第5話 奇妙な学生
ようやく三ヶ月が過ぎ、左腕に着けた研修中の腕章も取れ、オヤジは警備員として、一層の自覚と責任感に気が引き締まるのを感じていた。
今では、すっかり一人前の警備員らしく、巡回をこなせるまでになっていた。
ある週末の土曜日。
週末は大学の授業が休みとあって、警備室は、とても穏やかな雰囲気に包まれていた。
よって大学が休みの時は、隊員同志で他愛もない話をして、日頃の緊張をほぐしていた。
この平和な一時の中、大槻隊員が口を開いた。
『この大学の警備員は、ホンマに新人が定着せん所やなあ。何故か、研修中の腕章が取れたと思ったら、辞めてしまうんやから』
本日の勤務メンバーに、同意を求めるような視線を投げてきた。
『例のお化け騒動と違いますか?』
向かいに座っていた尾山隊員が答えた。
『以前から、学生の間で噂されてる、あの幽霊の事か?』
大槻隊員は気味悪そうな表情で尾山隊員を見た。
『実際に見たという話は聞きませんけど、オレ、何か感じるんですよねえ』
尾山隊員の言葉に、オヤジは二人の会話をただ横で聞いているだけだったが、大槻隊員の顔つきが明らかに変わるのがわかった。
『図書館ですわ。夜間巡回の時、いつも一階ロビーの壁に掛けられた絵の前に来ると、背筋がゾクッとするんです。通り過ぎた後も、ずっと見られている様な感じがして・・・』
尾山隊員は気持ち悪そうに話した。
彼は隊員たちの中で、霊感が強い事で知られていたので、なおさらだった。
今日、この場に佐古田隊員がいない事が、何よりの幸いだった。
お化け好きの彼が、こんな話を聞いたら興奮して、何を言い出すかわからなかったからだ。
一瞬、会話が途切れ、話題がお化けの話から反れようとしていた時、尾山隊員の隣に座っていたオヤジが、口を滑らせてしまった。
『そう言えば、この間、図書館三階の学生自習室の扉を閉めようとした時、後ろから肩を掴まれた様な気がしますわ』
オヤジが言い終わると同時に、皆の視線が一斉にオヤジに集まった。
『えっ、それ、ホンマですか?』
大槻隊員が冷ややかな目でオヤジを見た。
一瞬、警備室内に嫌な空気が流れた。
『まさにその話をしていた隊員は、皆、辞めて行くんですわ』
彼は気の毒そうに言った。
『ほな、私も?って事やないですか』
オヤジは墓穴を掘った事に気が付いた。
夜間の仕事をしていると、お化けの話とか、恐怖体験話を面白く、可笑しく噂し合うのはよくある事だが、この大学では以前に男子学生が、飛び降り自殺をしたという噂を聞いた事があった。
七月に入ってからは、連日の猛暑続きだった。
大学は授業も終わり、テスト期間に入っていた。
キャンパスはいつもに比べて、学生の数もまばらで、大学を訪れる人や、電話もほとんどかかってこなかった。
あとは、夜間の巡回を済ませれば、ささやかな仮眠時間にありつけるのだった。
夕方には、わずかだが、図書館で試験勉強をしていた学生たちも帰宅し、ひっそりとしたキャンパス内は、やたら蝉の鳴き声だけが響き渡っていた。
オヤジは今夜、Aコース、すなわち教室棟エリアの巡回に当たっていた。
夜十時、ベテラン警備員の服部隊員が、一足先に試験棟エリアの巡回に出て行った。
続いてオヤジも、警備室を後にした。
オヤジは十時閉館となる図書館に向かった。
館内には、すでに数人の図書館職員が、『待てど、遅し!』と言った表情で、オヤジの来るのを待っていた。
彼らの心境を察したオヤジは、入館するや『お疲れさまでした』と職員たちに頭を下げた。
その声に、職員たちはろくに目も会わせず、そそくさと裏口の職員通用口から出て行った。
いつもなら、学生と職員の閉館前のバトルが待っていたが、テスト期間中とあって最後まで残る学生もいなかった。
誰もいない図書館を歩いていると、何かしらわからないが、以前より増して日に日に、嫌な汗をかくようになっていた。
迫り来る見えない恐怖を感じていた。
何はともあれ、一向に収まりそうにない暑さだけを除けば、かなり速いペースでの巡回と言って良かった。
そして、最後に向かった教室棟E館の前で立ち止まり、四階建ての建物を見上げた。
廊下の電気は点いていたが、教室の電気は全て消えていた。
『よっしゃ!今日は誰もおらん』
オヤジは最後の気合いを入れた。
正面玄関わ通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。
四階へのスイッチを押し、後ろに手を組んで、階層表示灯を見つめた。
四階表示灯が点滅し、扉が開いた。
誰もいない廊下はシンと静まり返り、不気味さを漂わせていた。
真っ直ぐに伸びた細長い廊下の突き当たりに、非常用階段に抜ける扉があった。
そして、その廊下を挟んだ両側は、小さな教室で幾つも仕切られていた。
オヤジは腰に装着したキーケースを覗き込み、E館教室用のカギを用意した。
手前の教室の扉を開け、もう一つの手でライトを照らしながら、教室の窓や学生の忘れ物、残留者などの確認をした後、教室のカギを掛けていった。
廊下は扉を閉める音とカギを掛ける音、オヤジの歩く靴音とカギのジャラジャラ擦れる音だけが、単調なリズムを奏でながら、狭い廊下に響き渡っていた。
片側半分の教室、全てを閉め終わり、突き当たりを折り返し、もう片側の教室の扉を押し開けた。
『あっ!』
思わず声を上げてしまった。
誰もいないと思っていた教室に、男子学生が一人、机の前に座っていた。
大きな叫び声に反応した男子学生は、慌てる様子もなく、オヤジの方をジロリと見返した。
オヤジは落ち着き払った学生の態度に少し腹が立った。
『あのー、そろそろ教室のカギを閉めたいんですけど・・・』
努めて柔らかい口調で言った。
『ハイ、わかりました』
男子学生は、うつ向いたまま、元気のない声で返事をすると、机の上の物をかたずけ始めた。
オヤジは学生を急かすのも、可愛そうに思った。
『では、他の教室を閉めて来ますので、その間にお帰り下さい』
そう告げると、教室を出て行った。
一階までの全ての教室を閉め終え、再び四階の教室にやって来た。
中を覗くと男子学生の姿はなかった。
『よっしゃ、帰ったな』と言いながら、カギを掛けた。
『本日も異常なく終了!』
巡回を終えて、警備室に戻ってきたオヤジに、佐古田隊員が声を掛けてきた。
『遅かったっすね』
『ええ、E館で男子学生が残ってて、帰るまで待ってたんですわ』
オヤジは帽子を脱ぎ、ベッタリとした額の汗を、ハンカチで拭いながら答えた。
『そんな学生は、とっとと追い出したら、ええんですよ!』
佐古田隊員が強い口調で言った。
オヤジは黙って警備報告書の夜間巡回欄に『異常なし』とサインした。
その手で警備報告書を吾妻隊長に渡した。
『では、休ませてもらいます』
僅かな仮眠時間だったが、昼間の強ばった体をほぐすには、欠かせない貴重な時間であった。
それから、五日目の事である。
いつものように、夜間巡回の時間がやって来た。
この日も日中は非常に暑く、テレビでも連日の猛暑を報じていた。
夜中になっても蒸し暑さは収まらず、汗だくの状態で、オヤジは巡回最後の教室E館にやって来た。
建物を見上げると、廊下の電灯は点いていたが、教室内は全て真っ暗だったので、ホッとした面持ちでエレベーターに乗り込んだ。
四階から教室を一部屋ずつ確認しながら、扉を閉めていった。
そして、例の教室扉を開けると、この前と同じ場所に、あの男子学生が座っていた。
飛び上がるほどビックリしたオヤジは、頭からズレた帽子を慌てて、かぶり直した。
『あ、あのー。もう教室を閉めますので、一周して来る間にお帰り下さい』
男子学生は、静かにパソコンの蓋を閉じ、後かたずけを始めたのを見て、教室を後にした。
『変な学生やなあ。こんな時間まで何してるんやろ?』
オヤジは、独り言を言った。
一階まで全ての教室を閉め終えて、再び四階の教室に戻ってきた時には、学生はいなかった。
『帰ったな』と呟きながら、キーケースに手を差し込んだ。
たくさんあるカギの中から、E館教室専用のカギを掴み出し、扉を閉めた。
『カシャッ』という心地よい音がした。
オヤジは扉の前で、大きくため息を着いた。
『本日も終了!』
カギをキーケースに戻しながら振り返ると、さきほどの男子学生がオヤジの後ろに立っていた。
今度こそ、心臓が止まるかと思った。
『ビックリするやないか!』
オヤジは思わず大きな声を出してしまった。
『あの、トイレに行っていいですか?』
男子学生の気の抜けた話し方にオヤジはイラッとした口調で答えた。
『トイレなら、エレベーターの横ですよ!』
オヤジは無愛想にトイレの方を指差した。
と言ってに入った男子学生を横目で見ながら待つ間、少し離れた所で建物の窓から見える月夜の空を眺めていた。
『あの星は今も存在してるんやろか?』等と柄にもない想像にふけっていたオヤジは、我に反った。
『まだ、出て来んのか?何してるんや?』
待ちきれずトイレを覗いて見ると、男子学生の姿はなかった。
『声ぐらい掛けて欲しいわ』と一瞬思ったが、『オレが考え事をしている間に、出て行ったんかな?』
その時、あまり深く考えずにトイレと廊下の電気を消した。
巡回を終え、警備室に戻ったオヤジは、あの男子学生の事が頭から離れなかった。
いつものように、報告書にサインをしているオヤジに、隊長が声を掛けた。
『瑠璃君、最近、巡回から帰る時間が少しおそいけど、大丈夫か?』
一瞬、オヤジはドキッとしたが、平静を装い、こう言った。
『慣れた頃が危険なので、いつもより慎重に巡回してるんですわ』
隊長もそれ以上、何も言わなかったので、仮眠室へ入っていった。
オヤジは仮眠室のベッドに横たわり、壁に掛けられたカレンダーを眺めた。
『そう言えば、この前』
ふと、研修社員中だった頃、キャンパス内で、すれ違った女子学生たちの会話を思い出した。
『何か!この大学には、お化けが出る場所があるんやって!』
確か、そんな事を語り合っていたような気がした。
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