第6話 水の精霊ーアンディーン

 数か月前のことだ。湖で水の番をしていたアンディーンは洞窟に近づく気配に警戒を強めた。

 奥までたどり着いた侵入者が放つ気配は人間のものではなく、魔族が放つものだった。


 『何者です。魔族がこの地に何の用……』


 『あら、さすが精霊。私が魔族だって気付くなんて』


 でもまあ、と魔族は口角を吊り上げると胸の谷間から小瓶を取り出した。アンディーンは水の球体を作り女が手にしている小瓶目がけてそれを放った。しかし、それを女は空いている片手を軽く上げるだけで相殺した。


 『っ!』


 息を呑むアンディーンに女はわざとらしく目を丸くした。


 『まあ、危ない。初対面の人にいきなり攻撃をしてくるなんて』


 『そう言う貴女が手にしている小瓶はなんですか?』


 警戒心を解くことなくアンディーンが問うと、女は『これ?』と言いながら小瓶を軽く振った。中の紫色の液体が水音を立てる。


 『ふふっ、これはね……使ってからのお楽しみ』


 笑いながら瓶の蓋を開けた途端、中から気化した紫色の煙が当たりを包み込んだ。視界を奪われる前にアンディーンは水を纏い、女へそれを向けると水は蛇のような形を成し、牙を剥いて襲った。


 『いいわ、いいわ! 少し退屈していたところなの。遊びましょう』


 女は水蛇を躱しながら瓶を宙へ放った。液体は瓶から出て弧を描く。水蛇を避けた個所には水たまりが出来た。すぐに水蛇は姿を形成し、大きく口を開けた。アンディーンは空いている手で水を球体にして紫色の液体を包んだ。女が口角を上げたことに気付いていないアンディーンはそっと息を吐く。

 水蛇の口を片手で触れた瞬間、精霊の使役を解かれてただの水に戻り地面へと落ちた。二つの水を操っているせいで先度のようにすぐに水蛇作ることが出来ない。姿を形成するには少しの時間が必要になる。その時間を与えてやるほど優しくはない。女は長い髪を梳きながら『飽きたわね……』と小さく零した女の周りに小さな針の様なものがいくつも出現する。


 『その水ってあなたと繋がってるわよね』


 『……』


 答えないアンディーンにわざとらしく肩を竦めた女は口の端を上げた。


 『あの液体を水で包んだんでしょうけど、逆に好都合。それは水溶性だからもうあなたに浸透している頃じゃない?』


 そう言われたアンディーンが湖を見ると、汚染が始まっていた。


 『っ⁉』


 『透明よりもその色の方が私好みよ』


 くつくつ、と笑いながら片手を軽く上げた女はアンディーンへ向けて軽く倒した。すぐに彼女の周りに浮いていた細い針のようなものがアンディーン目がけて飛んでいく。それは瓶の蓋を開けた時に出てきた煙を圧縮したもの。毒性は吸収したものとほぼ同じ。針はアンディーンの体に突き刺さりゆっくりと浸透していく。


 『さあ、あなたはどれくらいで自我を失うのかしら……? 自我を失えばあとは汚染された水が溢れてこの土地を侵食する』


 女は『楽しみね』と言い残しこの場には用はないと言わんばかりに踵を返した。


 『ぐっ……、待ッ』


 手を伸ばしてアンディーンは目を見開いた。これはなんだ……? 紫色の腕。透明だった湖は黒く、穢れていた。


 ――汚れていく、黒ク、黒ク……。嫌ダ、ワタシハ……



 意識が混濁していく。穢れた水が流れれば周囲の植物や生物は死に、いずれは周辺の街へ広がっていくだろう。助けを求めたところで、誰もここへは来ない。それでもアンディーンは残り僅かな意識の中で助けを求めた。


 ――ケテ、助ケテ……。誰カ……

 ――ゴメン、ナサ、イ……。ゴメン……

 

 その言葉を最後にアンディーンは意識を失った。



♦♦♦




 話し終えたアンディーンは深く頭を下げた。


 「ティルラ様、セシリヤ様、ピー助様、助けて下さりありがとうございました」


 (……ピー助呼び)


 ティルラはツッコミを入れそうになる衝動に駆られたが、唇を引き結んで耐えた。今の雰囲気を壊すことはさすがに出来なかった。


 「汚染の原因を作った女は魔族だったのね?」


 セシリヤの問いにアンディーンは頷いた。


 「それは間違いありません。それも、下級魔族ではなく幹部クラスの上位魔族とみて間違いないと思います。私の力不足でこのようなことになり、人間の貴女を巻き込んでしまい申し訳ありませんでした」


 「無事に解決出来たんだからもういいわよ。それに、女神さまの力も分かったことだし」


 「もしかして信じてなかったの?」


 低い声音でティルラが言うが、セシリヤはキョトン、としている。


 「え……。だって出会ってからは魔力を吸収したのと、見張りしかしてないのに信じるも何も出来ないじゃない?」


 ねー、とピー助に同意を求めれば、ピー助は肯定するかのようにピィー、と鳴いた。


 (こいつら……)


 「まあ、でも」


 セシリヤがピー助を撫でながら続ける。


 「浄化している姿は本物の女神様みたいで綺麗だった……かも」


 小さく零しながら言うセシリヤにティルラは一瞬、目を丸くして遅れてやってきた相手の褒め言葉に頬を染めた。


 「きゅ、急に素直にならないでよ。照れるじゃない!」


 「う、うるさいな!」


 ぎゃーぎゃー騒ぐ二人にピー助も鳴きながら加わる。それを見ていたアンディーンはふっ、と笑い出した。静かだった洞窟の中は騒がしくなった。長い時の中でこんなことは初めてだった。そして、笑ったのも初めてかもしれない。


 「ふふっ」


 「え……」


 「は……」


 笑い声を聞いてセシリヤとティルラが同時にアンディーンを見た。


 「笑うところある?」


 「なかった……」


 今度は互いを見て首を傾ける。アンディーンは笑い終えると「すみません」と謝罪の言葉を述べた。


 「こんなに賑やかなのは初めてで、嬉しくてつい、笑ってしまいました」


 そう言って微笑むアンディーンにセシリヤとティルラは目をしばたたかせて、ふっ、と笑い合った。



♦♦♦



 セシリヤは伸びをしながら「さて、今度こそコランマールへ帰ろうかな」と言った。


 「あ。待ってください」


 出口に向かおうとするセシリヤをアンディーンが引き止める。振り向いた相手にアンディーンが近づいた。


 「手を出してください」


 言われて素直に片手を出したセシリヤの掌にアンディーンが触れた。すぐに離れていった先、セシリヤの掌に乗せられたのはアクアマリン色の石が嵌め込まれたブレスレット。


 「これは?」


 「この石は私の力が込められております。水を司る者として、何かお役に立てるかもしれません」


 微笑むアンディーンにセシリヤはブレスレットを着けながら「ありがとう」と礼を述べた。今度こそ出口に向かうセシリヤの後姿を見送ったアンディーンは深く頭を下げると湖の中に溶けた。




 洞窟から出たセシリヤは久しぶりの眩しさに眉を寄せた。


 「んー! やっと出られた」


 明るさに目が慣れて空を見上げながらセシリヤは大きく伸びをした。感じていた禍々しい気配は完全に消えており、空気が澄んでいる。


 「さてさて、それでは今度こそコランマールに向けて出発!」


 ピィー、とピー助が鳴いた。


 「飛行魔法で帰らないの?」


 歩き出そうとしてたセシリヤにティルラが疑問を口にする。片足を上げたままセシリヤが動きを止めて、ゆっくりと足を降ろした。


 「……誰かさんにごっそり魔力を吸収されたからね。私の魔力はすっからかんよ」


 棘のある言い方にティルラが反応する。


 「そ、それはしょうがないでしょ! 浄化するのに必要だったじゃない!」


 「そうだけど、すっからかんになるまで吸収されるとは思わなかったわよ」


 「あれだけの魔力を吸収されて倒れないってセシリヤの魔力どうなってるわけ?」


 「さあ? よくわからないのよね。吸収された魔力は時間は掛かるけど自動回復できるみたいだし。でも、すっからかんになるまで吸収されたのは初めてよ」


 肩を竦めながら言うセシリヤにティルラは「そう」と小さく返す。魔力が自動回復するのは知っている。けれど、回復速度が人並外れている気がするのはティルラの気のせいではないだろう。常識的に考えれば魔力が底をつけばしばらくは動けない。それどころか喋ることすら億劫になるはずだ。洞窟の中でセシリヤは普通と変わらなかった。


 (ほんと、不思議な子)


 「まあ、セシリヤが歩いて帰る元気があるならいいんだけど」


 「……あれ? もしかして心配してたの?」


 「……」


 セシリヤからの問いにティルラは無言になる。顔が見えなくとも声だけで分かってしまう。絶対に彼女はニヤケ顔をしている。ポケット越しに「ねー、ティルラ。ティルラってば~」とセシリヤが呼んでいるが無視を決め込んだ。諦めたようにセシリヤが口を閉ざして歩き出した。揺れるポケット越しに魔石に触れながらセシリヤは小さく呟く。


 「……ティルラ、ありがとう」


 小さな声で呟かれたお礼は本人に届いていた。それに気付いていないセシリヤはピー助と共にコランマールに向けて歩き出す。


 「こちらこそ、ありがとう。セシリヤ」


 女神のお礼も届いていたのか、少しだけセシリヤは頬を緩めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る