必死に声を絞り出す。
「あなたは誰ですか……?」
何とかそれだけが言葉になった。
「
びくり、と呂花の体が震えた。
「私は、
時は確かに刻まれているだろう。
だが呂花と彼の間は、そこだけ時間が止まってしまったようだ。
息が詰まりそうな緊迫感があった。
思考さえ止まってしまいそうだった。
キリュウ?コウヤ?
誰だ?
目の前の彼なんて知らない。
思い出す。───何をだ?
何を言われたところで、知らないものを知っているなどとは言えない。
呂花をきつく見つめていた視線がふと緩んだ。
それと同時に今度はあきらめが、彼の瞳に浮かんだように見えた。
小さく息を吐いて彼は言う。
疑うように、責めるように。
「……本当に、何も思い出せないのですか」
呂花を真っ正面から見ていた彼は、もう一度息を吐くと呂花から視線を外して言った。
「行きましょう」
行く?
「……どこへ?」
呂花にすれば当たり前の質問だった。
「あなたの帰るべき場所ですよ」
「帰るべき、場所?」
薄ら寒いものを感じて、呂花は一歩後ずさりながら呟く。
「どちらにしても、あなたにはそこ以外にはもう、戻れる場所はないのですから」
呂花は恐怖に凍り付く。
彼はわかっているのだろうか。自分がどれほど呂花の恐怖を煽っているかを。
戻れる場所がない。
生活の痕跡が消えた。
それは家族との繫がりさえも消えたのだと、そう彼は言っているのではないのか。
馬鹿な。
呂花の帰る場所は、家族のいるあの場所だ。生きていく上での良いこと悪いこと、それらをひっくるめて呂花を受け入れてくれる、大切な場所。
そして呂花が大事に想う人達のいる場所。
どんなことが起ころうとも、最後に呂花が帰るのは家族がいるあの場所なのに。
何を彼は言うのか。
「何で、そんなっ……!」
混乱の中で急激に浮かんでくるのは、怒りだ。
他人に対して呂花がこれほどあからさまに怒りを表に出したのは、初めてかも知れない。
けれど今は、目の前の人物に対して確かな怒りを感じていた。
当然だ。他人に自分の生活を、人との繫がりを勝手に絶たれるなどあり得ない。
そこにどんな理由があろうと、そんな理不尽は不当である。
急速にわく怒りに驚くよりも、言葉が先に口をつく。
「私が何故、あなたに生活を剥奪されなければならないんですかっ!第一そんなこと……っ」
「今、体験してきたばかりではありませんか」
容赦のない言葉が、呂花に突き刺さるようだった。
呂花は息を吸い込んで彼を凝視する。
そうだ。そんなことがあるわけがない。そう思って会社へ行ったけれど。
誰も呂花を認識してはくれなかった。
「……っ。何の理由で、あなたは、私を迎えに来たなどと、言うんですか」
唸るように低く呂花は声を吐き出す。
「
返る言葉は間をおくことすらなく、淀みがなかった。
ナカナリサマ?
また、訳のわからない名前だ。
「っ、」
呂花はぎり、と手を強く握る。
帰る場所を失っただなんて、家族との繫がりを絶たれただなんて、彼の言葉だけで信じられるはずがない。
意を悟ったのか、彼は言った。
「確認されたいのならば、どうぞ。その目で確かめて来られると良い」
言われるまでもない。
呂花は来た道をとって返す。
彼はただ呂花のその様子を見つめていた。
処理は一度行ってしまえば、よほどのことがない限り元へは戻らない。確認しようとすまいと結果は変わらない。
行きと同じだけの時間をかけて呂花は家へと急ぐ。
今家にいるのは比佐子だけだ。
呂花は一時間ほど前に出て来た家の玄関前に立った。
一抹の不安を感じて一度は躊躇ったものの、二度目は迷わず
軽い足音が家の中に響くのが聞こえた。
「はーい」
家を出た時と少しも変わることのない、母親の声だ。
自分の存在が家族の中からも消えてしまったなどと。突然そんなことを言われて信じる方がどうかしている。
彼の言葉を鵜呑みにする必要などない。
取っ手を回す音がして扉が開いていく。
扉が全開して比佐子が姿を現した。
はた、と目が合う。
母なら言ってくれる。
どうしたの、呂花。やっぱり具合が悪かったの、と。
呂花は祈る思いで比佐子を見つめる。
「……どちら様ですか?」
「───っ!?」
これ以上ないほど驚いて、呂花は動けなくなる。
そんな。
こんなことが、本当にあるのか。
「あの、ご用がなければ……?」
どうして、そんな不審そうな顔をするのだ。
「すみません、家の用事がありますから」
立ちすくんだままの呂花に、比佐子が扉を閉めようとする。
まさか。
待って、と心の中で呂花は叫んで我に返る。
「お……っ!」
お母さん、と言いかけた言葉を呂花は最後まで続けられなかった。
「すみません」
彼が心持ち大きい声で、呂花の後方から割り込んだからだ。
二人の方へやって来ると、彼は比佐子に軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。連れの者が、どうもお宅を勘違いしたみたいで」
何をこの人は言っているのだろうか。
呂花が自分の家を間違えたなどと。
「……はぁ。……それで、そちらの方、大丈夫ですか?」
硬直して動くどころか、言葉すら失ったままの呂花に目をやって比佐子がやはり疑わしそうに、だがどこか気遣うように言った。
「ああ、少し驚いたのでしょう」
彼は失礼しました、ともう一度比佐子に頭を下げた。
「はあ、いいえ」
怪しみながらも比佐子はわずかに笑って扉を閉めた。
(待って、───待ってお母さん───っ!!)
すがる思いで取っ手をつかみかけた呂花の腕を、横から彼が素早くつかんだ。
声が、出ない。
口からは息だけが出入りしている。
(どうして)
そのまま、呂花は引っ張られるようにして家から引き離されて行く。
(何で……っ)
つい一時間前に、行ってらっしゃい、と笑ってくれたのに。
顔は、視線だけは、見えなくなってもまだ家の方向を向いていた。
家の中に戻った比佐子の独り言を、呂花が知ることはない。
「さて。今日は花雫の第二の部屋を片づけるか。まったく。二つも部屋を占領して……」
人気のない場所まで来てようやく彼は呂花の腕を放した。
混乱を極める呂花に、彼は何でもないことのように言う。
「これが、今の現状です」
放心状態の呂花に、彼の声は降ってくるようだった。
呂花ははっと気づく。
そうだ。まだ父親と妹には確認していない。
小さな長方形の携帯用通信端末を取り出すと、呂花は父親に電話をかける。
『はい、見守です』
「お父さん!私!呂花よ!」
呂花が叫ぶ。
間が空いて返ってきた言葉に呂花が目を見開く。
『……どちら様ですか?相手先をお間違えではありませんか?』
言葉を返さない呂花に電話の向こうで怪しむ気配が感じられる。
『相手先を確認なさって下さい』
通話が切れた。
おそるおそる花雫にもかけてみる。
『はい、見守です』
明るい声が聞こえた。
「か、花雫……お、お姉ちゃん、だけど」
『……誰?……私、お姉ちゃんなんていないけど。……すみません、忙しいので』
あっという間に切られて呂花は呆然とする。
「他にかけられても同じですよ。何でしたら全部試されても構いませんが」
衝撃のあまり、呂花の手から端末が滑り落ちた。
これは本当に現実なのか。
会社の人間のみならず、家族までもが自分を認識してくれないなんて。
気がおかしくなりそうだ。いったい、自分のさっきまでは何だったと言うのか。
何が自分に起こっているのだ。
自分はもっと、会社の人間にも家族にも、強く問い詰めなければいけなかったのではないのか。もしかしたら、動揺した呂花はあまりにも簡単に引き下がったのではないか。
比佐子には自分が娘だとさえ言い出せなかった。
何故だ。
彼の手をふり払って戻れば良かったはずだ。
あのいわれのない恐怖と同じものが、今は確たる理由を持って呂花に襲いかかってくる。
それは目の前の状況にではない。
今この状況こそが現実なのだと、認め始めている自分がいることに対してだった。
(そんな……)
完全に自失している呂花に、彼は呂花の落とした端末を拾って差し出す。
「そろそろ、良いですか」
午前中一杯は確保しているが、ここでこれ以上の時間をかけるわけにもいかない。
呂花は彼が差し出した端末を虚ろな表情で見やる。そしておもむろにそれを受け取った。
端末を手渡した手をそのままに、彼は続けた。
「つかまって下さい。一般的な交通手段を使う気はありませんので」
どういう意味なのか呂花にわかるはずもない。
ただ差し出された手を見つめるだけだ。
呂花には彼とともに行く理由などない。
動こうとしない呂花の腕を、彼は再び強くつかんだ。
それを
一瞬体が浮いた気がして、呂花は自分の周囲を見て唖然とする。
景色が違う。だが、見覚えはあった。
(ここは)
三日前に友人と旅行した、檜晶。
目の前の彼と出会った、
心音が早くなるのがわかる。
(駄目だ)
彼がつかんでいた呂花の腕を放す。
「見覚えが、ありますね」
確かめるような言葉に、呂花はぎくりとする。
(嫌だ)
入ってはいけない。
怒濤のような恐怖が呂花に押し寄せる。
「
社の名前なんて知らなくていい。
何も知る必要なんてない。
体のすべてが警鐘を鳴らしているようだった。
「さあ」
足は動くはずもない。地面に繫ぎ止められたように、呂花は動かない。
彼はしばらく待っていたが、業を煮やしたのかついには呂花の手を引いた。
その敷地に足を踏み入れた呂花は、目を閉じて嘆息する。
(あぁ───)
二御柱の両脇で、梅と桜の大木が、微かにその身を揺らした。
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