3 明治三十八(一九〇五)年 七月

 日曜の昼に、私と雪江は一緒に街鉄がいてつに乗って銀座へ出た。写真館で婚礼写真を撮る日取りを決めた後、陽気が良いので少し散歩をしようと、有楽門ゆうらくもんから日比谷公園へ入った。

 日比谷公園は一昨年に開いたばかりだった。芝や上野のように昔からある寺の境内を公園にしたのとは違って、ここは陸軍の練兵場だったのを、そっくり西洋風の公園へ作り変えたのだそうである。

 とはいえ御一新より前は大名屋敷があった場所でもあるので、場所によっては日本的な景観も見られた。西洋式の花壇に季節の花が咲き競っているかと思えば、すぐ傍のしんいけでは日比谷ひびや見附みつけ跡の野面積のづらづみが残っている。日比谷公園は、和洋折衷した独特の情趣に満ちていた。

 大した距離を歩いたわけでもないのに、私は疲れを感じ始めていた。噂に聞く松本まつもとろう珈琲コーヒーでも飲んでみたかったが、混雑してとても入れない。木陰を歩きながら座って一休みできる場所を探していると、先に見た心字池とは別の池が目に飛び込んできた。雲形池である。池を見つめる人々の視線の先に、果たして鶴の噴水があった。

「綺麗ね」

 雪江が何の屈託もなく微笑んだ。私がうんと頷き返したのは、雪江と同程度の感慨を抱いたからではない。他に言葉が出ない程に心を打たれたからである。

 鶴は今にも飛び立ちそうな姿で、しかし永遠に微動だにすることもなく、猛烈な夏の太陽に炙られていた。それでも太陽を射落とさんと、嘴から鋭く水を噴き上げて甲斐のない抵抗を続けている。

 ――否、射られたのは私であった。何故不動の鶴がこれほど強く精神へ作用したのかは分からぬが、自らそれと分かる程に心拍が乱れた。

 視界がぼんやり白み始めた時、ふと近くに居た西洋人の一家が目に入った。中年の夫婦と、年頃の若い娘であった。娘は鶴の格好を真似して、両手を広げ健やかな白い首を伸ばしている。両親がそれを見て愉快そうに笑っていて、いかにも幸福そうな光景である。

 娘が私に気づいたらしかった。彼女が向けてきた青い瞳は、子供時分に雪江がうちへ持ってきてくれたセルロイドの人形によく似ていた。

「渉さん?」

 その瞬間に、雪江の呼ぶ声が遠ざかった。目の前が真っ白になったかと思うとすぐに暗転した。息が苦しかった。己が大きくかしいでいるのが分かったが、全身から力が抜けて制御が利かなかった。

「まあ、大変!」

 少女の声が玲瓏れいろうと響いた。聞こえてきたのは確かに日本語であった。こちらへ駆け寄る足音を一つ二つ聞いた後、私はすっかり昏倒してしまった。




 私はベッドの上で目を覚ました。青磁せいじ色に塗られた壁に四方を囲まれ、透明度の低い硝子ガラス窓から薄く夏の光が差し込んでいる。見知らぬ部屋だが、どうやら病室らしいという想像はついた。ここは医院であろうか。

「渉さん、気分はどう?」

 私の名を呼んだのは、雪江ではなくあの西洋人の娘であった。彼女は傍らに腰掛けて私の顔を覗き込んで、青い目をパチパチ瞬かせている。それを見てようやく、私は我が身に何が起きたのかを思い出した。

 彼女はダリア・エマーソンと名乗った。父親は通詞つうじの仕事をしているらしい。アメリカ人だが、三歳の時から日本に住んでいるので、英語よりも日本語のほうが得意なのだと云ってにっこりと笑った。

 ダリアは私が意識を失った後の経緯について教えてくれた。彼女の父親が私を背負ってここまで運び込んでくれた事、医者が私を「元々心臓の良くない所へ汗をかいて疲れたせいだ」と診断した事、水分を摂って休んだら、帰宅しても差し支えない事。そして、雪江は大いに動転したようだが今は落ち着いて、ダリアの御両親と一緒に家に電話を掛けに行っている事。

 私は慌てて身体を起こした。確かに頭がくらくらした。まだ十分血が巡っていないらしい。

「大変なご迷惑をお掛けしたようで、どうも済みませんでした」

「いいえ、困った時はお互い様よ。どうぞお気になさらないで。……そうそう、喉が渇いていらしたのよね。どうぞ」

 ダリアが硝子のコップに水を注いでくれた。よく冷えた水は弱った身体に染み渡るようで、私は彼女の親切に感謝した。

「渉さん達も、鶴の噴水を見に来たの?」

「いえ、僕等は写真館へ寄った帰りで」

「写真? もしかして、雪江さんと結婚するの?」

 ダリアがあまりにも直截ちょくせつに聞くので、私は一瞬面食らったが、「ええ、まあ」と恥じ入りながら答えた。

「素敵ね。きっとお幸せになるわ。だって雪江さん、本当に貴方のことを愛してらっしゃるみたいだもの。渉さんもそう? 雪江さんを愛してらっしゃるの?」

 流石さすがは西洋人と云うべきか、はた夢見がちな年頃の少女だからなのか、ダリアはいとも容易たやすく愛などと云ってのける。私は赤面して返答しかねたが、ダリアは満足な答えを得たとばかりににこにこしている。

 やがて雪江が病室に入ってきた。その後にベタン、ベタンと、調子の狂った靴音がついてくる。雪江はダリアの御両親とは別に、もう一人連れて来ていた。

「よう、渉。お前は相変わらずひ弱だなァ」

 森下敏夫は茶色の背広姿で、杖を突いて現れた。姉とアメリカ人一家の手前如才なく笑ってはいたが、目の奥に光る威圧的な鋭さは昔と少しも変わらない。

「家に電話をしたら、敏夫を呼べと云われたの。万が一帰り道で貴方に何かあったら大変だからと……」

 雪江は殆ど弁解するような調子であった。私が敏夫を好いていないのが顔に出ていたのだろうか。二十三になっても未だ嫌いなのだから、幼少期にいじめられた記憶と云うのは実に根深いものだ。

「弟さんもいらっしゃったことですし、もう心配要りませんね。私たちはこれにておいとまいたしましょう。さて、帰ろうか、ダリア」

「またね、渉さん」

 エマーソン氏の日本語には少し英語の訛りが残っていた。ダリアが明るく笑って手を振り、私と敏夫の事情を知らぬ親切な西洋人達は去った。私達は頭を下げて繰り返し礼を述べたが、彼等の姿が見えなくなった途端、敏夫が吐き捨てんばかりに云った。

何人なにじんだ、ありゃあ」

「アメリカの方よ。友好国でしょう」と雪江が顔をしかめると、敏夫はふんと鼻を鳴らし、私の手からコップを奪った。ベタンベタンがまた床を打った。私は目を伏せて不快に耐えねばならなかった。敏夫は水差しに残った水をコップへ注いで、一息に飲み干した。

「外人には気をつけにゃあ、もしや露探ろたんかも知れんぜ」

「敏君、彼等は僕を介抱してくれた人達だよ。悪く云わないでくれないか」

 大人になった私は、敏夫にやんわり云い返せる位の勇気は持っていた。敏夫の反撃を覚悟したが、彼は「まあ、渉兄さんがそう仰るなら」と唇をへの字に曲げるだけであった。

 私は密かに驚いた。敏夫は左足の自由と共に、己が主張を無理強いする横暴さまで失ったのであろうか。

 かつて私の弱さを嘲弄していた敏夫は、十九の時に鉄道との接触事故を起こした。どうやら未成年なのにこっそり酒を飲んで酔っていたらしい。命は助かったものの右足の骨が滅茶苦茶に砕けて、以後歩行に支障をきたすようになってしまった。

 翌年の徴兵検査は私でさえ丙種へいしゅであったのに敏夫は丁種ていしゅ、つまり日本軍の兵士として不適格と判定された。かつて清との戦争に心躍らせ、「次に日本が戦をする時は、俺も出征して英雄になるんだ」と息巻いていた少年剣士の夢はついえた。

 だんだん敏夫が憐れに思えてきた。だが憐憫は嫌悪より厄介な感情である。相手より自分が幸運だと思う。正しいと思う。ならば救ってやらねばと、傲慢にも要らぬ世話を焼きたくなる。私は己が感情を持て余した。

 敏夫も私との沈黙を嫌ったらしい。街鉄に乗って神田まで帰るまでの間、敏夫は一人でよく喋っていたものの、何を話したかは殆ど記憶に残らなかった。おおかた私が興味を覚えない戦争の話でもしていたのだろう。ただ姉が居る事もあってか、一度も暴言を吐かずに堪えていたのは覚えている。二度と整うことのない足音だけが、彼の苛立ちを雄弁に物語っていた。

 口には出さなかったが、私は敏夫が兵隊に取られなくて良かったと思った。いくら嫌いでも雪江の弟である。多分少しは仲良くした事もあるはずだ。戦争に行って死ねば良いとは到底思えなかった。

 家に帰り着くと母に大層叱られた。

「さては雪江さんと二人で浮かれたのでしょう。貴方はこれから一家の主になるのだから、よくよく自覚を持って行動なさい」

 全くその通りで反論の余地もなかった。

 反面父からは驚く事を聞かされた。奇遇にも、ダリアの父エマーソン氏は外務省に勤める父と面識があったのだ。しかも一家の住まいは小川町おがわちょうにあるそうだ。同じ神田区内である。

 私は後日改めてお礼に伺うことに決めた。またダリアの溌溂はつらつとした笑顔が見られると思うと嬉しかった。さすがに父の前では、敏夫も「露探じゃないのか」とは云い出さなかった。

「敏君、今日は有り難う」

 送ってくれた事に礼を云った時、敏夫にぎろりと睨まれた。私は思わず身を竦ませた。

「姉さんに苦労を掛けるな」

 敏夫は姉に叱られながら帰って行った。どうやら彼は私と雪江との結婚に甚だ不満らしかった。

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