第1話 新たなるスタート

話の始まりは、今からちょうど四年前の春。

オヤジは関西にある、私立桜並大学の警備員として働く事になった。

桜並大学は理科系の大学として有名で、全国から多くの学生が集まってきた。

一台の路線バスが県道から正門を通過し、緩やかにカーブしたキャンパス内のバス停に停車した。

バスから降り立ったオヤジは、広大なキャンパスに圧倒されながら、正門脇に佇む警備室にたどり着いた。

建物の裏手に廻ると殺風景な鉄扉が現れた。

オヤジは扉の前で軽く目を閉じ、深呼吸をした。

そして、思い切って扉を開けた。

『あっ、おはようございます』

若々しく、明るい女性の声が出迎えた。

その声にいち早く反応したのは、年の頃、六十に手が届きそうな、白髪頭を短く刈り込んだ小柄な男性だった。

男性はゆっくりと立ち上がると、オヤジの方へ近づいてきた。

『荒木です』

挨拶したのは、当大学の警備責任者の荒木隊長だった。

『町田です』

先程の笑顔の女性が、自己紹介をしてくれた。

その声に、数人の隊員たちが集まってきた。

『本日より、新メンバーになる瑠璃君や』

荒木隊長がオヤジを皆に紹介した。

『瑠璃光介です。早く皆さんの力になれるよう、がんばります』

オヤジは緊張しながらも、元気一杯に挨拶した。

大学における警備の仕事は、通常二十四時間の勤務形態となっていた。

だが、最初の五日間は仕事の流れをつかむため、昼間だけの勤務であり、夜勤業務はその後に予定されていた。

警備室内では毎朝九時になると、朝礼が行われる。

昨日から勤務している警備員より、当日勤務に当たる警備員に対して、勤務状況と連絡事項が引き継がれるのだ。

桜並大学の警備を担当するメンバーは全部で十名。

メンバーの内、女性隊員が一人。

主に、大学を訪れる人の受付と案内、つまり、訪問者の用件を聞き、面会者に連絡を取り、目的地を教えるのである。

昼間の忙しい時間帯は四人体制が取られ、夜勤時は女性隊員を除き、三人体制のシフトが組まれていた。

大学で行う警備員の仕事内容は、学生や職員を始め、外部からの訪問者を含めた大学を利用する多くの人々の安全と安心を守るために、様々な事件や事故に対して、警戒する事を目的とした、大変重要な役割を担っていた。

そう言った観点から巡回という重要な業務があった。

早速、荒木隊長がキャンパスの地図と警備業務マニュアルをオヤジに手渡した。

今日から一週間、マニュアルの中身を覚える事がオヤジに課せられた任務であった。

初日は、建物の名前や配置を覚える事に専念させられた。

大学を訪れる人は千差万別である。

その訪問者に対して、まず警備員は、訪問者の目的に応じて、的確に案内ができるかどうか。また万一、事件や事故が起きた場合でも、いかに迅速に対処できるかという事が求められるのだ。

事実、部活中に負傷した学生が救急搬送される事などは、日常茶飯事と言って良かった。

隊長はオヤジに、今後のスケジュールを説明すると、一人の若手警備員を呼び寄せた。

年の頃は三十代半ばの、やや長めの髪にキリリとした目鼻立ちのイケメン隊員が現れた。

『佐古田っす』

独特の物言いと、少し無愛想な口調で挨拶をしてきた。

時間は、ちょうど朝の十時。

午前巡回の時間だった。

警備帽をかぶり、白い手袋に携帯電話を持ち、慣れない手付きで無線機を装着した。

当大学における警備員の外出スタイルだった。

『行ってらっしゃい』

初日で緊張するオヤジに、電話番をしていたベテラン警備員の服部隊員が、笑顔で送り出してくれた。

通常、巡回は徒歩で行う事になっていたが、緊急事態の場合と早朝巡回の時だけは、例外として自転車の使用が許されていた。

外は初夏を思わせる汗ばむ陽気だったが、菜の花の香りとひばりのさえずりが、オヤジの緊張を和らげてくれた。

平屋建ての警備室は、大きな枝葉を伸ばした木の下にひっそりと佇んでいた。

まるで、森の中の小さな小屋といったところか。

おそらくは、夏の暑い日射しから守ってくれるに違いない。

警備室を出て、目の前にある正門から、桜並大学の敷地は奥に向かって、全体が緩やかな傾斜になっていた。

キャンパスロードと呼ばれる広い道が、敷地内の中央を正門から、真っ直ぐに伸びていた。

その道を大勢の学生や職員たちが、毎日行き来していた。

そして、何より目を引くのは、広い敷地の中心に、大学のシンボルとも言うべき図書館が、立派な時計塔を頂き、鎮座していた。

時計塔は、まるで大学にいる全ての人間を監視しているかの様に、立ちはだかっていた。

更に、正門より向かって右側の敷地には教室棟、左側の敷地には試験棟が建ち並らぶといった格好になっていた。

巡回は、午前、午後、夜間と三回行われる。

午前の巡回では、主に、学生たちの多く集まる場所を中心に行われた。

すなわち、図書館、教室、体育館がメインルートになるのだ。

中でも、特に気を使うのが図書館だった。

図書館の玄関を入ると、天井までが吹き抜けになっていて、左手の壁には大きな絵が掛けられており、その向かいに受付カウンターがあった。

二人は数名の職員に挨拶をし、巡回に来た事を告げた。

だが、職員たちは警備員に全く気を使う様子もなく、わずかに反応を示しただけだった。

『毎回、あの態度にイラッとしますわ』

職員たちに、鋭い視線を向けながら、佐古田隊員が耳元で呟いた。

館内は、ロビーから奥に向かって、天井まである本棚で細かく仕切られていて、迷路の様になっていた。

巡回と一口に言っても、ただ歩けば良いというものではなく、確認するポイントがあるのだ。

『こういう学生が多く、通路が混み入った場所では、壁伝いに歩きます。左回り、右回りどちらでも構いません。俺の後に着いてきて下さい』と佐古田隊員が言った。

些細に思える事でも理由があり、壁を伝う事で、むしろ死角となる隅々にまで目が行き届くし、歩行中に学生の邪魔にもならず、また同じ所を歩くといった無駄も省けるのである。

彼は、最初の印象とは裏腹に、意外と親切に教えてくれた。

途中、窓や扉の状態に問題がないか、触って確認するのだ。

特に、トイレ等は密室であるため、注意が必要であった。

常に、何が起こるかわからない巡回は、周囲に気を配り、警戒心を持って望まなくてはならない。

専門書籍の壁の谷間を進んで行くと、奥は学生たちの自習スペースになっていた。

多くの学生が、閲覧、学習スペースを牛耳っている訳だが、忘れ物や紛失、おまけに盗難といったトラブルが多発する厄介な場所でもあった。

この場所で警備員は、落し物がないか、携帯電話やパソコン等の貴重品を放置していないか確認するのだ。

話によると、最近、パソコンの盗難が以前より増えているらしかった。

案の定、この日も空席にパソコンだけが、置き去りにされた机を発見した。

それを見た佐古田隊員が、透かさず突っ込んだ。

『最近の学生は、貴重品とわかってて、平気で席を離れてしまうんやから、アホちゃうかって思いますわ』

オヤジは舌打ちする彼を見て苦笑した。

図書館の構造は、ロビーの天井が三階まで吹き抜けになっていて、図書室と学生の自習スペースが見渡せる様になっていた。

更に、その上の四階から七階は教授の個人研究室が並んでいた。

図書館の巡回を一通り終わると、受付カウンターに戻ってきた。

『特に、異常ありません』と、図書館職員に巡回の報告を行い、終了となる。

『ざっと、こんな感じっす』

佐古田隊員が腕時計を見ながら言った。

そして、次に向かったのが、体育館である。

体育館は、正門より南の方角に位置し、キャンパスロードの緩やかな坂を登り、バス停を越えた辺りにあった。

『巡回ポイントは、図書館と全く同じっす』

佐古田隊員は、玄関で上履き用のスリッパに履き替えると、体育館の中を歩き出した。

高校とは違い、授業よりも部活生による使用が大半を占めていた。

中は、をトレーニング専用の立派なジムが完備され、学生たちの元気な掛け声とシューズが床を打ち鳴らす音が、高い天井に響き渡っていた。

そのため、種目はともあれ、突発的な怪我や急病人が出る事も多かった。

オヤジたちは日々、影から学生たちを暖かく見守り、緊急の場合には迅速に誠意を持って対応する。

これが、警備員としての役目であった。

やはり、ここでも体育館職員に巡回の報告を行うのである。

『特に、異常ありません』

すると、『ご苦労様でーす』と、どの職員からも愛想の良い返事が帰って来た。

明らかに、図書館職員と様子が違っていた。

靴を履き替え、外へ出た佐古田隊員は、体育館を見上げて言った。

『到底、同じ人間とは思えんすわ』

しみじみ語る彼の口調に、オヤジも同感の笑みを漏らした。

最後は、警備室に向かって坂を下りながら、A館からE館まである教室棟を、隈無く一周するのだが、あくまで授業の妨げにならない様、外観を見て廻るのである。

所要時間としては、三十分程度。

これが、いわゆる日中巡回と呼ばれるもので、午前と午後の二回行われた。

『佐古田さん、ありがとうございました』

警備室にたどり着いたオヤジは、彼にお礼を言った。

こうして長い初日が終わったが、朝の巡回ルートだけが辛うじて記憶に刻まれ、大半の一日の出来事は目まぐるしくオヤジの前を通り過ぎていった。

二日目の朝を迎えた。

オヤジが警備室の扉を開けると、うつむき加減で椅子に腰かけた、五十代前半で赤ら顔の塚田副隊長と、白髪頭で最年長警備員の日下部隊員が、同時に顔を上げた。

『おはようございます。今日もよろしくお願いします』

オヤジは元気よく挨拶した。

『おはよっす』

塚田副隊長の小声で無愛想な返事が帰って来た。

警備室は、正面に来客専用の窓口カウンターがあり、すでに女性隊員の町田さんか窓越しに腰掛けていた。

そのすぐ後ろに、警備員が電話番と緊急時に備えて待機する机が設置されていた。

オヤジは緊張しながら、室内の隅に立っていた。

その時、戸口が勢い良く開いたかと思うと、大きな図体をした隊員が、ブツブツ文句を言いながら入ってきた。

スポーツ刈りに、黒淵メガネをかけた若手警備員だった。

『今の学生は、何を考えとるんや!』

塚田副隊長が、彼を見るなり声を掛けた。

『大槻君。今日、新人の瑠璃さんの教員係を頼むで』

巨漢の大槻隊員は、オヤジの存在に気付くと、かしこまって挨拶をしてきた。

『大槻と申します。よろしくお願いします』

先程とは違う、とても、礼儀正しい彼の態度にオヤジは少し安心した。

早速、彼は電話番について教えてくれた。

当大学にかかってくる電話の大半が、職員や教授目当ての関係者からの問い合わせであった。

その他には、学校行事についての問い合わせや、学生に対する一般人からのクレームであった。

学生に対するクレームが、日々増加傾向にあり、密かに職員たちを悩ませていた。主に、バス乗車マナーの悪さやコンビニ・銀行といった駐車場への無断駐車が、後を立たなかった。

警備員は、そうした出来事や要件を迅速かつ正確に取り次がなくてはならなかった。

勤務三日目。イケメンの佐古田隊員が、再び教育係に就いてくれた。

巡回指導の徹底である。

オヤジは警備帽を被り、白手袋に無線機、携帯電話と素早く装備を整えた。

そして、巡回に出ない時間は、繰り返しキャンパスマップを頭の中に叩き込んだ。

お陰で三日目にして、少し自身が着いた気がする。

ところが、オヤジに予想もしない言葉が飛んで来た。

『今日は僕が後から着いて行きますから、教えた通り歩いて下さい』

佐古田隊員は、クールに言った。

確かに自分が先に立って巡回する方が、上達が早いと感じた。

『よし!』と自然に気合いが入る。

図書館には、連日多くの学生が詰めかけていた。体育館では、爽やかな汗を流す学生から元気をもらった。

教室棟では、窓越しに見える、熱心に授業を受ける学生の姿に、自然と笑みがこぼれた。

何とか、午前巡回を終える事ができたオヤジは、大きくため息を着いた。

『次から、一人で大丈夫っすね!』

佐古田隊員が、オーケーを出してくれた。

『ありがとうございます。佐古田さんのお陰で自信がつきました』

オヤジは嬉しそうに頭を下げた。

翌日、四日目を迎えたオヤジは、日中巡回の一人デビューを果たしたのである。

午前十一時になると、昼の休憩交代始まる。 休憩室は警備室の一番奥にあり、夜は仮眠室に変身した。

キッチン台があり、湯沸し器と冷蔵庫が完備されていた。

オヤジは備え付けの小さなテーブルと椅子に腰掛け、自前の弁当を食べた。

その後、休憩が終わるのを見計らって、町田隊員がオヤジを受付カウンターに座らせた。

『慣れるまで、少し大変ですけど、大切な仕事ですから、頑張って覚えて下さいね』と優しく笑顔で言った。

大学における受付というのは、いかなる用事であっても、一端、警備室で許可を取らなければならなかった。

受付業務が大変な訳は、大学を出入りする関係者の目的や行き先が、千差万別であるため、学内のあらゆる知識が必要になるからである。

また、関係者以外の者や不審者を出入りさせないために警備員として、とても重要な仕事と言える。

『顔を覚えておくと、相手を待たせる事なく、スムーズにご案内できるので、すごく大学側にも印象が良くなるんですよ』

と教えてくれた。

そして、迎えた最終日、吾妻隊長がオヤジの仕事ぶりを評価し、期待に満ちた激励の言葉を掛けてきた。

第一関門突破という所だろうか?

あっという間の一週間だった。

こうして、オヤジの新たなる人生がスタートした。


















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