2 明治三十八(一九〇五)年 四月

 神田の家に帰るといつになく慌ただしかった。まだ正午を少し過ぎたばかりというのに、女中のおとよや母だけでなく、従姉妹いとこたちや五年も前に嫁に行ったゆみ姉さんまでが駆けつけて炊事場に立ち、宴の支度にせわしなく立ち回っていた。

 父もとうに仕事から帰っていて、私の顔を見るなり「渉、早く着替えろ」と厳しく口走った。私は洋装か和装かと尋ねたかったが、気難しい父の癇癪かんしゃくを恐れて喉まで出かかった言葉を呑んだ。

 迷った挙句に私は洋装を選んだ。去年帝大の卒業記念にとあつらえた鼠色の背広を着ると、腹回りの肉がまた落ちたことに気づいた。

 日暮れを待たずして、東堂家にはぞろぞろと客人が訪れた。客は森下もりした雪江ゆきえと、その親族であった。

 森下の家は我が家のほんの数軒先にあった。もとは長州の下級士族で、御一新ごいっしんの功労によって二代続けて明治政府の官員に取り立てられたと聞いている。東堂家の祖は肥前ひぜんだが、おおむね似たようなものだ。

 雪江は島田に結った髪と薄紅色の着物姿で、玄関の三和土たたきに立っていた。控えめな彼女らしい古風な出で立ちである。出迎えた私を一目見て、その黒目がちな瞳に困惑の色を浮かべている。

「洋服を着るべきだったのかしら」

「いや、僕が袴を着るべきだった」

 私と雪江は宴の間ずっと上座で隣り合って座していたのに、なかなか言葉を交わせないまま、代わる代わる挨拶にやってくる親族にぺこぺこ頭を下げて過ごした。

 雪江とは、幼い頃からの仲であった。

 小学校に入る前、私は医者から激しい運動を控えるようにと言いつけられた。心音が不規則で、時々雑音が混じっているそうである。私は同年代の男児のように、外で走り回ることができなかった。

 二つ年上の雪江は昔から気配りの細やかな娘で、玩具おもちゃを持っては独り退屈にしている私を尋ねてきてくれた。お陰で私は竹馬やおにごとよりも、屋内で出来る女児の遊びに親しんだ。

 このままでは東堂家の跡継ぎが軟弱者に育つと危ぶんだ父が、無理矢理私を近所の剣術道場にも通わせたが、もとより気も心臓も弱い私に剣は不向きであった。稽古して上手くなったのは、雪江に教わったお手玉ばかりだ。

 それでも森下の小父さんは随分私を可愛がってくれ、「大人になったら雪江を嫁に遣ろう」と笑っていた。私が帝大を出て教職に就いた後、父から雪江との縁談を聞かされるまでは、まさか本気であったとは思ってもいなかった。こんな風に森下家との顔合わせを兼ねた夕食の席が設けられてもなお、私は夢を見ているのではないかと疑っていた。

 私も雪江も下戸だったので大人しく食べていたが、やがて列席の面々に酔いが回ってくると、歓談の声が徐々に高くなってきた。

「それにしても露助ろすけの野郎共、しぶといもんだなァ」

 初めに一際ひときわ大きな声を上げたのは森下側の親戚の誰かだが、名前は聞いた傍から失念してしまった。さほど雪江と血筋の近い人ではなかったように思う。その言を皮切りに、男達が口々に放言し始めたのである。

奉天ほうてんで大負けしたのに、まだ降伏しねェとは」

「皇帝が一言『もうめだ』と云やァ済むのに」

「厭だね、独裁国家は。ロシアの人も気の毒なもんだ」

「気の毒」と云う言葉が、存外私の耳朶じだを強く叩いた。

 己が言とは裏腹に、云った人はにやついていた。

 不思議なことだが、彼等は敵国人をさして憎んではおらず、むしろ憐れんでいた。露帝国は専制君主の一存で国民の生死が左右される後れた国だと決め込んで、自分達は一等国の国民だと信じて疑わないでいるのだ。日本はほんの五十年前、黒船に脅かされて渋々開国したばかりなのに、いつの間にそれほど進歩したのであろうか。

「ロシアの皇帝陛下は、あのニコライって御仁ごじんだろ。いっそ大津でヤッちまってりゃ良かったんじゃあ?」

「ハハ、違えねえ。渉さんよォ、アンタもそう思わねえかい?」

 突然水を向けられた私は咄嗟とっさに言葉が出ず、

「え、私は……、そうですね」

 などと御座おざなりの返事をする始末であったが、全然本心ではなかった。

 物心ついた頃から、私はなまぐさいことが大嫌いであった。女と飯事ままごとをして育ったせいか、虚弱なる身体のせいか、はた生まれ持った本質なのかは定かではないが、ともかく戦争などは私が忌み嫌う最たるものであった。

 もしも身体が強健であったなら、私も兵隊に取られて露人と殺し合っていたかも知れぬ。そうならなくて良かったと思う。西洋列強に比肩せんとする御国の事情はどうあれ、私は血を見るのが厭であった。殺すのが厭であった。何より殺されるのが厭であった。成程なるほど私は軟弱者に育ったに違いない。

 前年の日露開戦以来、新聞には次々に日本勝利を伝える記事が踊り、その度に東京市中には万歳万歳の声が溢れ返った。新聞社の主催で連日連夜戦勝祝捷会せんしょうしゅくしょうかいが開かれ、何万何十万という市民が提灯や旗を掲げては行列して、酒を呑んだり見世物に興じたり、時には大混乱が生じて死人が大勢出ることさえあった。まことに狂気の沙汰と云うほかあるまい。東京だけではない、国中が残酷な熱に浮かされていた。

わしらも税金を余計に払って、しんどい思いをして御国の為に尽くしておるんだ。こりゃ露助からガッポリ償金を貰わにゃなァ! 頼みましたよ、ねェ東堂さん!」

 私はちらと父を見た。父は戦争の話で盛り上がる客人達に適当な相槌を打ったものの、自分から話を膨らませることはしなかった。森下の小父さんも、茶を濁して済ませていた。

 矛盾した云い方だが、私は二人の姿に安堵し、また漠然とした不安も感じた。父は外務省の官員である。森下の小父さんは大蔵省である。私は彼等が何か戦勝に浮かれられぬ事情を隠しているのではないかと推量した。

 何だか胸が悪くなった。私は「酒の匂いに酔ったようです、少し外の風に当たってきます」と云って立った。雪江も顔色が冴えないようなので、一緒に連れて行くことにする。酔っ払いの下品な冷やかしは聞き流した。

 玄関先に出ると空は随分暗くなっていて、弓なりの細い月が西の空に頼りなく傾いていた。向かいの家の小さな桜の木も、この時分にはほとんど葉桜になっていた。

「ごめんなさい」

 私が大きな息を吐くと、雪江が三歩程後ろから云った。

「渉さん、ああ云う話は嫌いでしょう。うちの親戚、品も教養もない人ばかりで」

「いや、自分の国が戦争に勝って喜ぶのは当然だよ」

敏夫としおが来なくて良かったわ」

 雪江は私と同い年の実弟の名前を出した。実は私も、客の中に森下敏夫が居ないのが少し気にかかっていた。

「あの子、ほら、十九の時に事故で足を悪くしたでしょう。あれからふて腐れてしばらくブラブラしていたけれど、今は銀座の辺りで新聞社の下働きをしているの。祝捷会の手伝いなんかも熱心にやってるらしいわ。今日もどこかで偉い先生との会合に出るから来られないって、薄情が過ぎやしないかしら」

「まあ、とし君が元気なら良いじゃないか。今日は会えなくて残念だけれど、また近いうちに挨拶するよ」

「優しいのね。昔あんなに乱暴されたのに」

 私は苦笑しか返せなかった。

 敏夫とは同じ剣術道場に通っていた。彼にはいつも竹刀しないで酷く叩かれて泣かされていたものだ。軟弱で女みたいな顔をした私が気に食わなかったらしい。正直、敏夫が好きかと問われればいなと答えるしかないが、男児が野蛮なのは自然のことわりである。中学校の教員などをやっていると心底そう思う。敏夫だけが別段乱暴な訳ではない。私の方が異端なのだ。

 雪江は黙った。私も云う事が見つからず黙っていた。そのままぽつぽつと歩くうちに人気ひとけのない道へ入った。春の終わりを嘆く吐息の如く、ぬるい風が私と雪江の間を抜けた。

「ごめんなさい」

 下駄の足音が止まると、雪江がまた云った。私は何を謝られているのか分からぬまま振り返った。雪江はちょうど瓦斯ガス燈の下で、恥じらいがちに俯いていた。

「私が、どうしても渉さんの所へ行きたいと頼んだの」

 それを聞いた時、私はまるで信じられぬ心持で、馬鹿みたいに口を開いていた。何か云わねばと思うのに言葉にならず、ただ喉の奥が苦しく鳴るばかりだった。

「この結婚は私の我儘わがままなのよ。渉さんには何の得もないのに」

 雪江は袖から白い手巾ハンケチを取り出して目元を拭った。

 私のような弱い男でも、目の前で女に泣かれてはたまらなかった。私は雪江に歩み寄り、思い切って雪江の手に我が手を重ねた。雪江の手は冷えていた。温めてやらねばと思った時、詰まっていた言葉がようやく出た。

「僕だって、何も渋々結婚しようと云うんじゃないんだ。実の所、僕が学生をやっているうちに君が余所よそへ行ってしまわないかと、ずっと不安だったんだよ。それが君から望んでお嫁に来てくれるなんて、こんなに嬉しいことはない」

 雪江が躊躇ためらいがちに手を握り返した。涙を止めて欲しかったのに、余計に泣かせてしまった。雪江の手が温もりを取り戻しても、私達はいつまでも手を握り合ったまま突っ立っていた。

 秋が来る頃に、私達は正式に夫婦となる予定であった。

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