第22話 幸せの扉
大学は春休みに入った。
オヤジの身体も奇跡的に、すっかり元通りに回復していた。
いよいよ、桜並大学では新年度の入学テストがスタートした。
連日、押し寄せてくる受験生の数に圧倒されながら、オヤジたち警備員は、キャンパス内の厳重な警戒な当たっていた。
そして、入学テストも無事終了し、合格発表の日を迎えた。
当日の朝、オヤジはインド人留学生、ルドラの事を考えていた。
大学の知的財産が盗まれかけた大事件。
もし、あの恐ろしい魔力によって、盗み出されていたら、こんな平穏な日を迎える事は出来なかったであろう。
『もうすぐ、四月かあ』
このキャンパスにも、再び、桜の花が咲き誇る頃、また、新たな顔ぶれが増える時期がやって来た。
オヤジは安らかな気持ちで、ようやく蕾をつけ始めた桜の木に、我が娘、夏海の姿をダブらせていた。
夏海は大学に入学して、なかなか友達ができず、いつも寂しそうな顔をしていた。
『途中で大学を辞めたりはしないだろうか?』などと、心配ばかりしていた自分が恥ずかしく思えた。
よもや、自分の大転機とも言うべき大事故をきっかけに、夏海に友達ができ、彼氏までできてしまうとは。
『人生、何が起こるかわからんわ』
つくづく、そう思った。
オヤジたち、警備員にとっての長い春休み。
受験シーズンも終わり、新入生を待つだけとなったキャンパスは、とても平和だった。
もっとも、大学内で働く職員たちは、新入生を迎えるための準備に、忙しい日々を送っていた。
神野さんがいなくなった寂しさは、今もなお、続いていた。
神野さんの抜けた後の穴埋めは、次の新任警備員が入ってくるまでの間、他の大学からの臨時の警備員で補う事になっていた。
休み中のキャンパスは、学生もほとんど見かけなかった。
オヤジはひっそりとしたキャンパスを、朝の巡回のため自転車に乗り、遺跡保存庫のあるグラウンドの辺りを走っていた。
時折、吹く強い風にバランスを崩しそうになりながら、自転車をこいでいた。
そんな風の強い日には、必ずオバケ君が現れて、オヤジの漕ぐ自転車を後ろから押してくれた。
『ええよ、オバケ君。大丈夫やから』
オヤジは迷惑そうに言った。
オバケ君の意外と強い力に、かえってバランスを崩しそうになった。
こんな時、オバケ君はいつもと違うリアクションを見せた。
慌てるオヤジを見ると、余計面白がって、やめようとしなかった。オヤジと知り合って、やっと自分を取り戻したように見えた。
本心から沸き上がるオバケ君の笑顔だった。
桜が見事に咲き誇る春本番がやって来た。
ここ桜並大学も、その名にふさわしい季節を迎え、キャンパスは桜の花で埋め尽くされた。
四月一日。快晴。
今年も、新入生たちが夢と希望に満ち入学してきた。
心の底から沸き上がる笑顔は美しい。
オヤジは警備室の前で、さすまたの手入れをしながら、新入生たちを見ていた。
『俺もこの大学に来て、ちょうど一年になるかあ。来た頃の印象と言うたら、キャンパスを歩く学生や職員たちの表情が、ほんま暗かったなあ。けど、たった一年で、こないに変わるやなんて信じられんわ』
その時だった。
前方からうつむき加減で、歩いてくる学生に目が止まった。
だが、オヤジは学生の顔を見て、ハッと身構えた。
そこに突如現れたのは、あの魔人ルドラ・マリックだったからだ。
ところが、ルドラはオヤジに気付く様子もなく近づいてきた。
オヤジに気付いたルドラは、オヤジが手にしたさすまたを見て、そこ場に足を止めた。
そして、オヤジと目が会った。
ルドラの顔が見る見る青ざめていき、明らかに動揺しているのが感じられた。
『おはようございます!』
透かさず、オヤジは笑顔で元気良く、声を掛けてみた。
その声に、はっきりと身体を硬直させるのが見て取れた。
『おっ、おっ、おはようございます』
ぎこちない日本語が、更に、ぎこちなく聞こえた。
ルドラは小さな声で挨拶すると、オヤジには目も会わせず、背中を丸め、足早に通り過ぎて行った。
オヤジはルドラの後ろ姿を見送った。
どこから見ても普通の、むしろ気弱なインド人留学生にしか見えなかった。
今まで、恐れていた自分がバカみたいだった。
『ふうっ』
一瞬にして、オヤジの胸の支えが吹き飛んでしまった。
これで、全ての疑問が解消できた。
その時、後ろで声がした。
『瑠璃さん』
振り返ると、オバケ君が立っていた。
『オバケ君!』
オヤジはビックリして、大きな声を出してしまった。
今まで、人目を気にして、昼間は絶対に姿を見せなかったオバケ君が、オヤジとも夜中にしか会おうとしなかったのに、どうして今日、こんな朝早くにオヤジの前に現れたのか、わからなかった。
『どうしたんや。こんな朝早くから』
オヤジは周囲の人目を気にしながら、尋ねた。
『どうしても今、会いたかったんだ』
その言い方が、やけに落ち着いていた。
『瑠璃さん、幸せそうだね』
『おいおい、急にどうしたんや?気持ち悪いなあ』
『最近、生き生きしてるからさ』
『まあ、あんな事があって、命拾いもしたしなあ。あれ以来、見える景色が変わってしもたわ。全ての事に感謝や』
オバケ君はなるほどと言った顔で頷いた。
『夏海さん、良かったね』
『ありがとう』
一人の職員が不思議そうな顔をして、オヤジの前を通り過ぎて行った。
さすまたを持った警備員が、独り言を言っているのだから、誰が見ても異様な光景に映ったであろう。
『最近、僕ね、体調が良くないんだ』
オバケ君は自分の胸を手で押さえて苦しそうな顔をした。
『えっ!お化けでも体調悪くなるんか?』
『からかわないでよ!』
オバケ君は苦笑いした。
『今までこんな事、なかったのに、瑠璃さんの顔を見ると、胸が急に苦しくなるんだ。物凄く居心地が悪いって言うか。瑠璃さんの顔、眩しくて真っ直ぐ見れないんだよ』
自分を嘲笑うかのように、『ふっ』と短く鼻で笑った。
『それにさ。いつまでも、こんな所に居られないし!いい加減、飽きたって言うか。そろそろ、僕もこの大学を卒業しないといけないと思ってさ』
その言葉にオヤジの身体の中を激しい電流が駆け抜けた。
『お別れの時が来たんや。オバケ君は、ようやく現実を受け入れる事ができ、向こうの世界に帰ろうとしてるんや!』
そう確信した。
オヤジはオバケ君を、真っ直ぐ見詰めた。
『長かったな。でも、やっと、この世界も卒業や。良かった、良かった。これで、一歩前進や。おめでとう!大葉圭太君』
オヤジは満面の笑顔を浮かべて言った。
じっと聞いていたオバケ君は、突然、自分の顔を押さえ、震え出したかと思うと、天を仰ぎ大声で泣き出した。
あまりに大きな声に、オヤジは人に聞こえやしないかと、周囲を気付かう程だった。
お化けが、これ程涙を流すものなのか?と思えた。
オバケ君は、一生分の涙を流した。
嵐の後に天から差し込む後光のように、オバケ君の顔に笑顔が戻った。
『初めて、フルネームで呼んでくれたね』と
嬉しそうに答えた。
『変やけど、元気でな。もし、来世、生まれ変わったら、今度は、ほんまの親友として会おうや!』
オヤジはオバケ君と、最後の握手を交わした。
オバケ君に、もう涙はなかった。
むしろ、満足感に溢れた笑顔だった。
『じゃあ、またいつか。サヨナラ、瑠璃光介警備員殿!』
軽く敬礼の真似をして見せた。
その直後、彼の後ろに扉の形をした空間が現れ、オバケ君は迷わず、その扉を押し開けた。
中から勢い良く白い光が漏れてきて、オバケ君は深い霧に包まれ見えなくなった。
最後の姿を見送るオヤジの頭の中は、オバケ君との思い出が、走馬灯のように駆け巡った。
その日以来、オバケ君はキャンパスに姿を表す事はなかった。
オヤジは朝の巡回を終え、警備室に戻る途中だった。
この日も青空が広がり、満開の桜が、あまりにも美しかったので、自転車から降りて、桜に見とれていた。
時計台のある図書館を潜り抜け、噴水のある広場に差しかかった時、桜吹雪の舞う中を、前から男子ラグビー部の学生たちが、女子マネージャーを先頭に、こちらに向かって走ってきた。
オヤジは自転車を脇に寄せ、集団に道を譲った。
その時、女子マネージャーと目が会った。
『おはようございます!』
元気一杯、大きな声で挨拶を送った。
『おはようございまーす!』
女子マネージャーから、明るい返事が返ってきた。
その後から、男子部員の挨拶が木霊のように返ってきた。
彼らの厳ついガタイからは、想像もできない清々しい笑顔で、オヤジの目の前を通り過ぎていった。
オヤジは、しばらく彼らの後ろ姿を見送っていた。
空を舞う桜吹雪が、彼らの後を優しく包み込んで行った。
一団の後を追うように。
オヤジには、また、新たな目標ができた。
このキャンパスに、一つでも多くの笑顔の花を咲かせたい。
絵顔の花は、今咲き始めたばかり。
『笑顔が湖面にできた水紋のように、広がってくれる事を願いつつ、警備員として精一杯のお手伝いをしよう』
オヤジは、いつにも増して幸せに胸を躍らせていた。
幸せの扉が、一気に押し開かれたように。
完
瑠璃色の奇跡 伏木草 @higa-noboru9358
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