第8話 図書館の悪霊たち
後期授業がスタートした。
この所、朝と晩の気温が涼しくなり、幾分か過ごしやすくなってきた。
図書館には、毎日多くの学生が押し寄せ、熱気で溢れ返っていた。
時計台をシンボルとしてキャンパスの中央に鎮座する図書館は七階建ての建物だった。
また、周囲が噴水付きの池で囲まれているところから、『湖面に浮かぶ時計台』とも称されていた。
四階からの上層部は、教授たちの個人研究室になっていて、三階から下が図書館という構造になっていた。
閉館五分前のチャイムが鳴ると、学生たちは一斉に帰っていった。
オヤジはロビーで、学生たちを見送りながら、『最近の学生は忙しいせいか、どことなく元気がないなあ』と感じていた。
やがて教職も退社し、図書館内はオヤジ一人だけになった。
『よし!』
オヤジは急に静かになった館内を、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。
オヤジが大学の警備を始めた時、最近の学生たちは自分の持ち物に対して、あまりにも意識が低すぎる事に驚いた。
特に学生の入場者が多い日には、忘れ物もそれに比例して多かった。
『まったく、どうしようもないなあ』
今日も、カウンターの上に集められた忘れ物を見て、溜息を点いた。
職員たちが退社前に、明らかに『持って行け』と言わんばかりに置いていったのだ。
つまり、忘れ物はすべて警備員が警備室へ持ち帰る事になっていたからである。
当然、巡回時間が遅くなるという避けられない現実が待っていた。
『いつまで、こんなこと続けるんや?これは本来、警備員の仕事か?』とオヤジはいつも思っていた。
三階の巡回を終え、電気を消した。
そして、一階に降りてきたオヤジはもう一度、ロビー全体を見渡した。
その時、またもや一枚の絵と目が合ってしまった。
いかにも年代を感じさせる立派な額に納められた絵が、ロビー正面の柱に飾られていた。
額縁には"愛しき四姉妹"とある。
絵は縦長で、柱の幅一杯に広がる大きなものだった。
油絵画質で描かれた絵の中の被写体は、椅子に腰かけた四女の両脇から、残り三姉妹が寄り添い記念写真を撮るかのように、全員こちらを見詰めて立っていた。
何よりも、四姉妹たちの薄ら笑いを浮かべて立っている姿が、ことさらに不気味であった。
その絵の中の彼女たちと目が合った途端、恐怖が込み上げてくるのだった。
オヤジは反射的に目をそらせ、電気のスイッチを切った。
一瞬にして館内は暗転し、常夜灯だけがぼんやりと辺りを照らし出した。
その直後、背筋に悪寒が走った。
いつもとは違う何か?
稲妻に撃たれたような電流が背筋を駆け抜けた。
誰かに、にらまれているような感覚。
時計を見ると、夜十時半を過ぎていた。
その時、奥の方で何かが落下する音がした。
オヤジは懐中電灯を手に取ると、恐る恐る物音のした方へ近付いていった。
規則正しく並ぶ書籍棚の細い通路を奥へと進んでいく。
『たしか、この辺やと思ったけど?』
ふと、オヤジは足を止めた。
前方、床の上に一冊の本が開かれた状態で落ちていた。
『あの物音は、本が落ちた音やったのか?』
ひざを折り、本を拾い上げようとした時、人の気配を感じて頭を上げた。
微妙な風波が顔を撫で、何かが通り過ぎて行った。
ハッとして、すばやく姿勢を起こすと、本を棚に置いた。
本棚の隙間から奥の方へ歩いていく人影が見えた。
慎重に後を着けていくと、部屋の突き当たりの角を曲がる女子学生らしき姿が見えた。
『あのー。なにか忘れ物でしょうか?』
オヤジは、暗闇に向かって咄嗟に声を掛けた。
反応がない。
次の瞬間、オヤジは全身鳥肌で覆われた。
突如、目の前に白いワンピースを着た少女が現れたからだ。
オヤジは、それが何かを理解するまでに時間は必要なかった。
『出た!お化けや!』
オヤジは飛び上がって驚いた。
その拍子に足がもつれて、床に尻餅を着いてしまった。
女子学生と思っていたが、そうではなかった。
少女姿のお化けは、不気味な笑みを浮かべ踵を返すと、オヤジを挑発するかのように、奥の方へ歩いて行った。
『ついて行ったらあかん!』と思いながらも、体が引き込まれていく。
しかも、一人ではなく複数の人間の気配がするのだ。
確かに、また別の誰かが後ろから、ついて来る。
『その角からもあの角からも』
幾体ものお化けがオヤジを取り囲むように、近付いてくるのが本棚の隙間から見えた。
『しまった!囲まれた。』
オヤジは恐怖のあまり、腰に力が入らなくなっていた。
それでも、何とか渾身の力を振り絞り、駆け出したのである。
必死にもがきながら、なんとかロビーに辿り着いた。
だが、お化けたちが追い掛けてくる気配はない。
緊張は、なおも続いた。
その時、オヤジが手にしていたライトがあの柱に掛かる絵を照らし出した。
『あっ、絵の中の四人が居ない?』
全身に衝撃が走った。
オヤジは咄嗟に一階の電灯をつけようと、職員室事務所のドアノブに手を伸ばした。
だが、ドアが開かない。
身体をドアに押し当て、ノブと格闘するオヤジの背後から、四体の白い影がじわじわと近付いて来るのを感じた。
長い髪をゆらゆらさせながら、不気味な笑みを浮かべ、目の前まで迫って来たのだ。
『もう、あかん!』
オヤジは恐怖のあまり、断末魔の声をあげた。
その時、ガチャという音がして、向こう側からドアが開いた。
オヤジはドアに、もたれ掛かっていたため、開いた拍子に勢いよく倒れ込んでしまった。
『瑠璃さん!瑠璃さん!』
頭の上で声がした。
肩で息をしながら、床に倒れ込むオヤジの肩を優しく掴む手の感触があった。
『君か?』
非常灯の薄明かりの中、あの学生だとわかった。
学生は慌てて館内の昭明を点けた。
明るくなった館内は普段通り、何事もなかったかのように静かだった。
『どうして君がここに居るんや?』
今はむしろ、その方が不思議だった。
『ちょうど、図書館の前を通りかかったら、中から男の人の悲鳴が聞こえてきたんだよ。そしたら、瑠璃さんが倒れてて…』と彼は答えた。
さすがのオヤジも今夜の出来事には、腰が抜けたらしく、直ぐに立ち上がる事が出来なかった。
『とうとう見たんや!例のうわさはほんまらしい』
オヤジは声を絞り出した。
『例のうわさ?』
『そうや!あのうわさはほんまやった。幽霊の正体はあの絵や。全部で四人いたから間違いない。もう少しで取り囲まれて、呪い殺されるとこやった!』
興奮しているせいか声が上ずっていて、何をいっているのか良く聞き取れなかったが、それでもオヤジの手がしっかりと絵の方向を指し示していた。
『瑠璃さんも見たんですか?』
学生は冷静な声でつぶやいた。
『瑠璃さんが危ない。このままじゃ、今までと同じ事が起きる』と思った。
実は彼も新米警備員たちの話を知っていた。
学生はオヤジの瞳の奥に、悪霊にとり憑かれた不安と恐怖の色を見て取った。
『瑠璃さんを助けてあげなきゃ』
一方、オヤジの心に、ある確信が生まれた。
『これでわかった!今まで新米警備員たちが次々辞めて行く理由が・・・』
おそらくは誰も信じないだろう、この出来事を言い出すことも出来ずに辞めて行ったに違いない。
だが、疑問は残る。
『なぜ、絵が夜な夜な新米警備員ばかりを狙うのか?』という事だった。
オヤジもその犠牲者になろうとしていた。
そう考えていると、この一連のお化け騒動に腹が立ってきた。
『君は前から何か知っていたんと違うか?』
あまりに唐突な質問に学生は一瞬、動揺しかけた。
『いや、知ってた訳じゃないんですけど、ただ僕たち学生の間では、有名な噂話だったんです。だから、ずっと関心がありました。』
彼は苦し紛れの言い訳をした。
この時、彼は始めて自分のやるべき役目が何かを感じ取る事ができた。
『問題はどうして、この絵に悪霊がとり憑いているのかって事ですよね?』と核心的な質問に切り換えた。
その間もずっと、下唇を噛みしめて、恨めしそうに絵を見上げているオヤジの眼力に同情心が湧いてきたのだった。
『瑠璃さん、少し時間をもらえますか?』
はっきりとした声で言った。
オヤジはゆっくりと学生に目を向けた。
その表情からは、辞めて行った新米警備員たちのためにも原因を突き止めてやらねば、という強い意志が滲み出ていた。
『君、君は一体・・・?』
ついに、モヤモヤしたものが、オヤジの中で爆発した。
『君は一体何者なんや?』
オヤジの声がロビー全体に響き渡った。
少し間をおいてから、学生は口を開いた。
『わかりました。今度、すべて話します』
彼は覚悟を決めたように、オヤジの目を見て答えた。
一瞬の静寂が訪れた後、学生が思い出した様に質問した。
『瑠璃さん、巡回中じゃ?』
すっかり自分を見失っていたオヤジは我に還った。
『そうやった!』と言いながら、オヤジは慌てて自分の腕時計に目をやった。
だが、立ち上がろうとした足は、未だにガクガクと震えて、力が十分に入らなかった。
『あれ?』
一瞬、時計が壊れたのかと思った。
奇妙な事に、時間がほとんど経過していなかったからである。
オヤジはその場で学生と別れたが、その後、どのように巡回を終え警備室に戻ったか、ほとんど覚えていなかった。
むしろ後になって、彼の不可解な行動に焦点が向けられた。
『あの時、彼はどこから入って来たんや?ほんまに偶然、図書館の前を通っただけなんやろか?』
あのタイミングでは、間違いなく図書館の出入り口は全て閉まっていたはずである。
ならば、普通では中に入ってくる事は不可能なのだ。
そう考えると、再びオヤジの頭の中に新たな疑念と恐怖が、沸き上がって来るのだった。
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