第7話 枯れた水と宿の女将クルバ

  アンディーンが浄化された直後、その気配を察知した女は一瞬だけ、目を丸くした。それも束の間、アメジスト色の双眸を細めた。


 「浄化されちゃったのね。でも……」


 形のいい唇を白い指で撫でた女は口角を上げた。


 「浄化が出来るなんて女神クラスくらい。という事は、あれが目覚めた可能性がある」


 「あれ、とはたしかお前が魔石に封じた女神の事か?」


 横目で女は相手を見た。先ほどまで誰もこの部屋にはいなかったはずだ。


(勝手に人の部屋に入り込むなんて相変わらず悪趣味ね、こいつ)


 「そう睨むでないフラビィよ。別に儂はおまえが魔石を待ち帰るのを失敗したことを言及してはおらぬよ」


 「……」


 無言のフラビィに男はわざとらしく肩を竦めて見せるとソファーから立ち上がった。


 「あなたはさっさと自分の仕事に戻ったらどう?」


 早くここから出て行けと言わんばかりのフラビィに相手は苦笑を見せる。


 「そうさな。あちらの様子も気になることじゃし、そろそろ戻ろうかの……。あのお方の期待を裏切る真似だけはするでないぞ、フラビィ」


 「分かってるわよ……早くここから出て行け陰険じじい……」


 「なんと口が悪いことか。まことに残念じゃ」


 わざとらしく溜息を吐いた男はやれやれ、と言いながら部屋から出て行った。



 「今度こそあの女神をこの手で葬り去る。それがあのお方のご命令とあらば……」


 でも、それは本当にあのお方の命令なのだろうか。いまいちあの爺のことは信用できない。あのお方の代理として出てきた爺は魔族たちへ命令を下している。それが気に食わない。


 「まあいいわ。あの爺の腹の中を探るのは後。まずはあの女神を……」


 フラビィは窓に爪を立てて低く呟いた。





 「さてさて、次はどうするか。そうだ、そろそろヤツを目覚めさせるか」


 廊下を歩きながら男は口の端を吊り上げた。




♦♦♦




 コランマールに着くころにはすっかり日が暮れていた。街は人口の灯りで照らされており、明るい。人の往来もあり賑わう通りを一つ曲がれば一気に薄暗く、人通りが少なくなる。昼間は気にならないが、日が暮れれば薄気味悪く感じる。坂道を下りクルバの運営している宿屋へと向かう。薄暗いから人通りが少ないのか、人通りが少ないから薄暗く感じるのか考えながらセシリヤはモンタナに着いた。

扉を開けるとクルバが目を見開いた。彼女が手にしていたトレイが滑り床へと落ちる。


「セシリヤちゃん⁉ おかえりなさい!」


 クルバが近づいてセシリヤを抱きしめる。困惑するセシリヤにクルバは「良かった、無事に帰ってきてくれて良かったよ……」と涙声で何度も言う。抱きしめてくれる人の温もりを感じるのはいつ以来だろうか、くすぐったさを感じる。


 「ク、クルバさん?」


 「あらやだ。私ったら、ごめんね」


 声を掛けると体を離したクルバが目尻に溜まった涙を拭った。出掛けると言ったきりなかなか戻らないセシリヤを心配していたようだ。苦笑を浮かべる相手にセシリヤは唇を一度結んでから照れくさそうに「ただいま、クルバさん」と告げた。


 「お風呂に……と言いたいところだけど、ちょっと時間が掛かるからご飯でも食べて待っててね」


 「お風呂どうかしたんですか?」


 問うと、クルバは困ったように眉を下げて話しはじめた。




 モンタナのある通りは三年前から人通りが減っていた。元々はここも人通りが多く賑わっており、モンタナにも客は多かった。けれど、突然水の供給が途絶えてしまった。途絶えたのはモンタナのある通りだけ。表の通りや他は途絶えておらず、原因は分からなかった。水の供給が途絶え水道から水が出なくなっただけではなく、近くの井戸も枯れてしまいクルバたちは離れた井戸まで必要な分だけ水を汲みに行く生活をせざるを得なくなってしまった。不便な生活に耐え兼ねた人たちは表通りへと引っ越し、今では人通りが少ないゴーストストリートと化してしまったのだ。クルバは亡き夫の残したモンタナを守りたいと残り生活をしている。風呂の水も近くの井戸から何度も運ぶため「時間が掛かるから少し待っててね」と出て行こうとするクルバをセシリヤは引き止めた。


 「クルバさん、水はどれくらい必要ですか?」


 セシリヤの問いにクルバは目をしばたたかせた。


 「とりあえずセシリヤちゃんのお風呂用とかの生活用水をタンク一杯必要かしらね」


 「タンクに案内していただけますか?」


 「構わないけど……」


 言いながらクルバは非常用タンクのある場所まで案内した。蓋を開くと中には水が溜まっていたが、三分の一程度であり湯船を張るまでの量はない。タンク一杯まで水を何度も汲みに行くとなれば何時間掛かることだろうか。セシリヤはブレスレットに触れた。


 「クルバさん、ちょっと離れていてください」


 素直に数歩下がったことを確認したセシリヤがアクアマリン色の石を指で撫でて念じた。


 (アンディーン、聞こえる?)

 ――はい、セシリヤ様。さっそく役立つ時が来たのですね


 アンディーンの声音が弾んでいるように聞こえる。


 (このタンク一杯に水を溜めたいんだけど、出来る?)

 ――お安い御用です

 (それと、水の供給がこの通りだけ途絶えた原因を明日探りたい。協力してくれる?)

 ――もちろんです。私に出来る事であれば

 (ありがとう。助かる)

 ――いいえ。貴女は私の能力を人のために使うのですね、良かった……


 小さく零された言の葉はセシリヤには届いていなかったが、アンディーンは満足そうに微笑むと祈るように両手を組んだ。

 タンクの中に水嵩がみるみるうちに増えていく。これにはセシリヤも「おぉ!」と感嘆の声を零す。タンクを覗き込んだクルバも目の前で起こった出来事に何度も目を擦った。


 「こりゃあ驚いたねぇ~。セシリヤちゃんは魔法使いかい?」


 「ま、魔法使いだなんて……私はただの旅人ですよ」


 苦笑を浮かべるセシリヤにクルバは何度も礼を述べる。


 「ありがとう、セシリヤちゃん。今からお風呂の準備をしてくるからご飯食べながら待っていてね」


 そう言うとクルバは厨房へ急ぎ足で向かって行った。クルバがいなくなったのを見計らってティルラが声を上げた。


 「アンディーンの能力すごいわね。水をあっという間に生成するなんてさすが水の精霊」


 「そうね……」


 「水の供給が途絶えた理由、気になるの?」


 「もちろん。クルバさん困っているようだし、解決できるなら協力したいかな」


 足もとにいたピー助が両羽を広げてピィー、と鳴いた。自分も協力すると言っているように聞こえてセシリヤは小さく笑うとピー助の頭を人差し指で優しく撫でた。


 (アンディーンの能力もだけど、それを普通に使えるセシリヤの潜在能力値の高さよ……。これも師匠とやらの教育の賜物かしら)


 「セシリヤちゃーん! ご飯の用意出来たからおいで」


 クルバの呼びかけにセシリヤは返事して食堂へと向かった。

 


 こんなものしかなくてごめんね、と悲し気に眉を下げるクルバが出したのは最初に泊った時に提供された鶏肉のシチューとパンだった。セシリヤは両手を合わせて「いただきます」と告げてスプーンでシチューを掬った。客足の少ない宿には当然収入も少ない。そんな中では提供できるものも限られるだろう。それにもかかわらずクルバは嬉しそうに笑い、貴重なソーセージを分けてくれた。クエストに向かうセシリヤへ腹の足しに、と日保ちするパンとささ身の燻製を持たせてくれた彼女の優しさが素直に嬉しかった。あれがなければ空腹でアンディーンとの戦闘で負けていたかもしれない。空腹は最大の敵だ、と師匠の家で読んだ本に書いてあった気がする……。

セシリヤは「いいえ」と首を左右に振るとシチューを口に運んでゆっくりと味わう。頬を緩めて「美味しいです」と笑みを向けた。


 「クルバさん、そんな顔しないでください。十分に美味しいです。それにクエスト前に持たせてくれたパンも燻製も美味しかったです。ありがとうございました」


 お礼をまだ言っていなかったですね、と付け足したセシリヤに息を呑んだクルバは一度後ろを向いて涙を拭いた。


 (あんた、この宿を続けていて良かったよ……)


 クルバは今は亡き夫の笑顔を思い浮かべた。正直に言えば続けるかどうか迷っていたのだ。経営どころか生活さえ危うくなっていた中、セシリヤともう一人の客が訪れた。もう一人は一泊だけですぐに出て行ってしまったが、セシリヤは数泊分の宿代を支払っていた。彼女が出て行ったら宿を畳もうと考えていたクルバは最後の客がセシリヤで良かったと心の底から思った。


 「どういたしまして」


 セシリヤの方を向いたクルバは満面の笑みを見せた。



♦♦♦




 入浴を済ませたセシリヤは久しぶりのベッドに大の字になった。ピー助も枕もとで跳ねている。地面とは異なり反発する枕に興味津々と言った様子だ。近くのテーブルに置かれたティルラが「ねー」と声を掛けた。


 「なーに?」


 「明日は朝から途絶えた水の調査に行くの?」


 ティルラの問いにセシリヤは体を起こして首を左右に振った。セシリヤの反応にティルラが疑問符を浮かべる。てっきり朝から調査に向かうのだと思っていたからだ。


 「調査の前に先にクエスト管理協会の支部に行かないと……」


 眠いのかセシリヤの瞼は落ちかけている。欠伸をしながら伸びをしたセシリヤはベッドに横になる。ポスン、と枕に頭を預けた勢いにピー助が驚いて飛び上がった。


 「支部に?」


 「そう……支部、に……報告しておかな、い、と……うるさ、く……て」


 それを最後にセシリヤは寝息を立ててしまった。


 ピー助がセシリヤの頬を嘴で軽く突いても起きる気配を見せない。完全に熟睡している。無理もない。パンディオンに続き、汚染されたアンディーンとの戦闘を連日行い、魔力の供給そして徒歩で帰ってきたのだ。疲労も蓄積していたに違いない。それでも「疲れた」と一言も零さなかったセシリヤにティルラは「お疲れ様、セシリヤ。おやすみなさい」と夢の中へと旅立った相手に声を掛けた。


 「いい夢を」

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