5 明治三十八(一九〇五)年 九月五日

 私は前日から急に高熱を出していた。頭が痛んで起き上がれないままに二度寝三度寝と繰り返し、ようやくのろのろ身体を起こしたのは午後二時を過ぎた頃であった。

 額の上には生温かくなった手拭が載っていた。医者は季節の変わり目に身体が適応しきれないのだと云って頓服を処方してくれたが、まだ熱が下がる気配がない。

 気温のせいか体温のせいか、起きているだけで汗が噴き出る。お豊が部屋まで遅い昼餉ひるげを運んでくれたが、私は薄い粥すら飲み込むのがやっとな位に弱っていた。結局二、三口で食事を諦めざるを得ず、水を少し飲んでまた身体を布団の中に横たえた。

「寝ているばかりでは御退屈でございましょう。枕元へ新聞でも置いておきますか」

「いや、結構だ。どうせ気分が悪くなる話ばかりだよ」

「へえ」

 字が読めぬお豊には、新聞に何が書いてあるのか知る由もないのだ。

 米国ポーツマスで結ばれた講和条約の内容が明らかになると、新聞各紙はこぞって屈辱講和だと政府を批判した。ロシアから一円も賠償金を取ることが出来なかったからである。投書欄は読者からの憤激の声で埋め尽くされ、街にはかつら首相や小村こむら外相らの殺害をほのめかす剣呑けんのんな貼紙がそこかしこに貼られた。

 私のように、まず戦争が終わる事を喜ぶ人間は極めてまれらしかった。近所では葬式用の白張提灯しらはりちょうちんで講和に抗議しようと云う人々も居たが、結局は警視庁の許可が下りずに中止になったらしい。

 東堂家でも講和を祝う日の丸を軒先に出すのを止めてしまった。ただでさえ父は外務省勤めなのだ。露探呼ばわりされて石でも投げられては敵わぬ。

「何でも日比谷公園では、条約反対の集会をしに来た人達と警察とが、大変な争いになっているようですよ」

 お豊からそう聞いた時、私は未ださほどの重大事とは考えていなかった。壮士連中と警官隊が衝突するのは確かに大事件ではあろうが、日比谷周辺だけの騒ぎだろうと高をくくっていたのである。ただ公園に程近いかすみせきで働く父を案じた程度であった。

「来週はお式ですから、ゆっくりお休みになってお体を治してくださいませ」

 お豊は手拭を換えてくれた後、部屋から出て行った。

 ――姉さんに苦労を掛けるな。

 今になって敏夫の言葉が鋭く胸を衝いた。

 私は甚だ情けない心持であった。熱のせいで悲観的になっていたのかも知れぬ。雪江との結婚が控えているのに、この身体はお構いなしに不具合を起こす。何と無様なのであろう。私は男として、家長として雪江や生まれてくる子らを養うどころか、かえって面倒を掛けるばかりなのではあるまいか。

 頭が熱かった。吐息は更に熱く、身体の内から焼かれているかの如く苦しかった。短い睡眠と覚醒を交互に繰り返し、夢とうつつの境は汗の中へと溶融していった。

 やがて私は、眼裏まなうらにあの鶴の姿を見た。

 あの鶴は、日比谷の鶴は、無事だろうか。

 鶴が水を噴くのをめた。最後の一飛沫ひとしぶきが光る宝珠となって降り注いだ。銅の両翼が、長い首と細い足が、白光に撫でられて形を変えていく。黄金色の髪が風に吹かれて煌めいた。

 鶴は、ダリアに変じていた。

 ――どんなに真似をしても、こんなのじゃあ仕方がないわ。

「ダリア!」

 私は彼女に呼びかけた。

 途端に視界が暗くなり、かと思うとすぐ真っ赤に燃え上がった。ダリアは何も知らない様子で、笑いながら背筋を伸ばし長い腕を羽ばたかせる。

 ダリア、行っちゃ駄目だ。そっちは危ない。叫びたいのに全然声が出なかった。熱い。てつもなく熱い。セルロイドで出来たダリアは融けてしまう!

「渉さん」

 私の額に、ふと冷たい手が触れた。セルロイドではない、血の通った指先である。

「渉さん、大丈夫? 随分魘うなされていたわよ」

 頓服が効いてきたのか、身を焦がす熱が引いていく。はっと目を醒ますと、雪江が憂わしげな顔をして傍らに座っていた。

「日比谷は、どうなった」

「大変な事になっているわ。騒ぎがどんどん大きくなって、あちこち暴徒が火をつけて回っているそうよ。この辺りはまだ無事なようだけど……」

 私が床の中で見たものは、あながち幻でもなかったらしい。雪江は今にも泣き出してしまいそうであった。

「父さんや東堂の小父さまが心配だわ」

「霞ヶ関の庁舎は警備がしっかりしているから、きっと安全だよ」

 そうは云いつつ私も不安であった。特に外務省などは、講和反対派からは最も目の敵にされているはずだ。

「昨日、敏夫も日比谷の集会に行くと云っていたの。馬鹿な事をしていなければいいけれど……」

 敏夫の名を聞いた時、悪い予感が拡がって私の胸を鳴らした。

「外の様子を見に行って来る」

「駄目よ。まだ熱があるのに」

「すぐ帰るから大丈夫だよ。もしも敏君を見つけたら連れて帰るから、君はここで待っていてくれ」

 雪江が止めるのも聞かず、私は汗じみた寝間着のままで外へ駆け出した。はやる心の為に、身体の苦しみは一旦忘れていた。昼間は暑かったように思うが、夜を迎えていくらか風は涼しくなっていた。

 街は大変な混乱に陥っていた。四方八方の夜空を炎と煙が冒し、往来には湿り気を帯びた人間の臭さが充満していた。大勢の人が色々な事を叫びながらバタバタと過ぎていく。騒いでいるのは壮士ばかりかと思っていたが、むしろ普通の市民が多かった。

「講和反対」も聞こえた。「ヤレヤレ」「殺せ殺せ」も聞こえた。時折混じる「ニコライ」云々の声が、ロシアの今上きんじょう帝を指すのか、駿河台するがだいのニコライ堂を指すのか、或いはその両方なのか、私には判じかねた。

 私はしばらく人波に紛れて走った。角を曲がるや否や、石油と物が焼ける臭いが鼻を刺した。派出所の硝子が粉砕され、中の机や椅子が放り出されて建物共々燃やされていた。それを取り囲んで、野次馬達がゲラゲラ笑っている。地獄の悪鬼かと見えたが、そうではないのだ。彼等は皆、昼間まで世間一般の人々であったはずだ。今宵は人間が鬼に変じている。

 ――ベタン、ベタン。

 細い路地を入って遂にエマーソン邸の玄関へ辿り着いた時、私はその足音を聞いた。ダリアへ呼びかけんとする声を呑んで振り返ると、果たして敏夫がそこに立っていた。

「渉、お前も露探だったのか」

「違う、僕は……」

「なら何でこんな所に居るんだ。姉さんはどうした」

 敏夫の手には白刃が光っていた。彼が平生へいぜいより歩行の頼りとしていた杖は仕込杖しこみづえであったらしい。しかし刃物よりも恐ろしかったのは、人ならざるものに取り憑かれたとしか思えぬ凄絶なる形相であった。

「さては米国人の間男だな。卑劣な奴め、片足が駄目になったとて、お前ぐらい訳はないぞ!」

「落ち着くんだ敏君、馬鹿な真似は止せ!」

 しかし敏夫は聞く耳を持たなかった。躊躇のない刃がブンと私の胸先を薙いで、浴衣の襟がわずかに切れた。敏夫は本気で私を殺す気になっている。

 次いで二振り、三振り、四振り目が私の頬を薄く裂き、五振り目で敏夫も転んで凶刃を取り落としたが、なおも憑物は去らない。私の足首を摑んで引き倒し、そのまま胴の上へとのしかかってきた。私も精一杯抵抗したものの、もとより膂力りょりょくで敏夫に敵うはずもない。太い親指が私の喉へ掛けられ、呼吸の自由が奪われる。

「何でなんだよ!」

 敏夫が割れんばかりに怒鳴った。憤怒と悲嘆の混じった唾が私の額へ散った。両目に溜まった涙がギラギラ光っていた。

 敏夫が問うているのは、私がここへ来た理由でも、政府がロシアから償金を取れなかった理由でもなかった。彼の怒りは日本という一国家ですら比べものにならぬ程強大なものへと向けられていながら、結局はどこにも行けずに敏夫自身を焼いていた。

 私は敏夫に苦しめられながら、彼を憎むことができなかった。もがきながら感じていたのは、憎悪でも憐憫でもなく共感であった。事によると、首を絞めていたのは私で、息絶えようとしているのは敏夫かも知れぬ。入れ替わったとて何の違いがあるだろう。いずれにせよ男たり得なかった男が、同じく男たり得なかった別の男を殺めているだけの事ではないか。

「渉さん!」

 玄関の引戸が開いて、悲鳴が聞こえた。

 ダリア、来ちゃ駄目だ!

 当然声は出ない。敏夫がひるんだ刹那、私は無我夢中で彼を押し返していた。肺腑にどっと空気が流れ込んで、せ返りながら立ち上がる。夜が赤と黒に瞬きながらぐるぐる回った。

 何で、と敏夫は目を剥いてまた云った。

 我に返った時、敏夫は私を凝視したまま倒れていた。そのシャツがおびただしい赤で濡れている。私はさっきまで地べたに転がっていたはずの仕込杖を握って、血溜まりの中に己の膝を沈めていた。

 驚愕は文字通り、胸をえぐる痛みとして顕れた。私の脆弱なる心臓が、自らしでかした事に耐えられなかったのである。倒れる時に、あ、とひとりでに声が漏れた。

 ダリアが駆け寄ってきた。

「痛い、痛いよォ、助けてくれ……」

 まだ息があった敏夫は、口角に血の泡を噴きながら命乞いをしていた。しかしダリアはそれを無視して、私の方を抱え起こす。思いのほか力は強く、掌はやはり冷たかった。私はようやく気がついた。ダリアの方こそ、人ならざるものであったのだと。

「渉さん、死んでは厭!」

「僕はいい、助けるなら敏君を……」

 かろうじてダリアに応じた。私はこの世で一番厭な事をしてしまった。しかも雪江の弟を。もはや彼女の愛を受けるべくもない。死ぬより他に道があるものか。

「いいえ、貴方は私のお友達になってくれたのだもの」

 ダリアの青い瞳が決然と開く。はだけた寝間着の首筋へ彼女の唇が宛がわれた時、生にんだはずの身体に再び力が巡り始めた。

めてくれ、ダリア、頼むから……」

 私はダリアに抱きかかえられたまま、まなじりから幾筋も涙を流して懇願した。けれどもダリアは聞き入れてはくれず、尖った歯をがぶりと私の頸動脈へ突き立てた。

 かくして我が血は一滴残らずダリアの糧となり、人としての生は私が望んだ通りに果てた。なのに死ねなかった。代わりに鬼としての尽きせぬ生が与えられたからである。

 突然腹の底から鋭い衝動が沸き起こり、私は自力で起き上がった。手に付いた敏夫の血を舐めると、目が眩むほどに甘かった。

 敏夫は既に事切れていた。その傍らで私は砂交じりの血溜まりを夢中ですすっていた。血を見るのは大嫌いだったのに、錆に似た香りもどろりと濃い舌触りも堪らなく悦ばしかった。

 一方で涙も滂沱ぼうだとして流れた。血の味に歓喜する化物に成り下がった己を、人間の真心が蔑んでいる。

「ダリア、ダリア、僕は……どうやったら死ねる?」

 やがて飲血の快楽が過ぎ去ると、胸の内にはただ絶望だけが澱んだ。私の血を吸って化物に変えてしまうのなら、心まで吸い尽くして欲しかったものを。

「……ごめんなさい」

 ダリアは俯くだけで、答えを与えてはくれなかった。

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