第9瞬「乳母車」
この間、住んでいる家の近くのごみ捨て場に乳母車が捨ててあった。
怖くてその道を迂回した。
それは過去の経験からくる恐怖だった。
以前、私は道端に捨てられていた乳母車で怖い体験をしたことがある。
それは、普通なら体験することもなく、もし私自身ではなく、他人がその体験をしたとして、その人に話を聞いても信じることも出来ないような体験だった。
まだ高校に入ったばかりの頃のある日、私は通学に使っている道で二台の乳母車を見つけた。
それは全く同じデザインの乳母車だった。
それからその乳母車は、
ただ、朝、学校へ向かうときやテスト期間で昼過ぎに帰った時には一度も置いてあることはなかった。
その理由はわからなかったが、私は何らかの理由で夕方以降、家に乳母車を置いておけないため、夕方以降にだけそこに置いているのだと思った。
それは、高校初の文化祭の準備で帰りが遅くなった私がその場所を通った時だった。
遠目から、その乳母車がある場所に真っ赤なワンピースを着た女の人が立っているのが見えた。
私は、乳母車の持ち主が立っているのかと思って気にしなかった。
しかし、乳母車の置いてある場所に近づくとその異変は明らかだった。
その女の人の両腕は肩から下が無かった。
本来なら二の腕がある場所からはゆっくりと血が滴り落ち、乳母車の周りは血溜まりの様なものが出来ていた。
あまりの異常事態に声も出せなかった私にその女の人が声をかけてきた。
私の赤ちゃん…
可愛い私の赤ちゃん…
抱けないの…
こんなに可愛いのに抱けないの…
呼吸も忘れそうになるほどの恐怖と緊張感に私は動くこともできなかった。
私の赤ちゃん…
あなた…
代わりに抱いてくれる…
ほら…
可愛い赤ちゃん…
恐怖のあまり顔を見ることは出来なかったが、その女の人の体ははっきりと私のほうを向いていた。
そして、その女の人が再び乳母車のほうを見ると赤ん坊の泣き声が聞こえた。
ンギャアンギャアンギャア…
ンギャアンギャアンギャア…
それはまるで、二人の赤ん坊が同時に全く同じ泣き声を上げているかのように、二つの声が重なって聞こえた。
私の赤ちゃん…
何を泣いているの…
ごめんなさい…
私はあなた達を抱けないの…
ごめんなさい…
女の人は二台の乳母車に向けて声をかけていたが、赤ん坊の泣き声はより一層に激しくなり、ついには乳母車がバタバタと音を立て始めた。
その時だった。
私は乳母車の中で暴れる赤ん坊の正体を見てしまった。
そこで初めて体が動いた。
どこをどう走ったのかは覚えていないが、気がつくと私は息を目一杯に切らして自宅の前にいた。
家に入ると既に父が帰宅しており、私は帰宅するなり家族三人で夕食を食べた。
乳母車の話はしなかった。
というよりも、出来なかった。
それを誰かに話すことにより、私が見た一連の出来事が錯覚では無かったと認めてしまうのが怖くて話せなかった。
それ以来、あの道を通ることはほとんど無くなったが、たまにどうしてもその道を使うしかない場合は、少し離れた場所から乳母車が置いてあるかどうかを確認してから使っていた。
今は自立して両親と離れて暮らしているためにあの道を通ることはないが、私は赤いワンピースの女性を含め、その時に見た物を錯覚だと思っている。
実際にあれを見たとは思いたくない。
あの時、私が見た二台の乳母車の中身には腕が一本ずつ入っていた。
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