第4話 ドリアン事件
二週間が過ぎ、オヤジは教室棟エリアの夜間巡回を、一人でこなせるまでになっていた。
今夜は、初めてのBコース、すなわち研究棟エリアの巡回の指導を受ける日だった。
試験棟が建ち並んだ敷地の広さは、緩やかな斜面の上に立つキャンパス全体の三分の二を占めていた。
研究棟という呼び方は、あくまで通称名であって、試験棟、あるいは実験棟とも呼ばれていた。
建物が全部で七棟あり、建築、農業、バイオ技術、薬学、航空、宇宙科学などの学部が所有していた。
教室棟とは違って、学生たちが実験のため、各建物内で作業をしているので、昼夜を問わず警備員として、事故などに対する警戒が必要だった。
夜十時、準備を整え、初のBコース巡回へ出た直後、その研究棟内で珍事件が起きた。
指導してくれたのは、佐古田隊員だった。
勤務初日から、何かと彼の世話になる機会が多かったので、オヤジは一番信頼を置いていた。
彼は日中、電話番などの時は押し黙ったまま、うつむき加減で自分の拳を見つめている事が多かった。
ところが、夜になると、別人のように変貌した。
以前、ボクシングジムに通っていたらしく、夜間巡回には誰もいない場所なら、どこでもシャドーをしながら、肩を左右に揺らして歩くのだ。
一種、彼流のリズムとでも言おうか。
その後ろを着いて行くオヤジは、誰かに見られやしないかと、ヒヤヒヤしていた。
また、彼は歩きながら、こんな事を言った。
『研究棟は学生が常にいて、お化けも出そうにないから、面白くないっすわ』
本気で言っているらしい。
だが、こうした一風変わった彼の性格も、実は自分の目で確認しなければ、信用できないといった几帳面さを物語っていた。
仕事の要領もよく、合理的な考え方ができ、柔軟性に富んでいた。
巡回に対する重要性も、しっかりと理解した上で、手抜きをしようなどという姿勢は全くなかった。
その証拠に、オヤジに教える内容が全て、理にかなっていたからである。
その頃、警備室では大槻隊員が、忙しくしていた。
『よく毎日、これだけの忘れ物をしよるわ!』と、あきれ果てた口調で、今日一日で届いた忘れ物を、整理しているところだった。
その時、警備室内の火災警報盤が、静寂を破り、大きな音を立てて鳴り響いた。
彼は、椅子から立ち上がると、火災警報盤に駆け寄った。
試験棟のある建物の位置に、赤いランプが点滅していた。
試験棟三号館、五階の学生共同研究室だ。
彼は、透かさず警備室用携帯電話に手を伸ばした。
プルプルプル・・・
顎に拳を当てたガードスタイルで歩く、佐古田隊員の胸で携帯電話が鳴った。
『もしもし、佐古田でーす』
抑揚のない応答とは裏腹に、慌てた様子の大槻隊員の声が返ってきた。
『佐古田隊員、今、何処ですか?』
『今、まだ一号館の中っす』
『只今、火災警報盤が鳴りました。場所は試験棟三号館、五階、学生共同研究室です。至急、現場確認をお願いします!』
『了解。至急!三号館に向かいます』
状況を理解した佐古田隊員の切れ長の目が、更に細くなったかと思うと、いつもながら、緊急事態を告げられた後からの行動が、別人のように速かった。
試験棟三号館、目指して駆け出す彼の後をオヤジも必死で着いて行った。
三号館は主に、航空学科が使用する試験棟である。
共同研究室とは、学生同士がチームを作り、実験、研究を行う場所だった。
細かな教室が幾つも仕切られ、狭い廊下には、実験に使用する部品の入った段ボールが不規則に積まれてあった。
彼は、廊下手前で足を止め、鋭い視線をその先に向けた。
だが、特に変わった様子もなく、至って静かであった。
しかも、かつて警報など鳴った事がない場所だったので、彼は首をかしげた。
慎重に廊下を進んでいくと、奥の教室から学生たちの笑い声が聞こえてきた。
まさに、警報が鳴った場所に違いなかった。
それが証拠にドアの上に、学生共同研究室のプレートが貼られてあった。
佐古田隊員は、すかさずドアをノックした。
『警備員です。大丈夫ですか?何かありましたか?』
一瞬、教室の中が静かになった。
明らかに警戒している雰囲気が漂っていた。
応答がないので、再度ノックした。
中で鈍い反応があった。
『はぁい?』
待ちきれなくなった佐古田隊員は、ドアを開け、中を覗き込んだ。
『ウッ!』
反射的に、彼の口からうめき声が漏れたかと思うと、手で口元を押さえて、ドアを思いっきり閉めてしまったのである。
今にも、吐きそうな体勢で身を屈めていると、向こうからドアが開いた。
『何か?』
廊下に一人の学生が出てきた。
学生は、なぜ警備員がいるのか、理解できない様子で、オヤジたちを見ていた。
『こっ、この匂いは何ですか?』
口元を押さえながら、佐古田隊員は思わず尋ねた。
彼は、自分たちがここへ来た理由も告げるのを忘れ、この強烈な異臭にノックアウト寸前だった。
やっと、学生は事の真相に気づいたらしい。
他の学生たちも外に出て来て、事の成り行きを見守っていた。
『ドリアンです』
後から出てきた学生の一人が、恥ずかしそうに答えた。
『実は、うちの教授がくれたもので、今、ドリアンパーティーをしていたところだったんですけど』
別の学生が説明した。
『ちょっと、中に入らせて下さい』
佐古田隊員は学生たちに了解を得て、口許をハンカチで押さえながら、教室の中に入った。
天井に目をやると、ガス感知器が赤く点滅していた。
『やっぱり、ドリアンの強烈な匂いに
ガスセンサーが反応したんや』と呟いた。
『おそらく、そのフルーツが原因だと思いますが、まだパーティーはされますか?』
彼は、学生たちの方を振り替えると、やや迷惑そうな顔で聞き返した。
学生たちは皆、一応に『ドリアンの悪臭で警報器が鳴るのか?』
といった疑いの目をこちらに向けていたが、学生の一人が答えた。
『いえ、もう終わりました』
今時のセンサーだから反応したのか、センサーを反応させてしまう程、ドリアンの匂いが凄まじかったのかはわからなかったが、オヤジはこの一件に拍子抜けしてしまった。
とにかく、緊急事態ではない事を確認した佐古田隊員は、警備室で連絡を待つ大槻隊員に、無線を入れ状況を報告した。
『何か、アホみたいっすね。めちや、笑えますわ。瑠璃さんもBコース初日やいうのに、出足、最悪っすね』
と苦笑しながら、再び巡回に戻った。
研究棟の巡回経路は、非常に分かりやすくできていた。
要するに、一号館から号館順に七号館まで、グラウンドに向って 斜面を登って行けばいいのである。
斜面の一番高い所に、七号館が見えてくると、道路を挟んで正面に広いグラウンドが広がっている。
途中、右手に面した教室棟が建ち並ぶ方向に、学内に乗り入れるバス停の灯りが見えてくる。
そのバス停から、グラウンドの前に抜ける道路は、森のようにうっそうと木が生い茂り、人気もなくひっそりとしていた。
道路を渡りグラウンドに続く道は、更に人気がなく、灯りが乏しくなる。
昼間は、多くの部活生が練習に励んでいて、とても賑やかな場所なのに、今はまったく逆であった。
そのグラウンドの地下に、珍しい遺跡を保存している場所がある。
この遺跡は、大学建設中、偶然にも発見されたもので、当時、新聞を騒がせた事があった。
かつて、奈良時代、この場所に製鉄所があったらしい。
その後、当日の技術を知る貴重な資料として、面積こそ大きくはないが、四方壁と天井をコンクリートで覆い、厳重に保存されているのであった。
そのため、重要な巡回ポイントとなっていた。
保存庫に出入りするための扉は、頑丈そうな南京錠が掛けられていた。
夜の巡回に懐中電灯は、欠かせない親友である。
どの廊下、どの教室、どの建物を歩いても、暗闇が追いかけてくる。
人は基本、暗闇には向いていない生き物に違いない。
時として、悲しく、時として寂しさが込み上げて来るのだ。
そんな時、ライトの灯りに癒される。
お陰で足を前に踏み出す勇気を与えてくれるのである。
グラウンドを一周したら、Bコース巡回は終了となる。
特に、施錠箇所があるわけでもなく、労力はAコース巡回に比べてかなり少ないが、実験中の建物には学生もいるので、常に危険が伴う場所が多いのは確かであった。
『ざっと、こんなもんっすね!』
佐古田隊員が警備室のドアを明けながら言った。
『あっ、お疲れ様です!』
扉の向こうから、大槻隊員の元気な声が返ってきた。
『只今、巡回終了しました』
佐古田隊員が、『ふーっ!』とため息をついて、警備帽を脱ぎ、無線機をはずした。
『今日はお互いついてないですね』
大槻隊員はオヤジたちを見るなり、ぼやき始めた。
『俺は大量の落とし物の後始末に追われるし、佐古田さんたちは、珍事件に巻き込まれるし。ついてないですわ!』
そのセリフに苦言を呈したのは、荒川隊長だった。
『ええか、大槻君。たまたま、大した事がなかっただけで、むしろ良かったんや!ホンマの有毒ガスやったら、どうするんや』
いつもながらに、言い返す事ができない彼は、ふて腐れながら学生の落とし物をかごの中に押し込み、大きなため息をついた。
『けど、学生たちも、けったいなもん、持ち込んだもんやなあ。なあ、佐古田君!』
隊長は佐古田隊員を真顔で見つめた。
『ドリアン事件すか?』
彼は、くそ真面目な顔で答えた。
一瞬、静寂が訪れた後、
『ぷっ!』
じっと、佐古田隊員の顔を見ていた隊長が
思わず吹き出してしまったのである。
すると、それに刺激されたのか、一斉に警備室内が笑い声に包まれた。
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