第11話 命の恩人

朝八時を過ぎると、正門前のキャンパスロードは、学生やバスの往来で賑やかになる。

中には、自転車やバイクで通学してくる者もいた。

キャンパス内を走る車道は、明らかに違う速度で、バスが学生たちを追い越して行った。

バスが停車するや否や、中に閉じ込められていた人々が勢いよく飛び出してきた。

その動きに一切の無駄はない。

皆、迷うことなく、それぞれの目的地へ消えて行った。

その光景は、正門脇に佇む警備室から見ていると、まるで満々と水を湛えた大河を見ているようだった。

水は一定の速度を保ちながら、規則正しく流れていった。

毎朝、お決まりの風景である。

桜並大学では、秋のイベントである大学祭を一ヶ月後に控えていた。

朝から警備室は、その電話応対に追われる日々が続いていた。

大学祭は、年に一度の最大イベントである。

全サークルに共通して言える事は、自分達の活動の成果を披露する、最高のステージでもあった。

大学内のサークルはもちろんの事、社会交流を深めるために、他大学からの参加も積極的に受け入れているのだった。

警備員の立場として、大学祭が終わるまでの間、何かと忙しくなりそうだった。

電話でのクレームも多くなった。

例えば、バスに乗り合わせた乗客から、『お前とこの学生、乗車マナー悪すぎや!』とか、『お宅の学生さんの放置自転車とバイク、何とかならへんの!』

といった一般の大人やコンビニ店舗から苦情が警備室にかかってくる。

まだ経験の浅いオヤジは、その対応に相当苦労をさせられた。

そんな中、唯一頼りになるのが、受付を専門に担当する町田さんだった。

四苦八苦の対応に、オヤジのなまった体が悲鳴を上げていた。

十月に入って、ほぼ毎日、こんな状況が続いていた。

例のオバケ君だが、あの衝撃告白の日以来、姿を見せなくなっていた。

オヤジは一斉、オバケ君の気配を感じなくなかった。

『繊細な彼のことや。俺に自分の過去を打ち明けてしまった事に、後悔しているのかもしれへん』と思った。

大学祭に向け、風紀を良くするために、バイクの一斉取り締まりが始まった。

そのため、他の大学から特別警備員が配属された。

大学の規則により、学生はバイクで通学する場合、駐車許可証が必要だった。

だが、学生の中には、登録せずに駐車する者が、あとを絶たなかったのである。

そういった学生を、取り締まるために行われた。

バイク取り締まりが行われている期間中、ずっと大槻隊員の機嫌が悪かった。

特別警備員から注意を受けた学生が、なぜか大槻隊員の所へ回されてきたからだ。

学生たちは皆、自分を正当化するために、大槻隊員に文句を浴びせてきた。

大槻隊員もどちらかと言えば、短気な性格で、すぐ態度に表れた。

ある日、見かねた荒木隊長は彼を注意した。

『ええか、大槻君。相手は学生や。一緒になって、怒ってどうするんや!警備員たる者は、いつ、いかなる時も、冷静沈着に対処しないと困るんや!』と言った。

注意された大槻隊員は、益々膨れっ面になって、押し黙ってしまった。

また、この時期気になるのは、近年の異常気象のせいか、遅くがけに来る台風が多くなった事である。

やはり、今年も遅がけの台風がやって来た。

台風は大型で、勢力を保ったまま、今夜中に桜並木市上空を通過する見込みだとテレビのニュースが報じていた。

今日、オヤジはちょうど勤務日に当たっており、大学側は台風情報をもとに、いち早く学生や職員など、関係者に帰宅命令を出した。

今年、三度目の台風直撃だったが、オヤジは運良く勤務を免れていた。

だから、台風時における警備員の苦労を、まだ知らなかったのである。

今回、当たりくじを引いたのは、塚田副隊長、大槻隊員、そしてオヤジの三人だった。

夕方から雨が激しくなり、風も時間を追う毎に、強さを増してきた。

塚田副隊長は、被害の出る危険性の高い場所に気を配り、刻一刻と変化する台風情報に、余念がなかった。

その時、警備室の電話が鳴った。

『はい、こちら警備室、塚田です』

副隊長が素早く電話に出た。

電話が切れたあと、オヤジが呼ばれた。

『図書館館長からの電話で、今すぐ図書館を閉館する事に決まった』

副隊長の命令で、オヤジは図書館の閉館準備に向かった。

すでに、図書館内には職員しか残っていなかった。

職員はオヤジの姿を見ると、軽く目線を合わせ、職員通用口から出ていった。

あの恐怖体験をきっかけに、オヤジは決して悪霊の取り憑いた絵を見ないようにしていた。

『少し、時間をくれますか?』

あの時、言ったオバケ君の言葉にオヤジは、勇気付けられた。

まるでオバケ君が、悪を退治するヒーローであるかのように思えたのである。

『彼が何か知っている?』

オヤジは勝手な期待をかけていた。

辞めていった新米警備員たちのためにも、謎を暴きたかった。

『悪霊の正体が分かれば、何も怖くはない!』

そう思った。

ただ肝心のオバケ君が、姿を見せなくなってしまった事が気掛かりだった。

台風通過に伴い、いつもより入念に戸締まりをしたオヤジはロビーに戻ってきた。

幸い、今日も普段通りに巡回を終えられそうであった。

オヤジは館内の照明スイッチに手を伸ばした。

パチン!

大きなブレーカーの落ちる音がして、薄暗くなった館内は静寂に包まれた。

その時、あれだけ見ないように心掛けていた絵に、目がいってしまったのである。

はっきりとはわからなかったが、絵の中にいる悪霊たちはじっと息を潜め、こっちの様子を伺っているように感じられた。

だが、あの日以来、何故か悪霊たちは、オヤジの前に現れなかった。

『閉館業務、終了しました!』

オヤジは、警備室に戻ってきた。

『瑠璃君、戻って早々に悪いけど、大槻君と台風に備え、緊急巡回に出てくれるか』

塚田副隊長が間髪入れずに言った。

警備帽と無線機を外す手を止め、『了解しました』と返事した。

オヤジは素早くヘルメットにかぶり直し、カッパを着込んだ。

『ほな、行きますか?』

大槻隊員のやる気の無さそうな声がした。

二人が警備室を出ようとした時、突風で扉が押し戻されそうになった。

いよいよ、台風が接近した事を知らせていた。

雨は一時的に止んでいたが、雲の流れるスピードは、いつもと違った。

また時折、上空を風のうねる音が響き渡っていた。

キャンパス内には、ほとんど人影はなく、白いビニール袋が宙を舞って飛んで行った。

建物に立て掛けられた看板や標識、学生広場に設置されたベンチなどは、すべて処置が取られていた。

途中、雨が急に強く降りだした。

グラウンドを経由し、駐車場を見廻り、警備室に戻ってきた二人は、ズブ濡れの状態だった。

やがて、夕方の六時には、最後の居残り職員も退社し、大学に残されたのはオヤジたち警備員だけになった。

徐々に雨風が強くなる中、隊員たちの緊張感も高まってきた。

そして、夜間巡回の時間が来た。

副隊長の判断で、巡回時間が一時間早く繰り上げられた。

今日、偶然にもオヤジは、巡回担当から外れていた。

『ラッキーやなあ!瑠璃さん。巡回に出なくてええんやから!』

大槻隊員か羨ましそうに言った。

『ホンマ、ついてますわ!』

オヤジは申し訳なさそうに言った。

『お前はいつも文句が多いんや!』

巡回準備を整えた塚田副隊長が、大槻隊員を軽くたしなめると、巡回に出て行った。

『では、巡回開始します!』

気を取り直した大槻隊員は、副隊長の後を追うように出て行った。

一人になったオヤジは、今日の落とし物整理を始めた。

だが、今日は台風のお陰で、学生も早く帰宅ために、落とし物は警備室に届いていなかった。

『台風様々や』

内心、ほっとしていた。

時間は、夜の十一時。

二人は予定通り巡回を終え、無事、警備室に戻ってきた。

『いやぁ、参ったわ!雨も本格的になって来よったわ。早く出て良かった』

ズブ濡れになったカッパを脱ぎ捨てながら、副隊長が言った。

時間の経過と共に、台風が牙をむき出し、猛威を振るい始めた。

横殴りの雨と暴風が、再三、警備室の窓ガラスを叩きつけた。

その時だった。

突然、警報器が鳴り響いた。

オヤジは直ちに、警報モニターに駆け寄った。

警報区域に目を凝らす。

『電子工学科建物屋上の水槽が、満水異常!』と大声を張り上げた。

『瑠璃君、すぐ、現場確認を頼む!』

塚田副隊長がオヤジを指名した。

『ここは、塚田副隊長の言うとおり、俺の出番や!』

オヤジは、再びカッパを着込み、ヘルメットを着用した。

『くれぐれも、慎重にな!』

『確認に行って参ります!』

屋上に出るカギとライトを手にし、警備室を前屈みの姿勢で出て行った。

途中、暴風に煽られながら、屋上の扉の前にたどり着いた。

屋上で受ける風は、想像を遥かに越えていた。

扉が暴風の圧力に押され、体当りしても、なかなか開かなかった。

すぐ、押し戻されてしまうのだ。

やっとの思いで外に出たオヤジは、上空を見上げた。

屋上からの景色は、暗雲が低く垂れ込め、ものすごいスピードで流れていた。

その雲の切れ目から、月が見え隠れして、時折、漏れる月光が雲のうねり模様を、不気味に演出していた。

更には、ゴウゴウと打ち付ける暴風雨の効果音が、異様な光景を際立たせていた。

オヤジは雨が当たり、前がほとんど見えなかった。

それでも、何とか水槽までたどり着こうと、出来る限り姿勢を低くして、壁づたいに進んだ。

『あれか?』

ライトも、もはや何の役にも絶たなかった。

豪雨の筋しか見えない。

オヤジは風に飛ばされまいと、しっかり体を壁に密着させて、じわじわ水槽に近づいて行った。

幸いな事に、水槽ポンプは正常に動いているようだった。

『雨が小降りになれば、元の水位に戻るはずや。このまま様子を見ても問題ない』

オヤジはそう確信し、引き返そうとした時だった。

突然、大きな渦を巻いた暴風が、オヤジを襲ったのだ。

凄まじい風の力にオヤジは、意図も簡単にバランスを失い、宙に舞い上がってしまった。

『あかん!転落する』

オヤジは必死で何かに掴まろうと、手を伸ばしたが、無情にも体は宙を舞い、成す術がなかった。

『だ、誰か、助けてくれ!』

建物から放り出され、あとは地面に叩きつけられるしかなかったオヤジは、最後の力を振り絞り、必死で助けを求め、藁にもすがる思いで、闇の中に手を伸ばし続けた。

『ああー!!』

オヤジの虚しい叫びも、暴風の中に消え入ろうとした、その時。

オヤジの手首を何かがしっかりと掴んだのである。

見えざる力は強く、オヤジの体を屋上へと引き戻してくれたのであった。

オヤジは朦朧とした意識の中、奇跡としか言い様のない人の手、正に救いの手が差し出されたのだと感じた。

命拾いをしたオヤジは、しばらくの間、肩で大きく息をするのが精一杯だったが、徐々に落ち着きを取り戻してくると、見えざる力の正体が、目の前に浮かび上がってきた。

『オバケ君!』

なんと、見えざる力の正体は、彼の腕だったのである。

オバケ君はオヤジの手をしっかりと掴んでくれていたのであった。

『やあ、瑠璃さん、久しぶり。僕もやっと、人の役に立つ事ができたよ』

『君は。君は命の恩人や!』

オヤジのメガネは、雨に濡れて良く見えなかったが、彼が笑いかけているように見えた。

気がつけば、オヤジの体は雨で、びしょ濡れで、せっかく着込んだカッパも、用を成していなかった。

慌てて屋上から建物の中に入ろうと、扉を力一杯引っ張った。

大きく扉が開き、オヤジは中へ転がり込んだ。

息も絶え絶え、再び、その場に崩れた。

九死に一生を得た瞬間だった。

やっと、正気を取り戻したオヤジは、オバケ君を屋上の外に残してきた事を思い出した。

『オバケ君が、まだ外に!』

幾分か、雨風が弱まってきて、外が静かになってきたようである。

慌てて、屋上の扉を明け、オバケ君を呼んだ。

『オバケ君!オバケ君!』

何度も呼んでみたが、彼の姿はなかった。

その時、下から階段を掛け上ってくる人の息使いが、壁を伝わって聞こえてきた。

『瑠璃さん、大丈夫ですか?』

大槻隊員だった。

慌てて掛け上がってきたせいで、上下に巨体を揺らしながら、息を整えていた。

『連絡もないし、あまりに遅いんで、何かあったんやないかと見に来ました』

台風は朝方、桜並木市を通過して行った。

結局、当然の事ながら、全員仮眠など取る事はできず、一晩中、警報盤とのにらめっこが続いたのだった。

幸い、大きな被害もなく、朝を迎える事ができた。

朝は嘘のように、晴れ晴れとした穏やかな日を迎えた。

『俺は生きている。俺は思いっきり、ついてる!』

オヤジは人知れず、自分の手と足を繁々と眺めて苦笑した。

それは、オヤジにしかわからない事。

昨夜の奇跡を思い出し、何度もそう呟いていたのだった。






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