第4話 気配

 夜に浮かぶ星を綺麗だと思うのは、呂花おとかもその例にもれることはない。

 月初めで忙しい時期の残業を終え、職場から駅へ向かう途中で空を仰ぐと、呂花は小さくため息をついた。

 友人との旅行から三日が経つ。

 あの時の言葉にし難い恐怖は何だったのか。

 それこそ、夢だった気さえしてくる。

 本当に現実だったのだろうか。

「……気にしすぎ、か」

 ぽつりと呂花は呟く。

 あの星社ほしやしろは。そこで出会った人は。そしてその後の、羽音。全部。

(きっと、気のせい……)

 何故恐怖など抱いたのか。多少不思議に思いもするが、それで呂花の生活が変わるというわけではない。

 日が経てば忘れているだろう。

 そう思いながらも、どこか何らかの理由を探そうとする自分がいる。

 何が怖かったのか。目の前が急に変わって見えたことが、怖かったのだろうか。

 それとも、別の何かが怖かったのか。

 声をかけられて。

 走って、

 逃げたけれど……。


───バサッ。


 背後で聞こえた音に呂花はぎくりとする。

 わずかにふり向けば、袋か紙切れか暗くてよく見えないが、そう言ったたぐいの物が風に煽られて発した音のようだった。

 何故あの時、自分は羽音だけでがよぎったのか。

 何かの思い込みがあったのか。

 深く考え込んでも仕方がないのだが。

 結論は出ないのだから。

 頭を一つ振って呂花は思考を切り替える。

 バスは間の悪いことに、一つ前が出たばかりだった。

 本数は少ないわけでもなく、待てば次が来るのはわかっていたが、呂花は何となく歩いて帰る気になって向きを変えた。

 徒歩で帰ればそこそこ時間はかかる。バスでおおよそ十五分。歩きでは道を変えても二時間弱はかかるだろうか。

 人通りの多い繁華街とまではいかないが、そこそこ大小の店が並ぶ明るい筋を通るので、歩いて帰る分にそれほどの難はない。

 この時間に歩いて帰るのは初めてだが、思いのほか徒歩で帰る人もいるようだった。呂花のように仕事帰りらしき姿も結構目に入る。

 賑やかな通りを抜けて、ようやく道の半分まで来たところで、呂花は足を止めた。

一汪ひおう星社……)

 子供の頃から年末年始などに参拝する星社だ。

 旅行の時に感じたような不安はない。むしろ安心するくらいだ。

 二御柱ふたみはしらからすぐに、傾斜の緩やかな十メートルほどの階段があり、それを上った向こうにもりに囲まれるようなやしろの拝殿がある。その更に奥まった場所に祀殿しでんがあるが、呂花達のような参拝者が近づくことはない。

(久々だし、お参りでもして行こうかな)

 石段の足元には、小さな照明が埋め込まれており、夜に参拝する者にとっては親切だ。

 境内もそれなりに外灯が設置されていて、木々に囲まれてはいるがそこまで陰鬱な感じはしない。

 最近の星社は施設の環境整備がどこも進んでいる。近辺の星社もやはり似たような感じだ。

 時代とともに減ってきたとは言っても、やはり夜の参拝者はそれなりにいる。

 昔に比べれば薄れてはいるのだろうが、自然を、ことに星を物事の根底に据える習慣のあるこの葉台では、日夜を問わず星社を訪れる人は多い。

 星社には星霊せいれい地霊ちれい、この葉台ではそれらを一括りに精霊しょうりょうと言うが、その精霊達を祀る。では何故、その祀る場所を星社と言うのか、その辺りの詳しいことは呂花も知らない。

 そして、その精霊達をここで拝するのだが、その存在を肌で感じて目で捉えられるわけではないので、どうしても一方的にはなってしまう。

 呂花の横を数人がすれ違って行った。

 少なくはないといっても、社に来るのが若者より年輩者が多いのは仕方のないことなのだろう。

 きよどころで両手や口などを浄めて、拝殿へと向かう。

 二御柱から拝殿に到る道のりは、どの社もそう思うがやはり空気が良い。

 伝統文化や古いしきたりなど細かなことは、呂花にはわからない。

 でも星社の空気は。その敷地内の居心地の良さは、呂花をほっとさせる。昼だろうと夜だろうと、その澄み渡る空気の感覚は変わらない。

 精霊を祀るという独特の場が、そういう空気を生み出しているのかも知れない。

 拝殿で一礼し、呂花はただ無心に手を合わせて目を閉じる。

 星社は、確かに精霊に祈り願う場所である。けれど、誰にも言えない想いを吐き出し、懺悔したり、感謝する気持ちを述べることもある。あるいは、誓いを立てたりすることも。

 星社とは気持ちを鎮める場所なのだと、呂花は思っている。

 本当に感じるままの、自分勝手な解釈なのだけれども、呂花はそう思う。

 ふと閉じた目を開いて呂花はもう一度拝殿に向かって一礼した。

 来た道を戻ろうと身を翻しかけた呂花の目の端に、何だろうか。目が素通りできないものがあって、呂花は動きを止めた。

 よく見れば小さな子供、どうやら少年らしい人影が少し離れた場所に立っている。

 参拝者の一人だろうか。

 夜なので色などははっきりと見えないが、服装はどうも星社の職員が時折身に着ける、社着やしろぎの一種に見えなくもない。

 前開きではなく、右前を重ねて留める詰め襟で、長い袖口に絞りは見えない。打ち合わせ側の右肩辺りに紐を組んだような飾りのある上の衣を、下の衣に入れずに腰辺りで細長い布と、少し太めの紐で結び留めている。

 下の衣はズボンと形はほぼ同じだ。裾はそれほど広がっている風にはないが、袖口と同様に絞りはなかった。靴は少し厚みがある平たい物のようである。

 一つ不思議だったのは、全部が黒っぽい色に見えたことだ。星社で見かける物はだいたいが白を基調としている。社紋しゃもんや衣の模様、そして他の装飾部分は鮮やかな色が着いている物があっても、やはり白に近い物が多いように思う。衣の生地そのものに色が着いていることもあるが、やはり淡い、それも白に近いような物しか呂花は見たことがなかった。葬儀の際はそれこそ社着は白かった気がする。

 暗い中で見たからそう思ったのかも知れない。

 ここの社関係者の子供だろうか。

遠子とおこちゃんの子?)

 それとも親戚なのか。

 実を言えばこの社の関係者が呂花の中学校の同級生にいた。卒業してからは進学先が違ったため、ほとんど会うことはなくなってしまったが。五、六歳。いや、もう少し大きいだろうか。

 少年も気づいたのか、こちらを向いたようだったが別にどちらとも声をかけるでもない。

 何となく気にはなったものの、呂花はそのまま参道を引き返す。

 足を踏み出した呂花の背後で、一つ、がした。

「っ!」

 思わず呂花はふり返る。

 あ、と思えば少年の姿は先ほどの場所には見当たらない。

 何かにつられるように呂花が上を見上げると、黒い影が一つ。

 目の前にひらり、ひらりと外灯に照らされながら舞落ちてくるが一枚。

 呂花は戦慄する。

 怪異か。それとも目の錯覚か。

 脳裏によぎった一瞬の想像は、自分の妄想であると、とっさに呂花は打ち消そうとする。

 階段を上ってくる年輩の男女らしき声が聞こえた。近づいて来る彼らの声が呂花の横を通り過ぎた時、呪縛から解かれたかのように呂花は走り出していた。

 よくはわからない。

 わからないからこそ、なおさら恐怖は深い。

 だが確かに、呂花はその恐怖から逃れるために、それを振り切るように、必死で走っていた。


───私は何がそんなに怖いのだろうか。


 足を休めることもなく走って走って、呂花は無我夢中で家の玄関に飛び込んだ。扉を乱暴に閉めて、息も荒く呂花はその場にへたり込む。

 そこへ丁度二階から下りてきた花雫かなが気づいて声を上げた。

「お姉ちゃん?え、時間おかしくない?」

 バスで帰ってくると思っていれば、確かに帰宅時間がおかしいと思うだろう。

「たっ……ただ、いま」

 喘ぎながら笑ってみせる呂花に花雫が更に目を丸くした。

「え、ちょっと。走って帰ってきたの!?」

「その、運動……」

「はあ?」

 心底呆れたような妹に、呂花は息を整えながら更に苦笑いした。



 知らない草原に呂花は一人で立っていた。

 音はなく、すべてが眠っているように静かだ。

 周囲は暗い。

 薄い月明かりで、伸びきった草だけ、ぼんやりとその形が見える。

 辺りを見回すと、空には小さな明かりがちらちらと。そして足元や呂花の周りからもわずかな輝きがぽつぽつと浮かび上がる。

 もう一度、今度は全部を見渡して何だろうと思ったのはつかの間。

 小さな光達は一斉に呂花に手を伸ばした。

(───っ!?)



はっとして呂花は目を開いた。

 心臓の鼓動が早い。汗が全身をぬらしている。

 しばらくの間、呂花は自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。五分くらいしただろうか。

 ようやく心臓が一定の調子を取り戻したところで、呂花は寝台ベッドから体を起こした。

 首をめぐらして見るが、呂花がいるのは、どこも変わることのない自分の部屋だった。

 壁にかかった時計は午前五時を指している。

 ほっと息を吐いて呂花は窓に近づき、窓掛カーテンを開けた。

 それをつかんだまま、呂花の体が硬直する。

(……そんな)

 外はもう明るい。だがそんなことで呂花は驚いたわけではない。

 窓掛カーテンを開けたその向こう。

 そこには、あるはずのない緑が広がっていた。

 思考が止まる。

 景色は延々と緑の裾野を広げ、その合間に田畑を抱き、遥か遠くには高低のまばらな山々が顔を覗かせていた。

 ところどころに見える建物はもちろん、そのすべての景色は呂花が知っているものではない。

 映画か何かかの、時代劇の舞台でもあるかのような光景。

 それらの手前に小高い森に囲まれるようにして、他の建造物とは明らかに異なる造りの建物が一棟。

 その周辺にも大小いくつかの建物が見える。

 住居か倉庫か。

 呂花にはその建物が何であるのか、自分の持つ知識の中から、見当をつけることはできた。

(……星、社……)

 ただし、いつの時代の物なのか。周囲の景色は多くの情報媒体で目にするの風景に思えるし。目に映っているその星社も、呂花が知るそれとは外観がかなり違うように見える。造りはしっかりしているようだが、装飾などは見当たらず、風格は感じるがかなり質素なたたずまいだ。

 生唾を呑み込んで、呂花は一つ瞬いた。

(っ!?)

 寝惚けていたのだろうか。

 「疲れてる……?」

 思わず呟いた声はかすれていた。

 目まいを起こしそうな気分のまま、呂花は一階の洗面室へと向かった。

「どうしたの、お姉ちゃん。今日は早いけど」

 驚いたような、それでもどこか笑うような母親の言葉に呂花は小さくうん、と答える。

「何?どこか具合でも悪いの?」

 過保護ではないのだが、少し心配性の母、比佐子ひさこが呂花の気のない返事に反応した。

「ううん、悪くないよ」

「昨日走って帰ってくるからだ」

 いつの間にか起きてきたらしい父、行信ゆきのぶの低い声が呂花の背後からした。

 確かに、道の半分を休みもせず走ったのだから、疲れたのかも知れない。

 あれだけ走ったのは、高校以来である。

「あらぁ、お父さんも早いの?」

 比佐子が呆れたように言った。

「ついでに私も早いときた」

 結局花雫も起きてきて、それほど広くもない洗面室が混雑気味だ。

 三人を前にエプロン姿の比佐子がぽつり、と言った。

「いい天気なんだけど。今日はお布団干せないねぇ……」

 なんだかんだ言いながらも、いつもより少しだけ早い見守みもり家の朝が始まった。

 食事をすませ、身支度を整えて何となくゆったり構えていた三人だが、気づけばあっという間に時間に迫られ、玄関口が慌ただしくなる。

「あ、花雫!ほら忘れ物!」

 呂花が言って小型の通信端末を手渡す。

「ええっ、お姉ちゃんに渡されるとは思わなかった」

 白いブラウスに、膝下までの薄い茶色のフレアスカートを着た花雫は、手に上着と鞄を持って今まさに、靴を履いて玄関を出るところだった。

「お母さん、今日はやっぱり布団干したら駄目よ!」

「こら、花雫!」

「行って来まーす!」

 軽口を叩いて飛び出て行く花雫を、呂花は軽く睨みながらも笑った。

 まったく、と呟きながら靴を履きかかった呂花にも待ったがかかる。

「呂花、お前は手ぶらで会社に行くのか」

 はっとしてふり返れば、しっかりアイロンのかかったシャツに、紺のネクタイをばっちり締めた背広姿の行信が立っている。

 自分の右肩に目をやれば、確かに鞄がない。

 開け放たれた居間の長椅子にちんまりと座っている。どこか悲しげにさえ見えた。

「うん。花雫のお見送りをしてからと、思いまして」

 悪びれもせず、にっこりと笑う呂花に行信は呆れたように言う。

「苦しい言い訳はやめなさい。往生際の悪い」

「あなた達、やっぱり親子ね」

 更に呆れたような声がして、比佐子が居間の扉の前で右手に掃除機を持ち、左手を腰に当てて二人を見ていた。

「机の上のあれは何でしょうかね、お父さん」

 その言葉に二人が居間の真ん中の机を見た。行信愛用の手帳が寂しげに机の上に残っている。

「お父さん……」

 横目で呂花が行信を見た。

 行信が何も言わずに素早く手帳をさらい、靴を履きかけたままの呂花の横を通り過ぎて、勢いよく玄関を出た。

「行ってくるぞ!」

 そして最後に残ったのは。

「お姉ちゃんは?」

 比佐子が掃除機を置いて呂花の鞄を持って来てくれる。

「ほら。まったく。お姉ちゃんが一番遅いんだから」

「……、ほっといて」

「星にお尻を叩かれるよ」

 笑いをこらえるような比佐子に、少しだけむくれて呂花は鞄を受け取った。

 星にお尻を叩かれる。

 大昔からある言葉らしく、親が子供を急かすのに誰かが言った言葉が、時代を超えて今なお広く使われているのだ。

 星をを崇める風習がある葉台らしいと言えばそうなのかも知れないが、この年で言われると少々恥ずかしい気がする。

 花雫と同じく白いブラウスに、下は白っぽい茶色の折のついたズボン。そこへズボンと同系色の踵の低いパンプスを履き、上着と渡された鞄を持ってようやく呂花は玄関口に立った。

 半分はむくれたまま、半分はありがとう、と顔でそう言って出がけの言葉を呂花は口にした。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 玄関を出る背中に笑い含みの大きな声がかかった。

 ばたばたする朝はいつものことだけれども、呂花は嫌いではない。

 何の変哲もない、ありふれた日常の一コマ。それは呂花をどこかほっとさせる、大事な一瞬だ。

 その隙間にふと入り込んできた小さな非日常。

 そう。あの理由のない恐怖やちょっとした不思議なことだって、誰にでも少しくらいは経験があるかも知れない。

(あまり考えすぎない方が良いか)

 小さく苦笑して呂花は二つ目の曲がり角を曲がった。

 気温は日に日に高くなってきている。

 正面から差してくる太陽の光も段々強くなる。その日差しを軽く遮りながら、呂花は空を見上げた。

 長雨が過ぎれば夏はすぐそこだ。

 下げかけた視線の端にふと、何か影が映った。そのまま、呂花の視線はひかれるようにその影を見た。

 この時間帯にこの道を通る人は少ない。

 はっきり言って呂花くらいのものだ。

 ただ今日は珍しく人がいた。

 そのこと自体は少しもおかしくはない。

 それでも、呂花の足は止まった。

 きり、と心臓が微かな悲鳴を上げる。

 少し離れた先に見える人影は、近所の人でも知り合いでもない。

 道に沿うように連なる、民家の外壁に背中を預けた人影は、動けずにいる呂花に気づいたのか、壁から背を離してこちらを向いた。

 短い黒髪の、背の高い薄い黒縁眼鏡をかけた黒い瞳の青年。

 白い長袖シャツに黒いズボン姿で黒い靴。

 どこにでもいそうな、社会人風の青年。

(何で───)

 ぐっと握った手に力がこもる。

 まさか。

 非日常が続いているなんてことはあるはずが、ない。

 足を動かして横を通り過ぎれば良いだけなのに。

 こちらを向いた人物は、ともすれば呂花の動きを阻むようにさえ見えた。

 言いかえれば、まるで呂花を待っていたみたいだ。

(───そんなはず、あるわけない)

 目が合って、呂花は息を呑む。

 驚きと衝撃で完全に固まってしまった呂花に彼は、そう、あの星社の前で出会ったが、一言言った。

「迎えに来ました」

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