4 明治三十八(一九〇五)年 八月

 私は日曜を待って、エマーソン邸へ足を運んだ。

 アメリカ人一家が住むのは当然洋館だとばかり思っていたが、意外にもエマーソン邸は慎ましやかな昔ながらの日本家屋であった。

 玄関先から呼びかけると、地味な着物姿の下女が現れた。エマーソン夫妻は生憎あいにく留守だそうで、私が菓子折を預けて帰ろうとすると、ダリアが箱階段を駆け下りてきた。

「渉さん! 来てくださったのね!」

 ダリアは白皙はくせきの美貌を輝かせて私を出迎えてくれた。その青い目は、飛び出そうなほど大きく見開かれている。私も彼女との再会を喜ぶと同時に、よくもこれほど顔面の肉が動くものだと感心した。

「ダリアはお留守番かい?」

「両親は講和の関係で忙しいらしくって。私一人では行く所がないもの」

 五月末の日本海海戦でバルチック艦隊を破ったのを機に、日本は一気に戦争終結へ向けて動き始めた。アメリカを仲立ちとして、露国と講和条約を結ぼうという所まで漕ぎつけていたのである。アメリカ人のエマーソン氏も、通詞としてその一端を担っているらしかった。

 アメリカにも当然腹の内に思惑があるはずだ。しかし兎にも角にも戦争が終わるらしい。その事だけは喜ぶべきだろうと、私は呑気に考えていた。

 私は四角い座卓のある畳の部屋に通された。下女が淹れてくれた茶も日本茶であった。ダリアが云うには「日本で日本人と一緒に仕事をするのだから、日本人らしい生活をするべきだ」と云うのがエマーソン氏の持論だそうである。

「物心ついた頃からずっとこうだから、世間一般のアメリカ人がどうしているのか、かえって知らないのよ」

「ご立派なお父様だ」

 私は衷心から云った。

「でも、どんなに真似をしても、こんなのじゃあ仕方がないわ」

 ダリアは湯呑みを置くと、胸に手を当てて寂しげに微笑んだ。私はてっきり、ダリアの日本人とは懸け離れた容姿の事を云っているのだとはやてんした。

「真似じゃないよ。僕と君に違った所なんてない」

「そう云ってくださるのは貴方だけよ。外人というだけでも違った目で見られるわ。……ロシア人じゃないのに、『露探かも』だなんて云われるんだもの」

 ダリアは敏夫の言葉を聞いていたらしい。私はどう答えてよいものか悩んだ。「露探」とは、いまや「露西亜ロシアの探偵」というだけの意味ではないのだ。

「今は大変な時代だから、自分とは違う人を受け入れる余裕がない人が、そう云う言葉を使ってしまうんだ」

「なら、私は確かに露探だわ。貴方達とは違うんだもの」

「そんな事はない。君が気に病む事じゃないよ。生まれた国は違っても、同じ人間じゃないか」

 それは勿論、嘘や社交辞令の類ではないつもりであったが、どちらかと云えばダリアを慰める為に反射的に出た、あまり実のない言葉であったように思う。それでもダリアは十分に喜んでくれた。

「本当に? それなら渉さん、私とお友達になってくださる?」

 私は明るく振る舞う少女の瞳に、言い知れぬ孤独の影を見た気がした。その影は、かつて私が負っていた影によく似た色をしていた。幼い頃は同年代の友人を殆ど持たず、大人になっても男達の中に馴染めないでいた私は、この時確かにダリアの心奥に共鳴したのである。

「もう友達だよ」

 私はダリアより幾つも年上ではあるが、せめて彼女を励ましたかった。

「有り難う。私、とても嬉しいわ」

 ダリアが右手を差し出した。私達は友情の証に握手をした。ダリアの白い手は、まことにセルロイドで出来ているかの如くに冷たかった。

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