2 明治三十八(一九〇五)年 四月
神田の家に帰るといつになく慌ただしかった。まだ正午を少し過ぎたばかりというのに、女中のお
父もとうに仕事から帰っていて、私の顔を見るなり「渉、早く着替えろ」と厳しく口走った。私は洋装か和装かと尋ねたかったが、気難しい父の
迷った挙句に私は洋装を選んだ。去年帝大の卒業記念にと
日暮れを待たずして、東堂家にはぞろぞろと客人が訪れた。客は
森下の家は我が家のほんの数軒先にあった。もとは長州の下級士族で、
雪江は島田に結った髪と薄紅色の着物姿で、玄関の
「洋服を着るべきだったのかしら」
「いや、僕が袴を着るべきだった」
私と雪江は宴の間ずっと上座で隣り合って座していたのに、なかなか言葉を交わせないまま、代わる代わる挨拶にやってくる親族にぺこぺこ頭を下げて過ごした。
雪江とは、幼い頃からの仲であった。
小学校に入る前、私は医者から激しい運動を控えるようにと言いつけられた。心音が不規則で、時々雑音が混じっているそうである。私は同年代の男児のように、外で走り回ることができなかった。
二つ年上の雪江は昔から気配りの細やかな娘で、
このままでは東堂家の跡継ぎが軟弱者に育つと危ぶんだ父が、無理矢理私を近所の剣術道場にも通わせたが、もとより気も心臓も弱い私に剣は不向きであった。稽古して上手くなったのは、雪江に教わったお手玉ばかりだ。
それでも森下の小父さんは随分私を可愛がってくれ、「大人になったら雪江を嫁に遣ろう」と笑っていた。私が帝大を出て教職に就いた後、父から雪江との縁談を聞かされるまでは、まさか本気であったとは思ってもいなかった。こんな風に森下家との顔合わせを兼ねた夕食の席が設けられてもなお、私は夢を見ているのではないかと疑っていた。
私も雪江も下戸だったので大人しく食べていたが、やがて列席の面々に酔いが回ってくると、歓談の声が徐々に高くなってきた。
「それにしても
初めに
「
「皇帝が一言『もう
「厭だね、独裁国家は。ロシアの人も気の毒なもんだ」
「気の毒」と云う言葉が、存外私の
己が言とは裏腹に、云った人はにやついていた。
不思議なことだが、彼等は敵国人をさして憎んではおらず、むしろ憐れんでいた。露帝国は専制君主の一存で国民の生死が左右される後れた国だと決め込んで、自分達は一等国の国民だと信じて疑わないでいるのだ。日本はほんの五十年前、黒船に脅かされて渋々開国したばかりなのに、いつの間にそれほど進歩したのであろうか。
「ロシアの皇帝陛下は、あのニコライって
「ハハ、違えねえ。渉さんよォ、アンタもそう思わねえかい?」
突然水を向けられた私は
「え、私は……、そうですね」
などと
物心ついた頃から、私は
もしも身体が強健であったなら、私も兵隊に取られて露人と殺し合っていたかも知れぬ。そうならなくて良かったと思う。西洋列強に比肩せんとする御国の事情はどうあれ、私は血を見るのが厭であった。殺すのが厭であった。何より殺されるのが厭であった。
前年の日露開戦以来、新聞には次々に日本勝利を伝える記事が踊り、その度に東京市中には万歳万歳の声が溢れ返った。新聞社の主催で連日連夜
「
私はちらと父を見た。父は戦争の話で盛り上がる客人達に適当な相槌を打ったものの、自分から話を膨らませることはしなかった。森下の小父さんも、茶を濁して済ませていた。
矛盾した云い方だが、私は二人の姿に安堵し、また漠然とした不安も感じた。父は外務省の官員である。森下の小父さんは大蔵省である。私は彼等が何か戦勝に浮かれられぬ事情を隠しているのではないかと推量した。
何だか胸が悪くなった。私は「酒の匂いに酔ったようです、少し外の風に当たってきます」と云って立った。雪江も顔色が冴えないようなので、一緒に連れて行くことにする。酔っ払いの下品な冷やかしは聞き流した。
玄関先に出ると空は随分暗くなっていて、弓なりの細い月が西の空に頼りなく傾いていた。向かいの家の小さな桜の木も、この時分には
「ごめんなさい」
私が大きな息を吐くと、雪江が三歩程後ろから云った。
「渉さん、ああ云う話は嫌いでしょう。うちの親戚、品も教養もない人ばかりで」
「いや、自分の国が戦争に勝って喜ぶのは当然だよ」
「
雪江は私と同い年の実弟の名前を出した。実は私も、客の中に森下敏夫が居ないのが少し気にかかっていた。
「あの子、ほら、十九の時に事故で足を悪くしたでしょう。あれからふて腐れてしばらくブラブラしていたけれど、今は銀座の辺りで新聞社の下働きをしているの。祝捷会の手伝いなんかも熱心にやってるらしいわ。今日もどこかで偉い先生との会合に出るから来られないって、薄情が過ぎやしないかしら」
「まあ、
「優しいのね。昔あんなに乱暴されたのに」
私は苦笑しか返せなかった。
敏夫とは同じ剣術道場に通っていた。彼にはいつも
雪江は黙った。私も云う事が見つからず黙っていた。そのままぽつぽつと歩くうちに
「ごめんなさい」
下駄の足音が止まると、雪江がまた云った。私は何を謝られているのか分からぬまま振り返った。雪江はちょうど
「私が、どうしても渉さんの所へ行きたいと頼んだの」
それを聞いた時、私はまるで信じられぬ心持で、馬鹿みたいに口を開いていた。何か云わねばと思うのに言葉にならず、ただ喉の奥が苦しく鳴るばかりだった。
「この結婚は私の
雪江は袖から白い
私のような弱い男でも、目の前で女に泣かれては
「僕だって、何も渋々結婚しようと云うんじゃないんだ。実の所、僕が学生をやっているうちに君が
雪江が
秋が来る頃に、私達は正式に夫婦となる予定であった。
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