第6話 話し相手

キャンパスは夏休み真っ只中だった。

相変わらず暑い日が続き、キャンパスを出入りするのは、一部の学生や職員、それに工事業者ぐらいのもので、ほどんど誰もいなかった。

だが、例外もあった。

ラクロス部と水泳部だけは、毎朝といって良いほど、部員たちが部室とグラウンド用のカギを仮に来た。

それ以外は一日中、電話が鳴ることもなく、学内で起きる事件や事故、特に実験中の事故は皆無に等しかった。

とにかく、暑さだけを除けば穏やかな日が続いていた。

今日、オヤジは久し振りに、佐古田隊員との勤務だったが、幸いにも、あの変な学生の事も忘れかけていた。

夜間巡回の時間が来た。

佐古田隊員がオヤジに話し掛けてきた。

『夏休みぐらい、とっとと巡回終わらせて、たまには早く寝かせてもらいましょうや!』

彼にしては、珍しく機嫌が良さそうであった。

『そーすね!』

オヤジは佐古田隊員の口真似で返事をした。

夜の十時というのに、外は一向に涼しくなる気配はなかった。

蒸し暑い不快感で満たされた空間に足を踏み出した。

順調に巡回をこなしながら、例の教室にやって来た。

今は夏休みとあって、玄関に薄暗い常夜灯が点いているだけだった。

『よし、今日も順調に戸締まりできそうや』

そう呟きながら、玄関の扉を開けた。

ロビーの照明を点け、エレベーターに乗り込み、四階のボタンを押した。

左手にライトをしっかりと持ち、右手はベルトに装着したキーケースを軽く押さえ、オレンジに光るボタンを見詰めていた。

密室の箱はモーターの回る鈍い音と共に、ゆっくりと押し上げられていった。

ほどなくして軽い振動のあと、ワンテンポ遅れて扉が静かに開いた。

廊下は真っ暗で、シンと静まり返っていた。

ライトを照らし、廊下の照明に手を伸ばした。

パッと細長い廊下が、照らし出された。

有り難いことに、夏休み中は授業がないため、教室の扉は全てカギが掛かっていた。

つまり、一部屋ずつ教室を確認する手間が省けるのだ。

オヤジは例の教室の前で、ふと足を止めた。

あの時の学生の記憶が甦ってきたからである。

息を飲み、恐る恐る扉のノブに手を掛け、押してみた。

開くはずはなかった。

ホッと胸を撫で下ろし、廊下を歩き始めた。

最後にトイレの中を確認し、もう一度、廊下を見渡し、人差し指を前方に突き出した。

『四階、よし!』

オヤジの声が静かな廊下に、こだました。

その後、三階、二階、一階とすべての教室の戸締まりを確認し、ロビーに戻ってきた。

薄暗いロビーの照明を消し、外から玄関にカギを掛けた。

この時期、巡回が終わる頃には、制服の下は背中までぐっしょり汗で濡れていた。

『ふー』

一息ついて、カギ束をキーケースに戻したオヤジは、何気なく玄関脇に目を移した。

ドキッ。

何度、驚かせば気が済むのだろうと思った。

例の学生が玄関先の薄暗い外灯の下に、うつ向いたまま腰かけていたのである。

突然、オヤジは金縛りに会ったように、動けなくなった。

『警備員さん・・・』

学生は弱々しく声を発した。

オヤジは、何か言おうとした学生の言葉を遮った。

『君は、いつも夜遅くまで、この建物にいるみたいやけど、どうしてなんや?』

だが、オヤジの質問に返事がなかった。

うつ向いたままの姿が、やけに暗そうに見えたので、心配になり、もう一度聞いてみた。

『余計なお世話かもしれへんけど、何か悩み事でもあるのと違うか?』

やっと、その言葉に反応した学生は、初めて頭を上げ、オヤジの顔を見た。

彼の顔は、とてもやつれて見えた。

そんな彼に気を使い、オヤジは優しく微笑んだ。

少しの沈黙の後、学生は口を開いた。

『警備員さんは、どうして警備員になったんですか?』

一瞬、予想外の質問に言葉が出てこなかった。

『・・・なんでかなあ?』

結局、何の答えにもならないセリフを吐いてしまった。

『僕には、大きな夢があったんです』

『えっ!』

オヤジは学生の顔を振り返った。

『一生かかってもいいから、やってみたかった夢があったんです』

『なんや、よくしゃべるやないか』とオヤジは思った。

あれだけ弱々しく見えた彼の顔付きが、目の鋭い輝きによって、変貌したのである。

『それは君の愚痴なんか?そんな事、警備員のおじさんにしても、始まらんと思うけどなあ』

オヤジは少し困惑しながら聞き返した。

『警備員さんは、ルリ・・・って言うんですか?』

学生はオヤジの胸元に着けた名札を見て尋ねた。

『ああ、少し変わってるけどな』

オヤジは、素っ気なく答えた。

『とても珍しい苗字だけど、宝石のような綺麗な苗字ですね』と言って、学生は口元を少し緩めた。

『そんな風に言われると何か嬉しいなあ。ありがとう。今年の四月から、ここで働かせてもらってます。瑠璃光介です』と挨拶した。

『君は?』

少しの間があった。

『僕、大葉圭太と言います。通称、オバケ君と呼んでください』

ニヤリとした学生の表情に、オヤジは思わず鳥肌が立ってしまった。

その時はまだ、彼が発した言葉の意味がわからなかった。

単なるダジヤレとしか、受け止められなかったからである。

『瑠璃さん?』

学生は、一旦言葉を切った。

『すぐ帰りますから、僕の愚痴、聞いてくれませんか?』

遠慮がちな口調だつたが、半ば強引な意志が伝わってきた。

‘’やっぱり、愚痴か‘’

オヤジはチラッと腕時計を見た。

もう、夜中の零時を過ぎていたが、巡回も予定時刻よりも早かったので、少しぐらいならと彼に付き合う事にした。

『僕は大学を卒業したら、ロボドリームという会社に就職するのが目標だったんです。人とロボットが本当の信頼関係を結べる社会を築く事が夢だったんです』と持論を暑く語り始めた。

オヤジはたまらず割って入った。

『もう少し、警備員のおじさんにも分かりやすく教えてくれへんか』

すると、学生はオヤジの要望に軽くうなずいた。

『僕はこの大学でロボティクス学科に所属していたんです』

『これは話が長くなるで・・・』とオヤジは少し後悔した。

『今後、益々少子高齢化が進むと、若者の力不足から、様々な分野で人を支援するための、ロボット技術が必要になってきます。僕は支援ロボットの開発研究を専攻していたんです』

学生は一端、言葉を切った。

『でも、僕には最終テーマがあって、つまり、‘’人が鳥になる‘’。空を自由に移動できる社会を築く事だったんです』

『けど、どうやって人が空を飛ぶんや?』

オヤジは素人らしい素朴な質問を投げ掛けた。

『簡単に言うと、ジェットスーツ。人の背中に簡単なロボットを着けて、空を飛ぶんです。僕の卒業論文でもあり、まだまだ、研究を始めたばかりだったんですけどね』

いつの間にかオヤジは、学生の横に腰かけていた。

『空か。そんな簡単に飛べたらええなあ。ほんま、夢の世界や』

とオヤジは、独り言を言いながら空を見上げた。

その時、オヤジの携帯電話が鳴った。

荒木隊長からだった。

オヤジの巡回が、いつもより遅かったからである。

電話に出たオヤジは、咄嗟の言い訳を思いついた。

『こんな遅くに忘れ物をしたという学生が、E館に来てまして、付き添いをしていたところなんですが、無事有りましたので、これから戻ります』と、言って電話を切った。

『もう戻らないと。少し遅くなったみたいや。将来が楽しみな、君の壮大な夢を聞かせてもらって、今の若者たちが何だか頼もしく思えて来たわ』

帽子を被り直して、立ち上がった。

『ありがとう。話してくれて』

オヤジは軽く帽子の鍔に手を当てた。

『また、会ってくれますか?』

薄っすらと照らし出された外灯の下で、学生は寂しそうに言った。

『ああ、ええよ。だから、今日は早く帰りなさい』

オヤジは学生が正門と反対方向に歩き出したのを見て、再び声を掛けた。

『君!正門はあっちやで』

すると、学生は顔だけをオヤジの方に向け、立ち止まった。

『いつも、裏門から帰るんです』

学生はそう答えた。

『そうか!じゃあ、気をつけて』

オヤジは軽く手を上げ、学生の姿を見送った。

『変わった学生やな』

オヤジは苦笑いしながら、踵を返し歩き出した。

だが、次の瞬間、奇妙なことに気が付いた。

『裏門?』

確かに、この大学に裏門はあったが、特別な時以外、終日閉まっているはずだった。

『ちょっと、待った!』

オヤジは慌てて後を追いかけたが、彼の姿はもうなかった。







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