第10話 神野隊員

神野隊員

オヤジは図書館で起きた恐怖体験と、その事がきっかけで、例の奇妙な学生の過去と正体を知る事となり、精神的にかなりショックを受けていた。

だが、何とか平常心を保つ事ができたのは、一般人と何ら変わりない、あまりに現実的過ぎる学生の存在。

また彼と頻繁に接触する内に、何度か不可解な行動に悩まされたが、いつの間にか慣れてしまったからであろう。

むしろ、これを機にオヤジの中で不思議な現象が起き始めていた。

なぜか、彼との距離が近くなったのだ。

いずれにせよ、彼との付き合いが長くなりそうな予感がした。

だが、オヤジをこの大学に、つなぎ止めてくれた意外な人物が他にいた。

その人は、同業仲間の神野隊員だった。

姓は、神野(じんの)。名は、力(りき)。

彼は、妻子もない独身で、年齢不詳の中年おじさんだった。

背は低く小太りで、髪は縮れた短髪に、黒縁のメガネをかけた、あらいぐまのような顔をしていた。

どこか愛くるしく、憎めない雰囲気を持っていた。

勤務中いつも、うつむき加減で椅子に腰掛けているので、特に電話番の時などは、寝ているのではないかと思う事もしばしばだった。

他の隊員たちは、そんな神野隊員の勤務態度に不満を漏らしていた。

特に、その矛先は夜間巡回ができない事に向けられていた。

元々、バカなのか。

やる気がないのか。

この仕事をして、もう四、五年になるというのに、覚えられないでは言い訳もできない。

荒木隊長もその事は十分に理解していた。

だが、会社を首にできない理由があった。

それは、彼が持つ独特の信頼感にあった様だ。

彼は裏表のない性格で、嘘でごまかすと言ったような所は全く見られなかった。

また意外な面があり、学生からの絶大な人気を集めていたのも確かだった。

彼は誰に対しても常に親切で、『とても優しい警備員さん』として名前が上がるほどだった。

だから、大学側からの評判もよく、隊長としても、どうする事もできないという訳だった。

それにしても、今年の夏は異常に暑い。

まだ当分の間は涼しくなる気配はなかった。

最近、この暑さとは関係ないのだろうが、遺跡保存庫で再三ボヤ騒ぎが起きていた。

警備室の火災警報盤が鳴るたびに、警備員の出動がかかった。

毎回、現場へ駆けつけるものの、火元は確認できず、特に異常は見られなかった。

結局、『原因不明の異常なし』という報告が続いた。

だが数日後、ついに遺跡保存庫から火の手が上がったのだ。

物々しい消防車とパトカーがやって来て、グラウンド周辺が騒然となった。

当日、勤務に当たっていたオヤジは、荒木隊長の指示により、消防車を現場まで誘導する事になった。

遺跡保存庫の扉を開けると、現場が地下三階に相当する位置にあるため、途中トンネル状に掘られた緩やかな坂道になっていた。

オヤジは鉄扉のカギを開けた途端、白い煙が吹き出してきた。

数名の消防隊員が、有毒なガスを吸い込まないよう注意しながら、薄暗いトンネル内を慎重に降りて行った。

遺跡の大きさは、タテ、ヨコ三十メートル四方の小さな空間だった。

また、現場を大切に保存するため、空調機により温度と湿度の管理が行われていた。

平素はひんやりとして肌寒い庫内が、暑く感じられた。

消防隊員が隈無く調べた結果、出火の原因はおそらく夏の暑い外気温の上昇で、天井に取り付けられた空調機器がフル稼働した事により、配線が熱を持ち出火したのではないかと結論付けられた。

その証拠として、配線の一部が焼け焦げていて、天井に少し黒いススが残っていた。

一夜明け、庫内の電気補修工事に伴い、日中と夕方に臨時巡回を強化して欲しいという大学側からの依頼を受けた。

次の日の朝礼で、隊長がその話を切り出したところ、大槻隊員が食いついた。

『また、仕事が一つ増えるんですか?』といつもながらの不満を漏らした。

『いいか、常に安全と安心を守るのが、我々の任務である事を忘れたらあかん!』と荒木隊長が透かさず苦言を呈した。

『給料は同じやのに、どんどん仕事が増えていくように思えるんやけどなあ』とブツブツ文句を言っていた。

隊長は、大槻隊員が遠まわしに言わんとする事がわかっていた。

考えた末に遺跡の臨時巡回については、平素巡回が免除されている神野隊員に、白羽の矢を立てたのである。

隊長は神野隊員を呼び、こう告げたのである。

『神野君。遺跡保存庫の臨時巡回は君に任せたいんや』

その話を聞いた他の隊員は、当然と言った顔を神野隊員に向けた。

遺跡庫の巡回は、日に二回、朝と夕方に行う事になった。

巡回ポイントは火の気の確認と電気設備機器の確認だけなので、所要時間には十分もかからないはずだった。

だが、神野隊員は早かったり遅かったり、時間に大きなブレがあった。

言うまでもなく、それを見ていた大槻隊員の恰好の餌食となった。

『女子学生にはまめなくせに、本業は全くやる気なしや。ほんま煮え切らんオヤジやで!』と皮肉たっぷりに言った。

そこまで言われて、さぞかしショックだろうと思いきや、当の本人は一切そんなことはお構いなし。

むしろ、そんな自分を楽しんでいるかのように見えた。

だが、ついに短気な塚田副隊長がキレた。

イボイノシシの顔が一層険しくなった。

イボイノシシとは、副隊長の風貌から全隊員の間で密かに付けられたあだ名である。

さらに怒ると顔が真っ赤になるから、一目でその時の状況がつかめた。

怒りの矛先が、他の隊員たちに向けられたのである。

『君らの教え方が悪いんとちがうか?』と言い出した。

散々、愚痴を振り蒔いた揚げ句、副隊長は大胆にも、巡回を一から教え直すと宣言した。

元来、銀行員上がりの彼は、口が先に立ってしまう性格だった。

問題は言い方にあって、『何回、同じ失敗したらすむねん!』とか『いい加減に覚えろ!』と暴言めいた言い方をした。

そんな折、荒木隊長は関節痛の持病が悪化し、しばしば仕事を休むことが多くなった。

当然のごとく、塚田副隊長に負担がのしかかっていった。

やむなしの連日勤務が続いた。

大学側へ提出する報告書類に時間を費やし、神野隊員の指導にかかり切ることができなくなった。

それでも、自分が言い出した手前、どんなに忙しくても時間を割いて、マンツーマンで巡回指導を行った。

二週間が経った。

ついに卒業認定の日が来たのだ。

『神野隊員。あれだけ教えたんやから、今日から朝の巡回は一人でいけるやろ?』

銀縁メガネの奥の目が、ジロリと神野隊員を見据えた。

『自転車、使うてもええんでしたな?』

神野隊員は嬉しそうに答えた。

ここ最近、二人は常に行動を共にしていた。

まるで、漫才コンビでいうボケとつっこみを繰り返す指導が続いていた。

全隊員は二人のやり取りに爆笑しながらも、副隊長の真剣に教え込もうとする姿勢には、敬意を表していた。

早朝巡回は、教室の扉を全部開ける事から始まる重要な業務である。朝の授業に間に合うように、迅速性が求められるため、自転車の使用が許されていた。

『これでやっと皆、平等ってことや』

大槻隊員は清々した顔つきで言った。

だが、期待は大きく外れた。

朝、五時半。

仮眠から起きてきた神野隊員は、一通りの身支度を整え、制服に着替えた。

『ほな、行ってきます!』

眠気冷めやらぬまま、ふらふらと警備室を出て行った。

案の定、本人から途中、何度も電話がかかってきた。

まだ覚えきれていないのか、一々お伺いを立てての行動だったため、予定時刻より一時間も遅れて戻って来る始末だった。

塚田隊長としては、立つ瀬がなかった。

『すんません。遅くなりました』

副隊長は仁王立ちをしたまま、神野隊員を無言で睨みつけていた。

怒り心頭、爆発寸前の様子だった。

赤く血が上った顔が未だ見たこともない程、どす黒くくすみ、頭から蒸気すら立ちのぼっているかに見えた。

神野隊員はヘルメットを脱ぎ、カギの返却を終えた。

当人は何食わぬ顔で、巡回報告書にサインするために腰掛けた。

その日に限って、朝から大学関係者からの要望事項や学内トラブルの報告事項が沢山あったので、ビッシリと報告書が文字で埋められていた。

その報告書の一番下に小さな欄があり、そこへ一言、『異常なし』とサインすれば、長い一日の警備報告が完成するはずだった。

神野隊員はおもむろにボールペンを取り、小さな空白にサインした。

『異常なし』と書いたはずだった。

神野隊員はそれに気づかず、副隊長に報告書を提出したのだった。

『終わりました』

ひったくるように受け取る副隊長は、再度、報告書に目を通し始めた。

その視線が一番最後の欄まで来て止まった。

一瞬の間があった。

突然、手にした報告書が小刻みに震えだし、見る見る副隊長の顔色が変化していった。

そして、低い声で『異常なり?』とつぶやいた。

その後、思わず『フン』と鼻から笑いが漏れた。

『異常なり!』

今度は警備室中に聞こえる大きな声だった。

次の瞬間、眉間に寄せたしわが一層深みを増し、ついに塚田火山が噴火したのだった。

『‘’異常なり‘’とはなんや!‘’異常なし‘’とちがうんか?』

思わず席から立ち上がり、声を震わせながら聞き返した。

そんな危機的状況においても、神野隊員には堪えていないようである。

あろうことか当人は、帰り支度を始めていたのである。

薄ら笑みを浮かべ、今にも鼻歌が聞こえてきそうな表情を浮かべていた。

『おい、神野隊員!』

その呼びかけに、やっと気づいた神野隊員は、突き出された報告書を覗き込んだ。

『ここをよく見てみろ!』と言われて、メガネを額の上に押し上げて目をショボつかせた。

『報告書の訂正が厳禁なんは知ってるはずや!』

副隊長が、念を押して言った。

『そんなこと書きましたあ?』

気の抜けた返事が返って来た。

ひたすら首を傾げる神野隊員に、もう何も言う事がなくなった副隊長は、報告書を奪い取ると大きな音を立てて椅子に沈み込んだ。

『はあっ』とむしろ自分を落ち着かせるために大きく溜息を吐いた。

怒るどころか悲しささえ覚えたのか、何も言わず黙り込んでしまった。

『全部、一から書き直しや』とブツブツつぶやいていた。

オヤジもその話を聞いた時、さすがに吹き出して笑ってしまった。

それ以来、塚田副隊長は神野隊員に口を挟む事がなくなった。

だが、神野隊員はどこ吹く風。

全く他人事のように、気にしてもいない様子だった。

皆、口にこそ出さなかったが、あの状況において平然といられる精神力は、『ある意味すごい!』と思っていた。

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